第十三話

 太陽が空の頂点を過ぎ、日差しの温もりが消えつつある頃、廊下を行くレオンは中庭に赤いひとかたまりの紅葉を見た。

 ……あぁ、彼女か。中庭の隅で何をしている?

 首の後ろに手を添え、アルヴァは髪をまとめているように見える。うっすらとした白い項に、よく手入れされた刃物がすっと近づいた。

 項の古傷をなぞるように肉薄した、日光に明るい白銀の刃。

「何をしている!」

 びくりと肩を振るわせた彼女の手元から、鋭利な刃物が離れて落ちる。地面に刺さったナイフもそのままに、レオンは彼女に詰め寄った。

「今、何をしようとした!」

 張りつめた弦にも勝る、逼迫した鳶色の双眼。

 強い瞳にきつく見上げられ、アルヴァはきゅっと首を縮込ませる。ほろりと落ちた水滴が、地面に小さな染みを作った。

「ふぇっ……」

 ぼろぼろと溢れ落ちる落涙が邪魔をして、アルヴァは上手く言葉を紡げない。たどたどしく紡がれた言葉は、酷く日常的な響きだった。

 髪を短くしようと、思って。ごめんなさい、駄目でしたか。

「髪、を……?」

「首にかかるの、が……邪魔になって、きたので……」

 何とか泣きやもうと涙を拭う部下の様子に、レオンはすべてが勘違いであったと合点し、ほっと胸をなで下ろした。そして、誤って泣かせてしまったこの赤毛の騎士をどうすべきかと言葉を選ぶ。ややあって、彼はよしよしとアルヴァの背中をさすった。

「刃物を首に近づけていたから、何事かと思ったが……すまない、怖がらせてしまったな」

 危ないことをしているのでなければ、何も問題はない。

 彼女が泣きやむのを待ちつつ、レオンは真っ赤な頭髪を見上げる。肩につくかつかないか程度の短髪だったが、彼女はこれを邪魔だから切るという。明るく燃える炎のような、山際の太陽のような、見事な赤毛だ。

「括るという方法もあるが、短くしてしまうのか?」

 括る?と首を傾げた彼女を、レオンは中庭の木陰に座らせる。まだ少し鼻声のアルヴァは、髪を触られている間じっとおとなしくしていた。浅黒く大きな指が、赤毛にそっと手櫛をかけていく。真っ赤な緋は首の後ろで綺麗にまとめられ、細い革紐できゅっ、と結ばれた。

「これで首元がすっきりしたと思うが、どうだ。よく似合っていると思うが」

 髪を結んで貰ったアルヴァは、ほすほすと束ねられた自分の髪を触っている。彼女が「括り方を教えてほしい」というまでに、そう時間はかからなかった。

 やり方を見た方が早いだろうと、レオンは彼女より長い自らの髪を解きにかかる。まだ浅い夜空のような、青みがかった暗い髪は、背中ほどで綺麗に揃えてあった。

「隊長の髪は、湖の色をしていて綺麗ですね」

「そうか? 私は、お前のような赤い色も良いと思うぞ」

 櫛があればもっと良いのだが。こういう風にして纏めて、革紐で結べばいい。

 再び束ねられた紺藍の長髪を、アルヴァはしげしげと後ろから眺めている。自分の髪を括ろうと奮闘したアルヴァがくちゃくちゃになった結び髪を作ったのを目にし、レオンは「少し、練習が必要だな」と笑った。


 日も沈み、帳の降りた暗い空には小さな星の瞬きがこぼれている。共用の食堂の一角で、騒がしい不協和音が響いた。

「お前、いい加減にしろよ! ちょっと剣の腕がいいからって調子に乗りやがって」

「実力のあるなし以前の問題だと思うが。何なんだ一体」

 オルトスを囲む数人の騎士たちはみな男で、そのうちの三人は同じレオン小隊長の隊に属する中堅の騎士たちである。ほかの騎士たちにこの騒ぎが聞こえていないはずがなかったが、誰も囲まれた新米を助ける気はない。息も荒くオルトスの胸倉を掴んだシヴァルは、そのまま彼をぐっと引き寄せ、乱暴に隅へ突き飛ばした。椅子を巻き込んだ大きな音がし、オルトスが尻餅をつく。テーブルの隅に置かれていた空きのワインボトルが、突き飛ばされた彼にぶつかり、粉々に割れてしまった。

「俺らどころか、レオン隊長にまで生意気な口ききやがって! どこの馬の骨か知らねぇが、いい加減騎士団の上下関係を守ってもらおうか!」

 ワインボトルの破片に気をつけつつ、オルトスは壁にそって立ち上がる。侮蔑を隠しもしない翡翠の双眼が、眼前の男たちを見据えた。

「剣の腕もなければほかに秀でたところもない。ただ年齢に胡坐をかいているような奴らを、なんで敬わないといけない」

 ここはそんな連中ばかりなのか? 吐き気がする。

 はっ、と彼がせせら笑った刹那、別の男の蹴りが中空を薙ぐ。腹部に重く沈んだ一撃に、茶髪の青年はぐったりと床にうずくまった。

「親の躾が悪かったんだろ。俺らで躾けなおしてやろうぜ」

「生意気な後輩には、躾けが必要だよなぁ」

 男たちのうちの一人が、食堂の外から錆びついた鎖を手に戻ってくる。中庭の隅に置きっぱなしになり、雨ざらしになっていた細めの鎖だ。いいじゃんいいじゃん、やっちまえよ。きっとすぐ物分かりが良くなるだろうと、品のない笑い声が響く。食堂に入ろうとしていたそばかすの新米が、その様子を目にし、慌てて踵を返した。

 鎖を目にしたオルトスが表情をこわばらせ、急いで立ち上がろうとする。だが腹部に痛みがまだ残っており、うまく立ち上がれない。刹那、振り下ろされた銀筋の一振りに、彼は目を閉じた。

 振り下ろされた銀の鞭、沈んだはずの夕日。

 頭上に聞こえるどよめきに、オルトスが顔を上げる。彼の前にはぽたぽたと滴る血滴と、真っ赤な赤毛の後ろ姿があった。

「日、没……お前、なんで……」

 絞りだされた声には、いつもの冷たさはない。彼は今、自身を庇った彼女をただ見上げていた。振り返ったアルヴァの両目は、いつものように穏やかな黄昏の色だ。

 怪我はありませんか、オルトス。

 振り返った彼女が紡いだ言葉はそれだけで、向けられた穏やかな視線はすぐに眼前の騎士たちに向かう。女とはいえ、年下とはいえ、自分たちよりはるかに長身な新米騎士の登場に、一同は完全に動きを止めていた。

「もし、オルトスが何か失礼なことをしたのであれば、同じ新米として謝ります。申し訳ありません。ですが、どうか……彼の利き腕を傷つけるようなことは、おやめください」

 アルヴァの右肩はワインをこぼしたかのように赤く、クリーム色だったブラウスの袖は見る間に赤い波に浸食されていく。肩口に至っては服の袖が破け、勢いよく振るわれた鎖によって傷ついた皮膚がむき出しになっていた。中指を伝い、指先から滴り落ちる葡萄酒。それが床に小さな水溜まりを作り始めたそのとき、蝶番の大きな悲鳴が食堂内に響き渡った。

「お前たち、これは一体どういうことだ!」

 レオンの一喝に、一同がびくりと肩を震わせる。レオンの後ろには、小柄なそばかすのファルロッテが控えていた。ずかずかと食堂の奥に足を踏み入れた彼が真っ先に注目したのは、赤毛の騎士だ。彼女の腕が赤く濡れそぼっていることに気づき、レオンの顔がさっと青ざめる。無事な方の腕を掴み、彼はアルヴァを見上げた。

「この怪我はどうした!? こんなに出血して……っ……」

 何があった。そう問い詰める隊長の勢いに気圧され、長身の新米は幾分小さく身をすくませる。何か言おうとして口を開きかけた彼女は、ややあってぽろぽろと夕立を綻ばせた。

「ごめ、なさ……っ……オルトスが、危ないと、思って……」

 穏やかだった黄金色の両目から、はたはたと滴り落ちる落涙。鎖に鞭打たれても動じなかった、けれどもこんなことで泣き出してしまう、強くて脆い赤毛の騎士。それにどよめいた男たちの後ろから、ドスを聞かせた低音が響いた。

「誰が、俺の可愛い妹分に怪我させた? 誰でもいいから説明しやがれ」

 こちらは小さくとも物騒な、水色の髪の青年だ。セロの声に、男たちが情けない悲鳴を上げる。ようやく立ち上がったオルトスがセロに状況を話し始めたところで、レオンは彼の側を通り抜けた。

「セロ、ここは任せてもいいか。医務室まで行ってくる」

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