第十四話

「こんなに腫れて……すぐにこちらへ連れてくるべきだった、すまない」

「いいえ。その、ありがとうございます。隊長」

 赤黒くべたべたになったブラウスを手洗い場に放置し、レオンは彼女の肩口に水にさらして冷えたタオルを押し当てる。肌着にも血が飛んではいたが、僅かなその汚れは殆ど乾いていた。ぐず、と鼻を鳴らしたアルヴァは、落ち着かない様子で「自分で、できますから……」と提案する。だが、レオンの答えは「いいから座っていろ」の一点張りだった。

 先ほど、急いで訪れた医務室はもぬけの殻で、医務室の主は何処かに出かけており留守だった。レオンは部下の患部を冷やし、圧迫することで止血を試みていたが、押さえた肩から滲み出る緋は、まだ勢いを失っていない。洗い場でタオルを洗っては戻ってくる彼の相貌は、いつもより色味を落とした土気色をしていた。

 ことの顛末を口にしたアルヴァに、レオンは薄い下唇を噛みしめる。長い沈黙の末、再び囁きを見せた唇は、刹那、薄い肌の色をし窪んでいた。

「そう、か……先ほどはすまなかった。オルトスを庇ってくれたこと、感謝している。だが、私には……お前が傷を負うことも、同様に悲しいことだ」

 あまり、怪我をしないでくれ。わかってくれるな。

 苦痛を抱いた鳶色の双眼に見つめられ、彼女は「がんばります」と控えめな返事をする。微笑んだレオンの様子に、黄色いアルヴァの両目がぱちくりと瞬いた。

 幾分出血の勢いが治まったころを見計らい、レオンは医務室の戸棚から包帯をひと巻き拝借する。椅子に座った彼女の側に立ち、レオンは慣れた手つきでそれを扱う。引き気味に、きつめに巻かれていく包帯。アルヴァの白磁をした肌はやや青褪めていたが、その表情は平時の様に穏やかで、瞼はいつも通り腫れぼったくしけっていた。

「先輩方も、本気で振るった訳じゃないんです。本気なら、人の皮なんてすぐに抉れてしまうはずですから」

 だから大丈夫なのだと語る部下に「随分詳しいんだな」とレオンは不思議そうに彼女を見下ろす。赤毛の彼女は、依然穏やかな様子で思い出を紡いだ。

「闘技場の奴隷だったんです、私。ここに来る前まで」

 褐色の手から包帯が滑り落ち、床に一筋の軌跡を描いていく。緩んだ巻きかけの包帯から、生暖かい紅が伝い落ちていった。

「山間の集落にいたんじゃ、なかったのか……?」

「はい、幼いころは。そこからごっそりさらわれて、気がついたときにはもう、闘技場に売り渡されていたんです」

 今でこそ、この小国では人身販売の類は重罪とされているが、十数年前までは――アルヴァがまだ幼い少女であったころまでは――未だ人の命が金貨より軽い時代があったのだ。闘技場に売り渡された奴隷がどのような目に合うか、レオンはあまり知らない。だが、見世物として命のやり取りを、望まぬ戦いを強いられることは間違いなかった。

「だから、鎖をどう使えばどうなるのかは、とてもよく知っています」

 日常の業務について語るときと同様に、耳に心地よい木琴のような。アルヴァの声は、午後にさえずる名も知れぬ鳥のような、穏やかさそのものだった。

 隊長、包帯が。

 彼女が拾おうとしたそれを、レオンは慌てて拾いあげる。床を転がってしまった分については切り捨て、レオンは再度、アルヴァの肩に包帯を巻き直し始めた。

「ごめんなさい、気分を害してしまいましたか? 平時にする話ではなかったかもしれません」

 手当の礼とともに、彼女の頭が俯く。だが傍らの騎士は、それを否定した。

「いや、謝る必要はない……驚きはしたが。そうか、いや――」

 私たちは、少しばかり似た運命を辿っているのだな。

 消毒液のにおいに、包帯を引く物音に、掻き消えそうな声だった。海鳴りのような、低く落ちる囁き。だが、紡がれた糸は、手負いの部下に確かに届いていた。

 隊長も、命の軽さをご存じなのですね。

 テーブルに置かれた蝋燭灯りが、夜風で淡く揺れている。落陽が海に沈む囁きを、二人だけが聞いていた。

「私は兄姉きょうだいが多くいる家の末っ子でな。ある程度の年齢になったころに、両親から人買いに売り渡されたんだ」

 人間扱いこそされなかったが、商品扱いされていたからな。鞭で追いやられたり、酷く乱暴にされたりすることはなかったが。

 その点ではお前より平和な奴隷時代だっただろうと、レオンは控えめに笑う。巻き終えた包帯の端をそっと結び、彼はアルヴァの隣に腰を下ろした。腕は大丈夫かと尋ねられ、彼女は小さく頷く。消毒液のにおいが、レオンの鼻の奥にじわりと染みた。

「アルヴァ、お前はどうして騎士になろうと思ったんだ」

 闘技場にいたならば、痛い思いも辛い思いもしただろうに、彼女は自ら戦いの場に戻ってきた。それは強いられる戦いでないとはいえ、レオンには不思議でならなかったのだ。入隊当初より長くなってきた赤い髪が、消毒液のにおいの中で静かに音を立てる。黄金色の眼差しに、蝋燭の灯りが光を灯していた。

「私の毎日は、望まない戦いと命のやり取りばかりでした。あのころはいつも、静かで平穏な明日を望んでいたんです」

 自分の明日も誰かの明日も、静かで平穏なものにしたいのだと、彼女は目を閉じる。やがて開かれた眼差しは、穏やかな黄昏を灯していた。

 私よりも、セロさんやレオン隊長、それにオルトスやファルロッテたちの方が、きっともっと上手くやれるのでしょうが……。それでも、出来ることなら自分の手でも成してみたいんです。

 アルヴァは熾火のような静かさで答える。平穏な明日のために、ほろほろと泣いても剣を手放さない。何度でも立ち上がるのは、見ず知らずの誰かのためでもあった。

 隊長は……。そう彼女が言い掛けたそのとき、閉めてあった医務室のドアが、甲高い音を立てた。扉の金属が酷く軋んでいる。

「ん? なんだ、あの医者はいねぇのか。腕、どんな感じだ」

 入り口からひょっこり顔を覗かせたのは、先ほど食堂の騒動を任されたセロだった。その後ろに、余所を向いて前を見ようとしない茶髪の新米もついてきている。医務室に足を踏み入れた小柄な彼は、後ろで足を止めかけた後輩を強引に引きずり入れ、医務室のドアをきっちりと閉めた。

「大丈夫です、セロさん。ご心配をおかけしてすいません」

「お前が謝ることじゃねぇだろ。まぁ、大したことなさそうなら良かったが」

「セロ、食堂の方は一段落ついたのか?」

 レオンの問いに、彼は「明日シメるから首洗っとけっつっといたぞ」と不服そうな声で報告する。そして、後ろに居たオルトスをアルヴァの側まで押しやった。

「おら、何か言うことあんだろ」

 長椅子に腰を下ろしたアルヴァの側に追いやられ、オルトスは戸惑った様子を見せる。いつもは見上げてばかりだった彼女が、今の彼には幾分小さく見えた。

「日没、何で助けた」

 紡がれた言葉は、短く端的だった。その問いの投げ方に、セロが後ろで殺気立ち、レオンが肝を冷やしていた。だが、当のアルヴァは何ら気にすることなく、碧眼の冷たい両目を見上げている。この場において、怪我人だけが心穏やかだった。

「貴方が騎士団に有益だと思ったからです、オルトス」

「……このお人好しが」

 オルトスは短いため息をつくと、アルヴァの額を軽く指先で弾く。あてっ、という気の抜けた声とともに、セロの怒号が飛んだのは言うまでもなかった。

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