第十五話

 結局、アルヴァの肩の傷は大したことはなく、大事には至らなかった。医者から二週間ばかりの療養を命じられた彼女には、窓拭きや書庫の整理、ちょっとした買い出し程度しか任せられなくなってしまったが。

「すまない、羊皮紙の追加を頼んでも構わないだろうか。急がなくとも構わない」

 昨日のことに関して、しっかり灸を据えなければならない者がいるから、なるべくゆっくり帰ってくるように。

 ため息とともにそう命令した隊長を見下ろし、アルヴァは控えめな笑みを零した。

「はい、大丈夫です。後でお釣りと一緒にお渡ししますね」

 とたとたと去っていく赤毛の後ろ姿は、昨日と何ら変わらなかった。

 ――だから、鎖をどう使えばどうなるのかは、とてもよく知っています。

 昨日、医務室で聞いた言葉が、彼の脳裏に響く。あんなものは、痛いうちに入らないのかもしれない。だが、怪我人に重労働をさせる訳にはいかなかった。

 彼は右脚をさすりつつ、残り少ない羊皮紙に昨日の騒動についてのまとめを書き綴る。ことの顛末についてはアルヴァから聞いていた通りで、セロが書いてくれた走り書きの報告書――彼は字がとても汚いのだ――とも一致した。セロの報告書ではどうにも字が読みづらいため、彼の報告書はレオンが書き直すのが常だ。

 ギィ、と鈍い金属音がしたため、報告書から顔を上げる。小隊長用のこの部屋に、ノックもなしで来るのは一人だけだ。

「よぉ、報告書書き終わったか?」

「ノックぐらいしろと、いつも言っているだろう。もう少しで終わる」

「そんならいいんだが。昨日の連中、端から全員集めといたぜ」

 会議に使う大部屋に置いてきたから後は頼むと、セロが机の端に腰掛ける。ボコボコにしちゃ駄目か。と尋ねる端麗な同僚を、レオンは「お前にやらせたら洒落にならない」と邪険にした。


 そのとき彼女を呼び止めたのは、そばかすの頬をした新米騎士だった。アルヴァがいつも以上に見下ろさねばならないその小柄な女性は、同期のファルロッテだ。

「どうかしましたか、ファルロッテ」

「……昨日、オルトスの代わりに怪我をしたって聞いたよ。腕は、大丈夫?」

 遠慮がちに見上げてくる濃い青色の両目に、アルヴァは大したことはなかったのだと軽く答える。アルヴァと彼女の背丈は、頭二つ分ほどの差があった。

「あのとき、私……レオン隊長を呼びに行くことしかできなくて。アルヴァみたいに、自分で何とかはできなかったんだ」

 きゅっと強く拳を握ったファルロッテの表情は、アルヴァからは見えない。纏められた長い金髪に、中庭の日差しが反射していた。

「いいえ、助かりました。出て行ったはいいものの、先輩方とオルトスの諍いを止められる自信はありませんでしたし」

 貴女があの場に居てくれて、よかったです。

 晩秋の冷えた風に、燃えるような赤毛が揺れる。平素と変わらない彼女の眼差しは、ファルロッテに麦の穂を思わせた。アルヴァが小さな布の鞄を持っていることに気づき、ファルロッテは用事があるのかと尋ねる。その答えに、そばかすの彼女は服の袖を指先で弄んだ。

「あの、よかったら一緒に行ってもいい? 今ちょうど仕事が一区切りついたところなの」

 前から、貴女とお喋りしてみたくて。

 ほんのりと赤らんだ彼女の鼻筋を、アルヴァが穏やかに見下ろす。冷えた秋風とは裏腹に、日差しはまだ暖かく二人を照らしていた。


 木々からの落葉も落ちきり、時折窓が薄く凍りつくようになったころ、レオンとアルヴァの稽古はまだ続いていた。

 素早く後退したレオンのすぐ脇を、弓矢の如くすり抜ける脚。次いで、真っ向からの迷いない太刀筋を、彼は木剣で難なく受け流した。剣を振り切ったアルヴァの左肩を狙い、素早く追撃を振るう。危なげに受け止められた一撃に、彼は満足げな眼差しを緩ませた。

「いいぞ、よく防いだ」

 まだ粗いが、それでも随分良い形になりつつある。よくがんばったものだ。

 いくら打ちのめされようと、彼女が木剣を手放すことはない。常に全力で食らいついてくる、純朴で獣のような勇敢さだ。

 再び攻撃の形を取ろうとしていた彼女が、ふと彼より後ろに目を向ける。さっと距離を取ったアルヴァの様子に、レオンが何か言おうとしたそのときだった。

「レオン隊長! 急ぎの報告書です」

 振り返れば金髪のファルロッテが、頬を赤くして白い息を吐いていた。急いで走ってきたに違いない。彼は礼を言いつつ、渡された紙に目を通す。そこに書かれていたのは、怪しい糸吊りの死体が五体発見されたということ、そして他部隊の騎士たち数名の負傷に関する報告だった。

「隊長、どうされたのですか」

 アルヴァが少し眉尻を下げ、レオンの方を伺っている。だがオルトスとは違い、勝手に覗き込むことはせずにいた。

「また糸吊りの死体だ。前に、お前とセロたちが遭ったと言っていただろう。あれがまた街に出没したらしい。幸い、別の隊に怪我人が数名出ただけだ」

 ほっと肩の力を抜いたアルヴァは「あの遺体たち《かたがた》は自然にお墓から出てくるのですか?」と首を捻る。それを否定したのはファルロッテだった。

「違うわ、アルヴァ。糸吊りの死体は、生き物の死体に魔法をかけなければできないよ。自然にできるわけじゃないわ。これは誰か、魔導師の仕業だと思う」

「魔導師、魔導師ですか……何か目的があってのことなのでしょうか」

 唸った彼女たちの隣で、レオンも難しい顔をする。主犯がいる可能性は高かったが、その目的や理由が何一つわからない。報告書の束が、風にめくられて乾いた音を立てた。


 茜色の空に、鱗のような雲が流れている。細やかな雪の粉が、夕日に溶けて雨粒になっていった。まだ夕食には早いころ、食堂からでたファルロッテは背の高い赤毛の同期を目にした。中庭に向かおうとしていたアルヴァの後ろ姿を、彼女は声を張って呼び止める。ぱたぱたと手を振るファルロッテに、アルヴァは表情を和らげた。

「お疲れさまです、ファルロッテ。どうかされたのですか」

「うん、ちょっと貰ってほしい物があって。アルヴァはどこに行くの? また、レオン隊長と稽古?」

 ファルロッテの問いかけに、アルヴァは「当たりです」と笑う。夕日に照らされた二人の髪は、どちらも鮮やかな赤色に染められている。濃い赤と、橙がかった赤。その二人の頬もまた、暖かな茜色が差していた。

 ファルロッテは、片手に持っていた網籠から、一塊の包装紙を取り出す。ほのかに香る甘い匂いに、アルヴァは首を傾げた。

「アップルパイだよ。さっき作ってみたんだ」

 もしよかったら、レオン隊長と一緒に食べて。

 包装紙の塊を二つ受け取り、アルヴァは表情を綻ばせる。彼女がそっと包装紙を開くと、三角形に切られたきつね色のパイが顔を覗かせた。

「ありがとうございます。ファルロッテはお料理が上手なのですね」

「まだそんなに色々作れるわけじゃないけど、これはお母さんに教えて貰ったんだ」

 また味の感想を聞かせてほしいと言い残し、彼女はちょこちょこと外廊下の方に遠ざかっていく。取り残された言葉に、赤毛の騎士は静かに目を閉じた。

 母さん。

 もう自分にはいないその相手を、彼女はふと思い出す。その一瞬、アルヴァが思い出したのはよく煮たカボチャの匂いだった。形が崩れてしまいそうなほど柔らかい、甘いカボチャの煮物。無性にそれが食べたくなり、アルヴァは廊下で一人、埃を被っていた思い出を掘り起こした。

「どうした、何かあったのか?」

 アルヴァが振り返ると、中庭にレオンの姿が見える。今行きます、と小走りで駆け寄ったアルヴァに、彼はほっと息をついた。

「隊長、稽古の前にこれを」

 ファルロッテからの差し入れなんです。

 不思議そうに中身を見たレオンは、それが甘い食べ物であると知り相貌を緩める。中庭の隅に腰かけ、二人は包装紙に包まれたアップルパイを頬張った。

「ほう。セロの料理も美味いと思っていたが、ファルロッテの腕前もなかなかだな」

「今度、感想を言ってあげてください。おいしかったかどうか、味の感想を聞きたいと言っていましたから」

 大きめに切られた林檎が、生地の中にぎっしりと詰まった具沢山なアップルパイ。それはほどなくして、二人の胃袋にしまわれる。腹ごしらえが済み、アルヴァの稽古はこれからだった。

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