第四章 月影
第十六話
広葉樹がすっかり葉を落としきり、山には針葉樹の深い緑だけがぽつぽつと残っている。盆地の冬は底冷えし、人々を外の往来から遠ざけてしまう。それは兵舎の中でも同様で、泥雪混じりの中庭に見えるのは、トレンチコートを羽織った赤毛の新米だけだった。
「すまない、少し遅れてしまった。見回りのついでに鍛冶屋にも寄るが、構わないか」
「はい、大丈夫です。武器の受け取りですか?」
昼間とはいえ、空は分厚い雲に覆われて薄暗い。鼻を抜ける冷たい空気に、レオンは肩をすぼめた。見回りの仕事で、彼がアルヴァと一緒になるのはこれが初めてではない。秋に負傷した他の隊員が見回りから外れているため、隊長である彼自身も見回りに多く加わるようになっていた。
兵舎から街へ出ると、この寒さもあって辺りには僅かに数名の通行人がいる程度だった。後ろをついてくるアルヴァを視界の端に捉えつつ、コツコツと煉瓦を鳴らす。緩やかな上り坂に差し掛かったそのとき、彼は右手の袖が引っ張られたのを感じて振り返る。誰の仕業なのかはいうまでもない。
「どうした、何か気になるものでもあったか」
「あちらに、私たちの仕事があるようです。いかがしましょう?」
アルヴァが指し示したのは、細い路地だった。そこにうずくまる塊からは、微かな異臭が漂ってくる。ただの遺体なのか、糸吊りの死体なのかはレオンには判断しかねたが、どちらにせよ、それを回収しなければならない。街の公衆衛生を保つこともまた、騎士団の仕事の一部だ。
レオンが声をかけてみるが、その塊は動く気配がない。腰から剣を外し、鞘の先でそっと塊を転がす。力なく崩れ落ちたそれは、骨と皮ばかりの老婆の遺体だった。
「動きませんね」
「行き倒れのようだな。通常の遺体のようだし、墓地に届けるとしよう」
鍛冶屋に行くために用意していた麻の大袋を広げ、二人が遺体を袋に入れようとした刹那、細く空気を割く音が聞こえた。彼はとっさに部下を突き飛ばし、不意の攻撃を受け止める。使い込まれた湾刀が、レオンの長剣と鍔迫り合いになった。
「何者だ!」
「何者でもいいだろッ! さぁ、そこの婆ぁを置いて帰ってもらおうか」
それとも、あんたらが新しい死体になってくれても構わんが。
フードつきのローブに姿を隠したその男は、レオンに弾かれて数歩後ろに下がった。すぐさま切りかかってくる相手を、レオンは素早くかわして打ち据える。舌打ちをした男に、レオンは言葉を投げかけた。
「何が目的だ。この遺体の身内というわけでもないだろう」
「俺は自分の墓地から出てった死体と、ほかに新鮮な死体がほしいだけだ。できれば、あんたみたいな若いのがな!」
男の一薙ぎに対応が遅れ、レオンの右腕が浅く切れる。袖を赤く汚す血滴が、乾いた煉瓦に滴り落ちた。
「男と女と一体ずつ、それなりに見栄えのいい新鮮な奴がいい」
お前らがちょうどいいんだがと、間合いを測る男は息をつく。男が再び動き出しかけた刹那、突如頭を強打して地面に突っ伏した。
「いって……ぇ! おまっ、卑怯だぞ後ろか「隊長、お怪我は大丈夫ですか」」
背後から後頭部を狙い蹴りした上、アルヴァは起き上がりかけた男の背中を踏みつけ、逃げ出せないようにぐっと重心を傾けていた。まるで容赦がない。
「大丈夫だ、すまない。お前がいてくれてよかった」
レオンは安堵した様子で剣を戻すと、アルヴァの足元でじたばたと暴れる男の元に膝をつき、フードを外す。濃い深緑をした短い髪の、レオンと年の近そうな若い男の顔が外気に晒された。
「お前の目的は何だ。この老人の遺体を使って、何をしようとしていた」
レオンの問いかけに、男は答えない。ただ黙ってそっぽを向くだけだ。そして隙あらば、アルヴァの下から抜け出そうとしている。しかし、男の背中にめり込んだ彼女の脚はびくともしなかった。
「……仕方がない。先にこの男を兵舎に連れて行こう。縄はあるか」
「はい、こちらに。足も縛りますか」
手足の両方を縛ってしまおうとする彼女に、「足はそのままにしておこう」とレオンが苦笑する。後ろ側でがっちりと手首を縛られた男は、ようやく抵抗を諦め大きなため息をついた。
「あーあ、丁度いいのが来たと思ったらこれだもんな。おっかねぇでか女だ」
「お前がまだ罪を犯していないなら、こちらも尋問だけですむのだが。その辺りは兵舎で聞こう」
手首と胴に縄を巻かれ、男は犬の散歩のような具合にされてしまっていた。むくれた男を連れて来た道を戻ろうとしたそのとき、アルヴァが縄を持つ隊長を見下ろし、眉尻を下げた。
薄青い布地を汚す、赤黒い滴り。
厚手のシャツの袖を汚し、中指の先からぽたぽたと滴り落ちる酸化した暗い赤が、アルヴァには気がかりだった。
「隊長、腕から血が出ています」
彼女は薄手のハンカチを取り出すと、細長く折り畳む。それを赤く湿った二の腕に、衣服の上からきゅっときつめに結んだ。包帯と比べると薄く強度もないが、傷口を圧迫する役割はそれなりにあり、滴り落ちる血液は程なくして勢いを落とした。
「戻ったら、医務室のラトニクスさんに診てもらってください」
「そうだな、すまない。後で洗って返そう」
「いえ、どうぞお気になさらず。早く兵舎に戻りましょう」
隊長の後をちょこちょことついて歩くのっぽの新米は、連行する男を後ろから静かに威圧していた。
「ふぅん、君もまた変なのに好かれたねぇ」
「あの男が好いているのは、私ではなく新鮮な遺体だと思うが」
医務室の主、ラトニクスは「どうかなぁ」と鼻の奥で笑いつつ、レオンの右腕の傷を綿でつついている。傷の出血は既に収まっており、ザクロのような瑞々しい一線が、皮膚の縁で潤んでいた。
「今回の怪我はごくごく軽いものだね。まぁでも、今日ぐらいはおとなしくしていた方がいいんじゃないかな」
青みがかった灰色の髪を耳にかけ、ラトニクスは手早く包帯を巻き終える。彼が血糊で汚くなった布切れをゴミ箱に捨てようとしたのを、レオンは危うく回避した。すっかり赤黒くなってしまった柔らかい布は、とても大事なものだ。
「あぁ、それと。彼女の稽古、ほどほどにしてあげなよ。元々の稽古もあるんだし、ほかの仕事だってあるだろうからね」
替えの服に袖を通していたレオンが、医務室の主に視線を向ける。働かせすぎだろうかとぼやく怪我人に、「まぁ、アルヴァは丈夫な子だと思うけど」と、棚に包帯を戻す背中が答えた。
「それで、結局今日は口を割らなかったのか」
「あの野郎、何にも言いやがらねぇ。腹が立つから、あいつの飯は抜きにしてきた」
食堂の隅で干された魚をつつきつつ、セロは目つきを悪くする。細かい傷が多い平皿には、レオンが市場で仕入れてきた白身魚の干物が横になっていた。魚から骨を引き剥がす際に身をくずくずにしてしまう彼の様子を、レオンは眺めている。彼の皿の魚は、綺麗に背骨を取り外されて半分ほどに減っていた。
「それで、そっちはどうだったんだ?」
「どう、とは」
「見回りだよ。赤いのと一緒だったんだろ? 修行の成果は出てたかってことだ」
彼に言われ、レオンは昼間の見回りについて思い返す。突然の襲撃にも動じなかった部下の様子が、脳裏にちらついた。
――隊長、お怪我は大丈夫ですか。
不意打ちでしっかりと援護してくれたことを告げると、向かいの彼は日が射したような空色の双眼を緩ませる。そして、くずくずになった白身をスプーンでちょいちょいと掬った。
「そんなら心配いらねぇな。俺としては、あの腹の立つ坊ちゃんを返り討ちにしてくれっとありがてぇんだが」
「それはまだ難しいだろう。オルトスの腕前はかなりのものだからな」
いずれだよ、いずれ。セロはそう言ってまた干物の身をくずくずにほぐし始める。向かいのレオンは、アルヴァが以前言っていたことを思い出していた。
――、闘技場の奴隷だったんです、私。ここに来る前まで。
闘技場にいたころは、どのようにして戦っていたのだろうか。
レオンが見るに、アルヴァの剣術は素人そのものだ。となれば、闘技場にいたころは剣を与えられなかった可能性が高かった。棍棒のような鈍器か、あるいは武器を持たされずに戦いに出されていたのかもしれない。
「そういやあいつ、蹴り技は割とうまいよな。お前を稽古でぶっ飛ばしたときもそうだったし」
「そうだな。剣技だけでなく、その辺りも伸ばしてやれれば良いだろう」
ただ、私はあまり蹴り技が得意でないのだが。
すっかり皿を綺麗にしたレオンは、未だ半分ほどで苦戦しているセロの様子を楽し気に眺める。「俺の分も食うか」と尋ねられ、彼は笑ってそれを断った。
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