第三章 ささくれ
第十二話
「それにしても、お前はすぐに足元をすくわれてしまうな」
翌朝、朝の稽古で転びに転んだアルヴァを引き起こしつつ、レオンは少し落ち着かない様子で目をそらした。稽古が終わり、ほかの新米たちはまばらに各々の雑務に向かっている。ファルロッテが小走りで馬小屋に向かうのを眺めつつ、レオンはアルヴァに今日の雑務について尋ねた。
「今日はこれから薪割りと、食堂のお掃除があるんです」
そう答えたアルヴァの眼差しは、木々を微かに揺らす風のように穏やかで、昨日と何ら変わらなかった。だがレオンの方はそうはいかず、彼女に見下ろされると視線がふわふわと泳いだ。
「その、昨日はすまなかった。あのときは聞きそびれてしまったが、なぜあんなところで寝ていた?」
「いいえ、お気になさらないでください。それで、その……」
言葉の続きを紡ごうとした唇が、途中でつまずいて転んでしまう。アルヴァの口から形を持った言葉が導き出されるのを、彼は急かさずに待っていた。
「あの、ごめんなさい。昨日は……皆さんが早々にいなくなってしまわれたので……」
「いなくなった?」
おろおろする彼女に、レオンは訝し気な声を投げかける。たどたどしく言葉を選ぶアルヴァは、彼の眉間に皺が寄ったことに気づいて肩を強ばらせた。
「先輩方が『これぐらい、お前一人でできなくてどうする』と、倉庫を出ていってしまいまして……」
澄んだ朝の空気に混じり、レオンの大きなため息が風に流れていく。まごついたアルヴァのブラウスの首筋が、汗でしめっていた。
「……次からそういうことがあった場合、私かセロに報告してくれ。一人で大変だっただろう」
また灸をすえなければならない人間が出たか……。
眉間に皺を寄せた隊長に、アルヴァは「ごめんなさい」と視線を地に落とす。お前が悪いんじゃないだろうといえば、彼女の赤毛がふわりと揺れた。
「私が、もっとちゃんと剣を扱えれば、きっと隊長の手を煩わせることはないと思うんです」
それは、至極もっともなことだった。しかしそうだからといって、この現状を彼女自身のせいだとは、レオンにはとても思えなかった。倉庫中の武具すべてを一人で手入れしようとして、途中で疲れ切って眠ってしまったこの控えめな部下を。
「そうだとしても、これはお前のせいじゃない。頼むから謝らないでくれ」
陰りを見せた黄色い双眼に、彼は眉間の皺をより深くする。鎖骨にかかるアルヴァの赤い髪が、秋風にさらわれて落葉のように見えた。
こぢんまりとした部屋に、古い木製の机。厚いクッションがついた背もたれつきの椅子。報告書やいくつかの資料を片手に、レオンは騎士団の団長がいる一番奥の部屋を訪れた。椅子に腰掛けた男はレオンより二回りは年上で、白髪交じりの灰色の短髪と赤褐色の鷲に似た眼孔を持っている。別の書類に目を通していた男は、入室してきた小隊長に顔を上げた。
「あぁ、お前か。どうした」
「報告書と、指示があった糸吊りの死体に関する資料です」
書類を手渡し、レオンは団長室を後にしようとする。だが、半歩下がりかけた彼は低い声に呼び止められた。
「ところで、名を何と言ったか……あの赤毛の、背丈のある女はどうしている?」
「アルヴァリタ・レグルスです、隊長。彼女が何か」
鳶色の目がゆっくりと瞬き、団長の様子を伺う。団長の口から新米についての言動がこぼれたことが、彼には意外だった。団長は団員の存在についてはきっちり把握していたが、名前を覚えることが酷く不得意で、レオンも騎士団に入って数年は「褐色の」呼ばわりされていた。
「あれが馬小屋にいるときは、きまって馬の機嫌が良いのでな。小屋掃除の割り当てを増やしてはどうかと思っているのだが、どうだ」
「そういうことであれば、割り当てを変更しておきましょう」
外の見回りで活躍する馬の機嫌は、良いに越したことはない。
そういえば前にアルヴァが馬小屋にいたとき、確かに馬たちの機嫌が良かった気がするな。
団長がふと後ろの窓を振り返ったため、レオンの視線も窓の向こうに移る。視線の先には、せっせと薪割りをする赤い頭があった。
「剣技は未だおぼつかないと聞いているが、斧の振り下ろしは悪くないようだ。時間はかかるだろうが、あれは良い騎士になるだろう」
かつて、お前がそうであったように。
ときに、お前はまだ暗いところが苦手なのか。と、団長はレオンに視線を戻す。「申し訳ありません」と俯いた彼に、団長は朗らかに低い笑い声をこぼした。
「誰しも苦手なものはある。お前の場合は、それが少し珍しいものではあるが。その点において、お前はあの新米とよく似ているな」
根気よく稽古につきあってやるようにと、団長は赤い双眼でレオンを捉える。窓辺から差し込む日差しに、小さな中空の埃が照らされていた。
「余計なことはせずに、大人しくついてくるんだぞ」
シヴァルの言葉に、オルトスはぶすっとした面持ちのまま黙ってうなずいた。今日の見回りは、先輩であるシヴァルと新米のオルトスの役目だった。シヴァルの後ろについていくオルトスは、街中の様子を眺める。それなりに人通りはあったが、ついていくのが困難なほどの込み具合ではない。八百屋が客引きで声を張り上げているのを聞きつつ、二人は商店街を通り過ぎた。
そういえば、あのときはこの辺りだったか。
果物屋の前を通る途中、ふとオルトスは先日の見回りについて思い出す。不意に襲ってきた糸吊りの死体。迷わず飛び出していったアルヴァの後ろ姿や、鼻をつく腐敗した臭いを、オルトスは鮮明に覚えていた。また、何か出くわすかもしれないと、彼は周囲への警戒を強める。腰に下げた長剣を確かめ、オルトスはシヴァルの後ろ姿を追いかけた。
大通りをぬけると、通行人の数はぐっと減る。黙ってついてきていたオルトスは、ふと物陰から怪しい物音がするのを聞いた。
「ちょっと待て、今何か……」
「あのなぁ、お前はいい加減言葉遣いを何とかしろよ」
シヴァルが苛立ちを隠しもせずに振り返った次の瞬間、視界に妙なものが映る。路地から勢いよく飛び出してきたのは、若い女の死体だった。咄嗟に身を翻し、オルトスはその異臭がする者から距離を取る。出会うのは二度目とはいえ、彼はこの臭いに軽い吐き気を催した。
この臭い、日没は何で平気だったんだ……あいつといい、セロ《チビ》といい、鼻がイカれてるのか?
吐き気を堪えつつ、オルトスは剣を構える。シヴァルも慌てて剣を抜いたが腰が引けており、再び襲い掛かってきた死体の腕に剣を弾き飛ばされた。
「下がってろ、邪魔だ!」
せり上がってくる胃液を飲み込み、オルトスはシヴァルより前に出る。飛びかかってきた女の死体を長剣で受け流すと、そのまま右腕を斬り落とした。ごとりと落ちた屍の腕からは、一滴の出血もない。死体が残った方の腕を振りかざしたと同時に、オルトスが素早く後退する。刹那、死体の胴から長剣が突き出した。
「……今のは褒めてやる、新米」
「別に、あんたがいなくても何とかできたと思うが」
糸吊りの死体を突き刺したのは、シヴァルの剣だった。動きを止めた死体から離れ、オルトスは深呼吸をする。澄んだ空気に安堵した彼を、シヴァルが突き殺さんばかりの相貌で睨みつけていた。
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