第八話

「随分、色々と怪我をしているね。さては稽古でレオンにしごかれたんだろう。彼も厳しいからなぁ」

 医務室の主が明るい声色でそう笑ったのを、赤毛の新米は落ち着かない様子で否定する。医務室の主ラトニクスは、青みがかった淡い灰色の髪を耳にかけた青年だった。レオンとは同期なのだという彼の言葉は依然穏やかで、立ちっぱなしだったアルヴァを診察用の長椅子に座らせる。白い体を擦り傷塗れにした彼女を一瞥し、彼は戸棚から綿の詰まった小瓶を取り出した。

「君のことはレオンからよく聞いているよ。稽古、頑張っているんだってね」

 あまり焦る必要はないよ。必要以上に構えても、ろくなことがないからね。

 アルヴァの腕にできた一筋の紅を、ラトニクスが小さな綿の塊で拭っていく。中空を漂う消毒液のにおいが、彼女の鼻の奥に留まった。浅い傷に関しては消毒のみをし、少し大きな傷にはガーゼが貼られていく。膝小僧を擦り剥く大きめの傷口に差し掛かったところで、ラトニクスは彼女と視線を合わせた。

「小さな怪我でも、放っておくと菌が入ることがあるからね。怪我をしたら僕のところへ診せに来てほしい」

「はい。多分また、すぐ来ることになるような気がします」

 怪我じゃない用事で来てくれてもいいんだよと笑いつつ、彼はあまり傷を作らないようにと彼女に注意を呼び掛ける。難しい顔をしたアルヴァを見て、ラトニクスはふっと息を吐いた。

「稽古をする以上、ある程度は仕方がないんだけどね。でも、君はよく怪我をすると聞いているから……」

 ラトニクスの言葉に、アルヴァは「ごめんなさい」と首を垂れる。俯いてしまった擦り傷だらけの新米に、彼はそっと小さな紙包みを手渡した。

「謝ることじゃないよ、頑張るのは良いことさ」

 小さな飴玉を手渡され、アルヴァが顔を上げる。視線が交わると、医務室の主は穏やかな笑みを零した。

「あの、ありがとうございます。ラトニクスさん」

「お礼なんていいよ、これが僕の仕事だからね」

 またおいで。と笑った彼に一礼し、アルヴァは医務室を後にする。すらりとした赤毛の後ろ姿がいなくなるのを、彼は静かに見送った。

 アルヴァの脚はとたとたと長い廊下を抜け、中庭の方へと向かう。午後からの雑務で、彼女は馬小屋の掃除を任されていた。外廊下に辿り着いた彼女が中庭に足を踏み出しかけたそのとき、アルヴァの後ろから聞き慣れぬ声が聞こえた。

「そこの赤毛の子、ちょっと待って!」

 アルヴァが振り返ると、彼女より頭一つ半ほど小柄な女性がこちらを見上げている。栗毛を肩にかけた、アルヴァよりも一回りは年上の女性だ。きょとんとしたアルヴァに見下ろされ、その女性は息を整える。彼女は、アルヴァとは違う小隊の人間だった。

「ごめんなさいね、急に呼び止めて。貴女、レオンのところの子でしょ? ちょっと書類を渡してきてほしいのだけれど、お願いしていい?」

「それは、構いませんが。貴女は……?」

「私? 私はモニレア。モニレア・エルシュタインよ。貴女のところとは別の隊の小隊長なの。貴女のことはレオンやセロから聞いてるわ」

 そんなに急ぎじゃないんだけど、今日中にお願いね。と、彼女はアルヴァに数枚の書類を手渡す。アルヴァが快く了承すると、モニレアはしげしげと彼女の顔を見上げた。

「遠目からだとよくわからなかったけど、なかなか可愛い顔してるのね」

「そう、でしょうか?」

 たどたどしくお礼を口にしたアルヴァに、モニレアはふっと目を細める。それじゃあ、またね。と踵を返した栗毛の後ろ姿を見送り、アルヴァは中庭に足を踏み出した。


 その日、レオンが目にした案山子は、数日前の無惨な状態から一変、すっかり元通りになっていた。いつの間に直したのかは定かではない。藁をしっかりと束ねた新しい案山子は、同じように並んだそれよりもずっと藁が密集していて硬さがある。大変良い出来映えだった。彼はその出来映えを確認し、中庭の奥にある馬小屋に立ち寄る。小屋に近くなると、横長の平屋を忙しなく出入りする、件の赤い新米の姿が見えた。

「こんにちは、レオン隊長。おでかけですか?」

 馬の側面にブラシを滑らせていた彼女は、来訪者の足音につい、と振り返る。ブラシ掛けの最中である栗毛の牡馬が、前脚を軽く弾ませ鼻を鳴らした。

「いや、馬たちに用事があるわけではない」

 すまないな、お前の出番はまだだ。

 意気込みを見せた一馬をやわやわと撫でて落ち着かせ、レオンは新米を見上げる。頭に引っかかった干し草のために、その頭部は彼に林檎を思い起こさせた。

「その、上手く直してくれていたな。ああいう物を作るのが得意なのか?」

「案山子の類は、昔よく作ったので……」

 彼女が幼少に暮らしていたのは山間の小さな集落だったと、レオンはふと入隊直後に聞いた話を思い出す。鳥や害獣を追い払うためにたくさん作ったのだと、アルヴァは黄金色の眼差しを緩やかに細めた。再度、謝りそうになるアルヴァの気配を感じ、彼は相槌の後に言葉を続けた。

「私は元々港街の方にいたからな、ああいうものは作ったことがなかった」

「でも、隊長は縄編みがとても上手でしょう。あれは、海辺の街にいらしたからなのですか?」

 レオンが口にした故郷の話に、彼女は少しだけ弾んだ声をしていた。縄編みを教えてほしいと言うのを聞き、レオンは鳶色の目をそろそろと泳がせる。髪に手櫛をかけつつ、教えられるほど上手くはないのだがと、浅黒い頬がはにかんだ。その話はもうしばらく続き、側にいた牡馬は待ちぼうけを食らって鼻を鳴らした。


 日もとうに暮れ、空に帳が下りたころ。兵舎に戻ったセロとレオンは中庭の側を歩いていた。レオンが持つカンテラは油が多めに注いであり、彼の歩みに合わせて灯りを揺らめかせている。彼らは外の見回りから帰ったところだった。

「にしても、オルトスの野郎……もう少し何とかならねぇもんかな」

「私も何度か話してはいるが、態度を改めてくれる様子はないな」

 レオンがやれやれとため息をつく。オルトスの――特に年上に対する――態度が良くないことは、アルヴァの剣の腕前と並んで、レオンの悩みの種だった。ついこの間も、同じ隊の騎士からオルトスの態度についての非難が舞い込んできたところである。どうしたものかと考えを巡らせる彼の視界に、中庭の暗い影がちらついた。

 生い茂った木々の奥に潜む、黒に黒を重ねた影。

 レオンが表情を強張らせ、じっとカンテラの灯りを見つめる。カンテラの硝子板に、セロの顔がちらりと映った。

「ん、どうした?」

「いや……大したことはない」

 ふるふると首を振ったレオンは、静かに息をつく。そして、傍らのセロの方を向いた。

「アルヴァほどまでとは言わないが、オルトスももう少し謙虚になってくれるとありがたいのだが……」

「はっ、それは違げぇねぇな。あの赤いのの爪の垢でも煎じて飲ませてやれよ。案外大人しくなるかもしれねぇぜ?」

 兵舎の奥にある階段を上り、廊下を歩く。しばらくして辿り着いたセロの部屋の前で、彼はセロと別れた。

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