第九話
「日没? また馬の世話か、薪割りでもしてるんじゃないか」
俺は知らない。とそっぽを向いた茶髪の新米は、いつにも増して無愛想だった。倉庫に保管された鎧や槍を磨いている最中だった彼は、手豆でかさついた手のひらを黒く汚している。そっけない青年に、レオンは息をついた。
「オルトス。私にそういった態度をとるのは構わないが、せめてほかの者たちにはもう少し気を遣ったほうがいい。諍いの元になる」
騎士団の誰に対しても、オルトスの態度はこうだった。半年近く前、入隊の際にもその不遜な態度でほかの騎士たちを怒らせたことはレオンの記憶に色濃い。そして、怒らせた相手を試合で軒並み返り討ちにしたことも。相手が年上であろうと、立場が上であろうと、彼は無愛想な返事をするだけだ。
「……だったら?」
すん、と短く鼻を鳴らしたオルトスは、切りっぱなしの汚れた布で鎧の肩を磨いている。レオンが諦めて踵を返そうとしたそのとき、不意に彼の視線がレオンに刺さった。
あんた、あのでかい馬つなぎ棒をいつまで置いとくつもりだ。
「隊長だっていい加減諦めがついただろ、もう半年だ。日没に剣を持たせたところで――」
続くはずだったオルトスの言葉が、途中でぷつりと途切れる。押し留めた暗い眼差しが、引き絞られた弦のように強く、彼を見据えていた。
湖面を僅かに乱したような、僅かに波立つ鳶色の双眼。
これ以上は何も言ってはいけない。オルトスが口を噤むと、小隊長は深いため息とともに両肩を落とす。レオンの後ろで、束ねられた藍色の髪がさらさらと揺れた。
「アルヴァには、確かに剣技が足りていない。だがお前も、騎士と呼ぶには足りないものがある。彼女のことばかり言えた口ではないぞ」
「……レオン、隊長」
水面に波紋を落とすようにそっと、オルトスが口を開く。だが、その先に続くはずだった言葉は別の音によって遮られた。
蝶番が軋む音に振り返れば、二人の視線に怖じ気づいた赤毛の新米が「みっ……」と短い言葉のなり損ないを漏らした。張りつめた空気を放つレオンとオルトスに見上げられ、アルヴァの表情が見る間に強ばってしまう。さながら、濡れ鼠のような哀れさだ。
「待て、引っ込むな日没」
ささっと後ずさり倉庫の扉を元通り閉めようとしたアルヴァを、オルトスがぞんざいな手つきで引き寄せる。腕を引っ張られ、彼女はまた二人の前に戻ってこなければならなかった。茶髪の彼はレオンと目を合わせると「用事があったんだろ」とアルヴァの腕をぺいっと放り捨てる。そして再び、アルヴァたちに背を向け鎧磨きを再開した。
「どうした、何か用事か?」
努めて柔らかい調子で、レオンは縮こまってしまった彼女を見上げる。レオンと目が合うと、アルヴァはちゅっと首を縮めておろおろしたが、ややあって数枚の紙をそっと手渡した。
「エルシュタイン隊長から、急ぎの書類を預かって参りました。『支払いを急ぐから、すぐに持って行って』だそうです」
「……また、彼女は請求書をほったらかしにしていたんだな。わかった、迅速に対処しよう」
書類の作成者のことを思い浮かべ、彼はふっと短く息をつく。七人いる小隊長の中で、しょっちゅう回覧や請求書を滞らせるのがモニレア・エルシュタインだった。それにしても、モニレアはなぜわざわざ書類をアルヴァに任せるのだろう。自分でもって来ればいいだろうと思いつつ、レオンは去りかけた部下を呼び止めた。
「お前さえ良ければ、後で少し稽古の追加をしておきたいのだが……どうだろうか」
新米たちの剣の稽古は、毎日早朝から行われている。午後からは各々が担当する雑務などがあり、夕方以降は基本的に職務外の自由な時間だ。そこを使えないかと尋ねられ、アルヴァは細い眉尻をしゅんと下げた。
「私は、構いません。是非お願いしたいです。ですが、その――」
ごめんなさい。なかなか、上手になれなくて。
控えめな相貌に影が落ちるのを、黙って見上げる。陰った夕暮れを見上げるのが、レオンは苦手だった。深々と頭を下げ、居なくなる赤色。彼にもたらされたのは、約束と滲むような胸の痛みだ。
レオン隊長。
背後から呼びかけられ、束ねられた藍色の髪が弾むように揺れる。オルトスの声は、常に相手をはねつけるような反発と鋭角さがあった。
「日没がよこした請求書、間に違うのが混ざってるが」
声色ほどには鋭さがない、端的な指摘。オルトスの視線の先には、レオンが先ほど受け取ったいくつかの書類がある。小さな紙切れが貼りつけられたもの――備品や消耗品のリストだ――に重なって、一枚だけいやに文字が詰まった書類の端が見えていた。レオンの浅黒い手がそれを引っ張り出すと、オルトスが横から文面を一瞥する。視界の端に映り込んだ茶色い頭を、レオンが軽く手のひらで押さえた。
「こら、覗き込むんじゃない」
「ほかの小隊長があいつに……別小隊の新米に預けたような書類だろ」
それなら俺に見られて困る書類のはずがないと、オルトスは小高く整った鼻で書類を指し示す。レオンはこの新米を追い払うのを諦め、「まぁ、それはそうだろうが……」と息を吐いた。
先月から数名、街の女性が行方を眩ませている。
日時や行方不明になった者の特徴がまとめられた報告書の後半には「警戒のため、昼夜を問わず見回りを増やすように」との指示が、角張った太めの文字で書かれている。羽ペンの先をよく潰しがちな、筆圧が強い団長が書いたものだ。
「ふむ。もしかすると、お前たちにも昼の見回りに出て貰う必要があるかもしれないな」
「……街の外には?」
「外はまだだ。まだ馬に乗り慣れていない者がいるだろう」
その返答を聞くと、オルトスの濃い緑をした両目がつい、と余所を向く。その目は磨きかけの鎧の方を向き、もうレオンを振り返ることはなかった。
暖かな夕暮れの残光が、中庭に立つ二人の影を長く伸ばしている。派手に転んだ新米の騎士に、レオンはついと手を差し出した。
「今日はこれぐらいにしておこう、もうじき日が沈む」
「はい。あの、ありがとう、ございます」
整いきっていない呼吸のまま、赤毛の新米はちょっぴりとレオンの指先を借りた。地面に膝をついていたために、彼女の黒い長ズボンはところどころが茶色い。元は白かったシャツも、夕日の色で誤魔化されてはいるがすっかり土埃を吸って汚れていた。
立ち上がった彼女を見上げ、レオンはふとその顔を注視する。黄色い朝焼けのようなアルヴァの両目が、眼下の青年の視線に強ばって揺れていた。
少し伸びた赤毛に隠れた、しっとりと腫れている両瞼。
頻繁に泣き出すせいで腫れぼったくなった瞼はいつも通りだったが、その端に付着した泥の色が妙に明るい。彼の指先が、汚れた頬についと押し当たった。
ぎとついて温かい、薄く張った肉感。
レオンが指の腹で拭ったそれは、滑らかに指紋の凹凸に馴染んだ。べたついた指先の感触は、土や汗とは明らかに違う。夕景の名残りが茶色く見せていたそれは、できたばかりの生傷にほかならなかった。
「っ! すまない、傷だとは思わなかった。痛くは、なかったか?」
何のことだろうかと目をしばたいたアルヴァは、ちょい、と首を傾げ、自分でもぺたぺたと頬の擦り剥けた部分を弄っている。指先に付着した薄い紅に、彼女はようやくレオンが言わんとすることを認識した。
「あ、本当ですね。破けていました」
「……私が言うのもおかしい気がするが、あまり触らない方がいい。片づけは良いから、顔や手をよく洗っておくんだぞ」
稽古用の木剣を二本とも回収し、彼は赤毛の新米を見上げる。深々と礼をした彼女の頬から、つーっと濃紅が滑り落ち、襟元に滲んでいった。
中庭の奥へ向かう後ろ姿を見送り、彼は倉庫の方へ足を向ける。稽古用の木剣を片づけに行くのだ。
剣筋はまだ拙いが、相手の振りにはそれなりに対応できるようになりつつある。膂力は充分にあるし、体格に恵まれていることを差し引いても、決して彼女の熟達具合は悪くない。
何度弾き返されようと、果敢に応じた彼女の健闘をレオンは思い返す。同期のオルトスが抜きん出ているために悪く見られがちだったが、彼はアルヴァの積み重ねた努力の成果を実感していた。
倉庫の隅に備品を戻すと、彼の背後から小さな影が伸びた。
「よぉ、宵のころまでご苦労なもんだな。飯食いに行こうぜ」
まだだろ?と続いた馴染み深い声の主は、束ねられたレオンの長髪をもすっと掴む。汗で湿気た紺藍の長髪は、夕暮れの光で限りなく夜空の色に近かった。
「どこか店に足を運んでみるつもりだったが、構わないか?」
髪を弄ばれるのも気にせず、レオンは倉庫の入り口をきっちりと閉めた。そして、自分の肩ほどまでしかない小柄な青年を振り返る。セロが軽い返事を返せば、彼は緩く表情を崩した。
「あぁ、お前さんたちか。久しぶりだねぇ」
ここんところ、客足が遠のいてね。来てくれて助かるよ。
カウンターの奥から姿を現した店主は、二人の姿を見て表情を綻ばせた。カウンターと、いくつかの小さなテーブルがあるだけの、ひっそりとした酒場だ。レオンとセロは各々酒と食事を注文し、カウンターに腰かける。温い麦酒が先に出され、二人はさっそくそれを飲むことにした。
「騎士団の方では、忙しくしているのかい? 何でだか知らないけど、ここのところ行方不明者が出ているらしいじゃないか」
「あぁ、おかげで見回りの仕事が増えちまった。誰の仕業か知らねぇが、勘弁してほしいぜ」
料理を作りつつ、店主は二人と言葉をやり取りする。ややあって、セロの前にサラダとステーキが乗った皿が、レオンの前にはもう少し量の多いステーキが乗った皿が置かれた。レオンは肉を咀嚼しつつ、食器を洗う店主にこう尋ねた。
「行方不明になった女性たちについて、何か気になる話はありませんでしたか?」
「……いいや。年齢も身分もバラバラで、窃盗の類でもないし、皆気味悪がってはいるけど……これといった情報は入ってきていないよ」
お前さんたちの見回りで、犯人が捕まればいいけどねぇ。
空になったグラスに気づき、店主は二つ目のボトルをレオンたちに勧める。やんわりと断りかけたレオンだったが、セロの「もうちょっと飲んで帰ろうぜ」という言葉に折れて追加を所望した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます