第十九話

 一仕事終えた後、二人は遅めの夕方を取ろうと食堂に向かっていた。冬の日暮れは早く、既に空は暗くなっている。中庭が見える外廊下を通る途中、レオンは中庭に不自然な者を見つけた。

 アルヴァ?

 今日は馬小屋の掃除を割り当てたはずのアルヴァが、倉庫の中に消えていった。不意に立ち止まったレオンに、傍らの男が首を捻った。

「どうかしたか?」

「すまない、少し倉庫に寄ってもかまわないか?」

 早足で倉庫に向かい始めたレオンの背中を、セロは慌てて追いかける。レオンの早足に追いつくには、彼は走らなければならなかった。

 倉庫のまわりには、枯れた雑草の残骸がいくつか残っている。レオンが扉を開けると、倉庫の隅で鎧磨きをする赤毛の後ろ姿があった。

「今日はお前に別の仕事を頼んだはずだが、何故ここにいる」

 静かな空間に、レオンの低い声が響く。振り返ったアルヴァはちゅっ、と肩を縮ませた後、蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」を重ねた。そうじゃないだろうと、レオンはため息をつく。鎧を磨くための古布を持ったまま、彼女は黄色い瞳を潤ませていた。落ちた針すらすぐ見つかりそうな場の気配に、セロが二人を交互に見つめる。再び口を開いたのは、レオンの方だった。

「こういうことがあったときは私かセロに言うようにと、前に言っておいただろう。忘れたのか」

「いいえ、その……ごめんさい、隊長……」

「っ、そういうことでないと言っているだろう!」

 声を荒げた瞬間、彼女はほろりと滴をこぼした。じわりと溢れたそれは、彼女の意志に反してぼたぼたと倉庫の床を汚してしまう。アルヴァは乱暴に涙を袖で拭いつつ、口を開いた。だが、そこから音が出る様子はない。セロが何か言葉を投げかけようとするより早く、アルヴァは二人の間を通り抜け、外に出て行ってしまった。

 残された落涙、使い古された布切れ。

 その場に残された痕跡を、レオンは拾い上げる。汚れ、端がほつれにほつれた布切れで、彼女はどれほどの仕事をしようとしていたのだろう。

「今のはきつく言い過ぎだぞ、レオン」

「しかし、いつまでもあんな様子では、アルヴァが……。彼女がもう少し強くなってくれなければ、ずっとこのままの状況になってしまいかねない」

 このまま、誰かに押しつけられた仕事を手放せず、ずっと一人で抱えて行くことになってしまう。レオンはどうしてもそれを避けたかった。きつく下唇を噛んだため、彼の口の端に赤い色が浮かぶ。ぐっと握りしめた拳を、セロが掴んで開かせる。手のひらには、赤い小さな爪痕ができていた。

「そうだとしても、だ。あいつにも、何か理由があったのかもしれねぇだろ。泣かせちまう前に、それぐらい聞いてやっても良かったんじゃねぇか」

 気のせいじゃなければ、あいつ何か言おうとしてたぞ。

 セロの言葉に、レオンは表情を強ばらせる。再び噛んだ唇の端から、熟れた赤が滲み出ていた。


 自室に戻った彼は、蝋燭に火を灯してため息をついた。暗がりだった部屋に、ぼんやりとした色の明るさが広がっていく。レオンの脳内に染みついているのは、先ほどの部下の泣き顔だった。

 どうして、あんなに声を荒げてしまったのだろう。アルヴァが泣き出してしまうことぐらい、わかっていたはずなのに。

 眠る気にならず、彼は椅子に腰掛ける。埃が蝋燭の炎で燃えるにおいが、鼻腔をくすぐった。アルヴァが、何を言おうとしていたのか。レオンはそれについて考えを巡らせたが、瞼の裏にはっきりと思い出されるのは、倉庫を出て行った後ろ姿と、ぼろぼろと泣いていた痛々しい姿だけだ。

 明日……いや、今夜のうちに謝りに行こう。朝を待つには長すぎる。

 彼は再び立ち上がり、燭台を片手に兵舎の自室を出る。鍵を閉めたレオンは、すぐ下の階にあるアルヴァの部屋に脚を運んだ。

「アルヴァ、すまないが少し話がある」

 扉をノックし、声をかけてみたものの、アルヴァの部屋からは何の応答もない。もう寝てしまっただろうか。数回ノックをして諦めかけたそのとき、廊下の向こうから小さな灯りが近づいてきた。

「レオン隊長、どうかされたのですか?」

「いや、アルヴァに少し用事があったのだが……」

 レオンに声をかけたのは、アルヴァの隣室のファルロッテだった。蝋燭の明かりに、解けた金色の髪がきらきらと輝いている。話を聞いたファルロッテは、自らも控えめにドアをノックした。

「アルヴァ、もう寝ちゃったの?」

 ドアは静かに閉まったまま、物音がする様子もない。ファルロッテが真鍮製のドアノブに手をかけると、ドアには鍵がかかっていなかった。するりと開いたドアの向こうを、ファルロッテが蝋燭で照らしてみる。照らし出された部屋には、ベッドとテーブル、そして椅子が沈黙していた。

「隊長、いないみたいです。変ですね、もう夜なのに……」

 レオンは一瞬、勝手に部下の部屋に入るのを躊躇した。だがテーブルの上に見えた影が気になり、そっと部屋に足を踏み入れる。テーブルの上には、真鍮製の鍵がぽつりと置いてあった。

 古い真鍮の鍵、一つとして見当たらない私物。

 部屋には家具以外の物はそれしかなく、アルヴァの服や、私物が何一つない。

「出て行った、のか……?」

 こぼれ出た彼の声に、ファルロッテが目を見開いた。「探してきます!」と言って走り出しかけた新米を、レオンが慌てて引き留める。そして、ぐっと声を落とした。

「アルヴァは私が探してこよう。ひとまず、彼女がいないことは黙っていてくれ」

 新米、それも若い女性を一人で夜の街に出すのは気が咎める。そして何より、アルヴァが出て行った原因は自分にほかならないと、レオンは確信していた。

「……アルヴァのこと、お願いします」

 か細く絞り出された声は強張り、喉元で震えている。やっと親しくなれた隣人と、彼女は別れたくなかった。ファルロッテに「必ず連れて帰ってくる」と約束し、レオンは急いで兵舎を出た。

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