第二十話

「街中に異常はありませんでした。隊長は……今から出かけるのですか?」

「急用ができてな、少し出かけてくる」

 見回りに異常がなかったということは、アルヴァは街の外か……?

 夜の見回りを終えた二人の部下と別れ、馬小屋に向かう。殆どの馬は干し草に座り込んで眠っていたが、一頭だけ、耳元に花をつけられた馬がレオンの方を見ていた。花は切られてまだ間が立っていないらしく、瑞々しい白い花びらを広げている。この牡馬は、アルヴァのブラッシングを特に好む馬だった。

「お前、それは……アルヴァに貰ったのか?」

 控えめな嘶きを返した馬は、レオンが取ったその白い花をもふっ、と咥えて食べてしまう。茎まで食べきると、馬は軽く前足を弾ませた。

 施錠された外への門を開け、殆ど真っ暗な外に足を踏み出す。街の外へとつながる門は、日中は解放されており、夜間は騎士団の見回りが施錠するようになっている。アルヴァがどうやって外に出たのかは不明だったが、あの長身だ。あの背丈と大変力強い膂力を持ってすれば城下街の塀ぐらいよじ登れるだろうと、レオンは考えていた。

 馬を外に出し、城下街の門をそっと外から閉め直す。灯りを持って馬には乗れない。胃液がせり上がるような感覚を覚えたが、レオンは迷わなかった。月影だけが頼りの平原は、暗闇で草が蠢き海のように見える。それは、かつて彼が溺れた夜海のようで、レオンの脳髄に染みた。

 水面にあるのものを飲み込まんとする、真夜中の黒い海。

 この暗闇は、あの海ではない……っ……それよりも、今は……!

 喉元にせり上がってきた胃液をぐっとこらえ、強く手綱を握る。平原を見渡してはみるが、彼女に繋がる手掛かりは何一つない。焦りを感じつつ、レオンは浅くなった呼吸を整えようと深く息を吸った。

 こんな暗い中、一人でどこに行ったというのだろうか。

 背が高く、真っ赤な赤毛が遠目からでもよく目立っていた、真面目でひた向きな部下。彼女にもう二度と会えなくなってしまうのではないかという考えが、がむしゃらに馬を走らせる。今の彼には、暗闇よりもそのことの方が恐怖だった。

 ――目が慣れるまで、海の話を聞かせてくれませんか。

 震える手で手綱を握る彼の脳裏に、ふとアルヴァの柔らかな声が思い出される。アルヴァが教えてほしいと言った、彼の故郷の海。

 本当は、もっといろんな話を聞かせたかった。知らない場所について知るときの彼女は、本当に楽しそうだった。

 気づけば、レオンは牡馬を東の森の中にまで走らせていた。細い獣道を、速度を落として走らせる。森の奥へ奥へと進むほど、暗闇は色を濃くしていった。

「っ……アル、ヴァ……」

 生い茂る暗闇を前に心細くなり、レオンの声が震える。以前は、暗闇に放り出された彼をアルヴァが救いあげてくれた。だが今は、一筋の明かりであった彼女はいない。頭上から差し込む僅かな月明かりを頼りに、レオンはただひたすらにアルヴァのことを探していた。

 傷つけてしまったことを、怖がらせてしまったことを……もう一度会って、謝らなければ。

 不意に前方が明るく開け、レオンは馬を止める。眼前に広がっていたのは、月影を映す小さな湖だった。木々に囲まれた湖は、澄んだ湖面に波打つ三日月を浮かべている。その隅に、小さな布カバンを抱いて座り込む、見知った部下の姿も見つかった。

「アルヴァ……ッ!」

 馬から飛び降り、レオンは彼女の名前を口にする。驚いた彼女が立ち上がる間もなく、彼は彼女の傍に膝をつき、小さく丸まった両肩を掴んでいた。

「きつい言い方をして、すまなかった。お願いだからいなくならないでくれ」

 私は、お前がいなくなることに耐えられない。

 レオンがそっと両肩を放すと、アルヴァは視線を地に落とす。でも、と言いかけたアルヴァの言葉に、レオンは耳を傾ける。夜風が木々を揺らす音が、二人を取り囲んでいた。

「私、剣も上手く扱えなくて……隊長に、迷惑ばかりかけていて……っ……ほかの方からも『これ以上レオン隊長に手間をかけさせるな』と、言われていて……」

 だからもう、騎士団には戻れません。

 ごめんなさい。彼女がそう口にしたそのとき、三日月が雲に覆われ、辺りが暗くなった。完全な暗闇に、レオンの体がぐっと強張る。すぐ傍で震えた彼の背中を、アルヴァがいたわるようにさすった。

 大丈夫ですか、隊長。雲が流れれば、すぐに明るくなりますよ。

「っ、すまない……」

「いいえ。ここに来させてしまったのは、私ですから」

 暗闇が、夜が不得意な隊長を、こんな夜中に森に来させてしまったのは自分なのだと、アルヴァは鼻を啜る。雲の奥から三日月が顔を出すと、レオンはほっと脱力した。だが、その両肩は、まだ微かに震えている。「具合が悪いのですか」と不安げな表情になる部下に、彼は力なく笑ってそれを否定した。

「いや、その……恥ずかしい話なのだが、お前を探すのに気力を使い切ってしまってな……灯りもなしにこんなところまで来たのは初めてなんだ」

 だから、しばらくこのままでいてくれないか。

 かたかたと震えるレオンの片手を、アルヴァはそっと両手で包む。彼は頬がぐっと熱を帯びたのを感じたが、月影しかないこの暗がりの中では気づかれることもなかった。肌寒い冬場の空気のせいで、アルヴァの指先は冷たい。しばらくして、沈黙の中レオンが口を開いた。

「ほかの者たちが言うことは、気にしなくていい。私は、お前が成長していくのを心待ちにしてはいるが、面倒だなどと思ったことはないぞ」

 傍らで俯いた彼女の様子を、そっと伺う。暗がりに浮かび上がった白い肌は、レオンに何の情報も与えなかった。

「戻ってきては、くれないのか?」

 刹那、彼女の頬にぽたぽたと温かなものが滴り落ちる。それは、僅かな月影を反射して輝いた。かき消えてしまいそうなアルヴァの声に、レオンは耳を澄ませる。その囁きを彼は確かに聞いた。

 私が居ても、いいんでしょうか。

 いつもいつも謝ってばかりの、気が弱い泣き虫な部下。それが、本当はまだ騎士団に残っていたいのだという気持ちを、レオンは確かに耳にした。未だ震える手で、レオンはアルヴァの頭をそっと撫でる。月影に照らされた暗い赤毛に、浅黒い指がやわらかく手櫛をかけた。

「いいに決まっているだろう。そうでなければ、追いかけたりしない」

 戻ってきてくれるかと尋ねられ、アルヴァはぐず、と涙を拭きつつ頷いた。傍らの彼が胸を撫でおろし、長くゆったりと息を吐く。アルヴァが泣き止むのを待ち、彼は再び口を開いた。

「ただ、黙って出ていくのはこれっきりにしてくれ。お前がいないと知って、ファルロッテもいたくお前を心配していたからな」

「はい、あの……ごめんなさい」

 三日月が照らす湖面の傍で、アルヴァがふと上を向く。夜風に雲がすっかり流され、夜空を遮るものは木々の枝葉のみになっていた。

 隊長は、どうして騎士になろうと思ったのですか。

 投げかけられた言葉に、レオンは「そうだな……」と首をひねる。はらりと風に千切れた針葉樹の葉が、湖に落ちて水面を揺らした。

「私が奴隷だったことは、前に話しただろう。そのときに私を助けてくれたのが、騎士団にいた人だったんだ」

 レオンが助けられたのは、奴隷の売買が禁止されてすぐのことだった。商品としてではなく、人として助けられ自由になったかつての彼が望んだのは、助けてくれた騎士団の一員になることだったのだ。

「今はもういないが、イヴァン小隊長という人がいて、その人が私やほかの奴隷たちを解放してくれた」

 一通りの読み書きや常識も教えてくれたのだと、レオンは静かにほほ笑む。鳶色の目に映った懐かしい輝きを、アルヴァは傍らで聞いていた。

「隊長は、その人のようになりたいのですか?」

 黄色い瞳が、真っすぐにレオンの方を向いている。薄明りを反射するその瞳は、あるはずもない満月を彷彿とさせた。

「そうかもしれないな。小隊長になった今でも、あの人にはまだまだ敵わない部分があるような気がしている」

 あの人なら、アルヴァをもっとうまく導けたのかもしれない。

 ふと、レオンは懐かしい小隊長の後ろ姿を思う。今は亡き熟練の騎士のことを、彼は今でもはっきりと思い出せた。白金の髪に、褪せた翡翠の双眼。彼を導いた初老の騎士は、レオンの記憶に鮮やかな影を残していた。

 だが、そんなことを考えても仕方がない。今、彼女を導く立場にあるのは私なのだ。

 傷口を庇うようにそっと、彼はイヴァンの思い出をしまい込む。周囲を見渡せば、先ほど飛び降りてそのままにしてしまった馬は、湖の水を飲みながら大人しく待っていてくれた。

「そろそろ戻らなくては。すまない、待たせてしまった」

 まったくだとばかりに嘶いた馬は、アルヴァに近寄り鼻をすり寄せる。信頼する世話係との再会を喜ぶ馬に、アルヴァもまた親し気に鬣を撫でていた。

 森の向こうから、微かな朝焼けの気配が顔を覗かせている。レオンの腰に手をまわしたアルヴァは、不安げな表情で馬に乗っていた。

「そんなにしがみつかなくとも、落ちることはないと思うぞ?」

「それは、そうなんですけど……馬に乗るのは、まだ慣れていなくて……」

 レオンが手綱を持ち、その後ろにアルヴァ。馬は最初、二人乗りに対し文句を言いたげな様子で鼻を鳴らしていたが、この距離を歩いて帰ればいつ兵舎に戻れるかわからない。二人が鎧を着こんだ騎士でなかったことが、せめてもの幸いだ。

 朝焼けが紫の雲を照らし始めたころ、二人は城壁の前まで戻ってきた。レオンが鍵を持っているのを目にし、アルヴァは目をぱちくりとさせる。開いた門をくぐりつつ、アルヴァは感心した様子で鍵を施錠する様子を見ていた。

「門の鍵は隊長がお持ちだったのですね」

「普段は夜の見回りに行く者が閉め、朝一番の見回りの者が開けるようにしているが……お前は壁を登ったのか?」

「はい。昔、そうしてこの国に入ったので」

 城壁を軽々と登って出て行ったことに、レオンは特別驚いたわけではなかった。だが、彼女が闘技場の奴隷だったころ、そこを抜け出してこの国に入ったときもそうしていたとは予想外だった。

 そのころのアルヴァは、まだ年齢的にも小さかったはずだが……。よくこの高さを登ったものだ。

 レオンが尋ねると、彼女は「今よりは確かに小さかったですが、同い年の子たちと比べれば随分大きかったですよ」と笑う。馬小屋に馬を戻し、部屋に戻りかけたそのとき、アルヴァの隣の部屋から小さな物音がした。鍵が外される固い音とともに、キイィ……と控えめな金属音が響く。開いたドアから顔を覗かせたのは、金髪のファルロッテだった。

「アルヴァ! 心配していたんだよ」

 寝間着のワンピース姿で出てきた彼女は、はしっ、とアルヴァにしがみつく。そして、せっかくお友達になったのに、いなくなっちゃうなんて。と懐で唸った。

「ごめんなさい。でも、もう居なくなったりしません。約束します」

「本当? 絶対よ?」

 しっかりと懐から見上げてくる小さな友人に、アルヴァは声を落として笑った。

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