第十一話

 雨粒が落ちる音に、水底から意識を引き上げられる。ぼんやりとした視界は、瞬きを繰り返すことではっきりと輪郭を取り戻した。書類で散らかった机の上で、カンテラの灯りがちりちりとくすぶっている。周囲の薄暗さに窓の方を見れば、既に空は暗闇に満ち夜を迎えていた。

 もしかしなくとも、寝てしまっていたのか。

 書類の始末をする最中に、レオンはいつの間にか眠ってしまっていた。体を伸ばせば、小気味良い音を立てて背骨や首が鳴る。腕の下に敷いていたのは、確認しなければならない武具の在庫リストだ。

 本当なら倉庫で確認をしてから、今日の仕事を終えようと思っていたのだが。

 つけっぱなしになっていたカンテラの油は、減ってはいたもののまだ三時間ほどは持ちそうに見える。確認にはそう時間はかからない。中途半端なまま仕事を投げ出すより、手早く片づけてしまった方がいいように思えた。

 カンテラとリストを片手に、レオンは足音を忍ばせる。まだ就寝には早い時間だが、あまりやかましくするのはやめたほうがいいだろうと思ってのことだ。

 兵舎のはずれにある倉庫の扉を、ゆっくりと引き開ける。錆びついた金属の音に驚かされつつ、奥に向かった。

 一番端から、リスト通りの武具があるか確認しなくては。

 油や砥石で手入れされた剣は、鞘にしっかりとしまわれて木箱に詰め込んである。一箱、二箱と確認していたところ、倉庫床に小さな布が落ちているのが彼の目にとまった。

 黒く汚れた、ハンカチほどの白い布。

 手入れを担当していた者が片づけ忘れたものだ。レオンがそっと布を拾い上げたそのとき、物陰に布切れとは比べものにならない問題を見つけてしまった。

 槍を立てて収納した、大きめの木箱。その影に、見覚えのある赤が転がっている。

 長い手足を小さく縮込ませ床に転がっている、手の掛かる新米。

 雨音でかき消されてしまいそうな寝息をたて、丸まって心地よさそうに眠っている、彼女。

「アル、ヴァ……?」

 武具の手入れは、確かに任せた。だが、任せたのは彼女だけではない。仮に仕事の最中に眠ってしまったとしても、同じ作業を任せた部下に起こされるはずだ。なのに、なぜこんなところで……。

 カンテラを一旦置き、レオンが彼女の名前を口にする。軽く揺さぶると、ようやく瞼の下から鮮やかな黄色が覗いた。

「こんな遅くに何をしている。風邪をひくぞ」

 まだ頭がはっきり目覚めておらず、アルヴァは目をしょぼつかせる。緩慢な動きで起きあがった彼女にレオンが注意をしようとした瞬間、蝶番の悲鳴が響いた。強い夜風が倉庫の扉を強引に開け、中に吹き抜ける。じゅっ、と乾いた音がしたと思ったときには、見えていたものがすべてかき消えた。

 駄目だ。何も、何も見えない。わからなくなってしまう。

 周囲の様子が見えなくなり、レオンの表情が強ばった。頭の後ろで寒気と吐き気が綯い交ぜになり、その場に膝をつく。黒く、暗く塗りつぶされた視界は、彼がいくら目を見開いても変わらない。

 あぁ、駄目だ。落ち着かなければ。

 息をするごとに痛む胸の内側を、何とかしようとすると余計に呼吸が引っかかった。レオンが手探りでカンテラを探そうとすれば、何か別のものに指先がぶつかる。それは強ばった彼の手をそっと包み、静かな声で名前を呼んだ。

 上を、ずっと上を見てください。月影が見えるでしょう?

 もはやどこが上なのか定かではなかったが、レオンは暗い中で上とおぼしき方を向く。目を凝らすと、倉庫の壁の隙間から一筋の明るい針が差し込んでいた。

「見えましたか、ちょっとだけですけど、真っ暗じゃないでしょう?」

 だから、大丈夫です。そのうち目が慣れて、見えるようになります。それまでじっとしていましょう。

 柔らかく届いた声と、傍らの気配。レオンにそっと触れた手の先に、アルヴァがいることが確かに感じ取れた。浅くなった呼吸を和らげようとしてくれているのか、彼女の手が背中をやわやわとさすっている。

「っ、すまない……暗いところが、その、あまり……得意ではなくてな」

 整いきらない呼吸のせいで、彼女に現状を伝えようとした言葉が切れ切れになってしまう。何も見えないこの状況が、昔、溺れた夜海のようで。そして何より……灯りがない真っ暗闇がどうしても、レオンは苦手だった。

 アルヴァは、今の私をどう思っているのだろう。ただちょっと灯りがないだけで、こんな風に取り乱してしまう男を。

 努めて平静を装いたかった。だが、彼は手が震えるのをどうすることもできない。アルヴァが見つけてくれた光は、心強かったが縋るには余りに遠く小さ過ぎた。

「隊長」

 聞こえてくる声に、少しだが彼の気持ちが落ち着く。彼女に対して恥ずかしさと申し訳なさはあったが、それでも一人でこんな場所にいるよりは、アルヴァがこの場にいてくれるだけでありがたかった。情けなく震える力強い手を、細く長い指がそっと包んでいる。夕暮れどきのような、優しい確かな暖かさだった。

「隊長は、私がすぐに泣いてしまうのを、いつも問いつめずに放っておいてくれました。だから、私も隊長が苦手なものを気にしたりしません。大丈夫です」

 目が慣れるまで、海の話を聞かせてくれませんか。お魚の話も聞きたいです。

 控えめに弾んだ声は、レオンに故郷の話をせがんでいる。真っ暗闇の中で、彼はオムレツに喜んだ彼女の顔を思い出していた。

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