第七話

 厚い鼠色の雲が、頭上を低く覆っている。街内や街周辺の見回りは、騎士団の主な仕事の一つだ。彼はカンテラに油を注ぎ、慎重に火を灯す。この灯りなくして、レオンは夜間に街中の見回りをすることはできなかった。「ここ周辺を見て回るだけなら、もっと少ない油でも回って帰れるだろう」と、彼はセロや団長によく笑われる。だがどうしても、彼にはこの灯りが必要だった。

 兵舎の出入り口に立ち、前の当番が帰るのを待つ。鼠色だった曇り空は、時間とともに夜の帳に飲まれて見えなくなっていく。周囲の静寂に、耳奥が冷え切って落ち着かなかった。大半の者が眠りに落ちている、石畳と煉瓦の街。今なら、針子が落とした縫い針の音さえ聞こえそうだ。

 この街では、波の音が聞こえない。

 ずっと昔、眠れぬ夜は波の音に耳をそばだてていた。肺に満ちる潮のにおいと、月明かりの僅かな揺らめき。あれがレオンの夜の入り口だった。

 ふと、控えめに鳴る靴音を聞き、周囲を見渡す。前の当番が、こちらに向かってくるぼんやりとした灯りが見えた。だが、何かがおかしい。当番ではないはずの、あの大きな赤毛の彼女がいるのだ。

「た、隊長。その、こんばん……は」

 彼女が手に提げたカンテラは、レオンの物と比べると一回りほど小振りだ。

「……まず挨拶をしてくれるのはいいが、一体どういうことだ。お前には、まだ夜間の見回りを任せてはいないはずだろう」

 周辺に配慮し、声量を落として尋ねる。新米たちにはまだ、誰一人として見回りの仕事はさせていない。夜の見回りを任せているのは、基本的に三年以上騎士団にいる部下だけだった。彼女の目がまた潤んでしまわないようにと祈りつつ、レオンは頭上の新米を見上げた。

 ややあって、ぼそぼそと返事が返ってくる。灯りの芯が焦げるにおいが、鼻先に漂った。

「『日没みたいな木偶の給料泥棒は、ほかの仕事もしないと割に合わない』って、見回りを代わりにするように言われてしまって、その……ごめんなさい」

 黄色い眼差しが、幾分陰って石畳に落ちる。彼が何か言うより先に、うなだれたアルヴァの頭から、奇妙な物体が落下した。半透明のでろでろしたものと、くすんだ古い黄身が、石畳の凹凸にゆっくりと広がっていく。それはどう見ても、朝食時によく焼かれる栄養価の高い食材に違いなかった。

「お、お前これは……「あぁ、まだくっついていたんですね。どうにも皆さん、だいぶ酔ってらしたようですから」」

 彼が聞けば、担当だった者に見回りの時間を告げるべく食堂まで行ったところ、担当者はほかの仲間とともに酒を飲んで酔っぱらっていた。そこで、先ほどの暴言とともに腐った卵投げの的にされてしまったという。「『胸なら左右別々で二〇点、頭に当たると三〇点!』らしいです」と答えた彼女は、このとんでもない理不尽をさして気にしていない。よく見れば、アルヴァの赤毛はいくつかの束ごとに不自然に固まっており、それはぶつけられた卵の白身のせいだった。

「そいつらには明日、しっかりと灸を据えておく。だが……そんな目に遭わされて、なぜお前は見回りを?」

 剣の腕がほかより劣っていて、すぐに泣き出すからといって、お前がこんな目に遭わなければならないのはおかしいんだぞ。

 理不尽に怒ることもなければ、理不尽を進んで訴えようともせず、アルヴァが選んだのは半ば押しつけられた仕事を黙ってこなすことだった。それも、ぶつけられた生卵でべたべたなまま、見回りを優先してカンテラに火を灯したのだ。

 レオンの問いかけに、アルヴァは細い眉尻を下げてしまう。少しして、彼女が紡いだ言葉は非常に簡素なものだった。

 きっとそんなことよりも、夜の見回りの方がずっと大事なことでしょうから。

 カンテラの火を吹き消して、彼女は兵舎に入っていく。レオンはしばらく、落ちてぐずぐずになった卵を見つめてじっとしていた。


「剣を振ることに意識がいきすぎている、体の軸がぶれているぞ!」

 剣を振り払うと、彼女はそのまま地面の上をころころと転がった。すぐさま立ち上がり、レオンに突撃する。剣筋は未熟だったが、何度打ち返しても挫けず、剣が手元から飛ばない点はたいしたものだった。

 中庭には、彼とアルヴァ以外の人影はない。新米たちの稽古は、もう三時間ほど前に終わっていた。これはいわば居残りだ。

 剣術の手ほどきをし始めてもう随分経つが、アルヴァの上達具合は思わしくなかった。新米同士で打ち合いをさせると、あまりにすぐ転がされたり練習用の剣の腹で叩かれたりするため、最近はこうして追加で稽古をつけている。

「もっと肩から剣を振り下ろせ、何度言ったらわかるんだ」

 前にも、その前にも注意したはずだろうと言えば、彼女はぽろぽろと涙を零す。泣きはするもの、アルヴァは彼に挑むのを止めない。袖口で乱暴に涙を拭い、すぐに突撃を繰り返した。

 動くほど、ぽつぽつと落ちる頬の滴。赤毛を濡らすうなじの汗。

 日も落ちて、赤く宵を迎えつつある残光が、夕立に降られたような彼女を柔らかく染めている。

 剣の腕さえ……贅沢をいえば、泣き虫の方もだが……それさえ良くなれば、アルヴァは良い騎士になるだろう。

 根気強さや体格の良さ、そして痛みに対する強さは、彼女の長所の一つだ。剣術の基本さえ身につけてしまえば、その身長差を生かして同期のオルトスとも良い勝負ができるだろうことは想像に難くない。そうすれば、ほかの団員たちにいじめられるようなこともないはずだと、彼は思っていた。

 何度目かの攻撃をかわし、剣の振り上げによってがら空きの胴に蹴りを入れる。だが、彼女はレオンが思った以上に重く頑丈で、腹部への蹴りではびくともしなかった。そして次の瞬間、彼女の体が素早く翻る。刹那、風を切るような細い音がした。

「あっ……ご、ごめんなさい隊長! お怪我はありませんか!?」

 右目の耳の方に、夕暮れの空が見える。左目の前には、近すぎてぼやけた小石が転がっている。こめかみに強い打撃を受けたと思ったときにはもう、レオンの頬は土にぶつかっていた。

 彼女が一瞬、体を捻ったようだったが、今のは……。

 上体を起こす際、揺れた脳味噌に痛みを覚える。傍らに膝をついた彼女の影が、長く伸びて辺りを暗くしていた。

「見てたぞお前、剣の振りはめちゃくちゃだったが、今のは良い蹴りだったな!」

 そんな長い脚でよくも素早くやったもんだと、声の主がこちらに近づいてくるのがレオンにもわかる。アルヴァの影に、小さめの影が重なって暗がりを深くした。

「ん? レオンにようやく一発かませたってのに、元気ねぇな? さては腹減ってんだろ、オムレツ作ってやろうか」

 明るい水色の髪に手櫛をかけ、次いでセロは汗で湿ったアルヴァの頭をよしよしと撫でる。彼女の目がくしゅくしゅと瞬くのを観察しつつ、レオンは蹴り飛ばされたこめかみに手をやった。鈍痛と熱はあるが、出血はしていない。目眩もないところからして、痛みの割に大したことはなかった。

「……少しは、私を心配してくれてもいいだろう。アルヴァを見習え」

「はっ、聞こえねぇな。馬に蹴られても無事だったお前の頭なんか、誰に蹴られたって問題ねぇよ」

 蹄鉄より硬いくせに。と笑ったセロは、地面に放り出されていた二人分の剣を拾い上げた。

「飯、ついでに作ってやっから早く食堂に来いよ」と言ったのを最後に、セロは稽古用の剣をそのまま持ち去ってしまった。

「まぁ確かに、随分長く稽古をしてしまった。今日はもう終わった方がいいだろう」

 レオンがそう言って笑うと、アルヴァの頬にも柔らかな表情が浮かんだ。

 山際に名残惜しそうに沈んでいく、赤橙の光。

 先ほどの蹴りや、今回の稽古の振り返りをしつつ、二人は調理場に向かう。中庭を通り抜ければ、目的の場所はすぐそこだった。

「ほれ、ちょうど焼けたとこだ。熱いうちに食えよ?」

 細かな傷が刻まれた、白い平皿。その上に、光沢と湯気で彩られたオムレツが鎮座していた。アルヴァの表情がとたんに明るくなり、それとよく似た両目を出来立ての大きなオムレツに向けている。彼女の好物が卵料理、特にオムレツであるというのは、前にセロに聞いたことがあった。しかし一体、卵をいくつ使ったのだろう、平皿からはみ出しそうな大きさだ。彼女が瓶からケチャップを掬い、スプーンの曲がりを使って絵を描くのを、レオンは隣に座って観察する。ひよこの頭に鶏冠をつけただけの、到底鶏とは呼べない可愛らし気なケチャップ画だ。

 彼女がはふはふと黄色いそれを頬張るのを見ていると、セロが少し小さめのオムレツを二皿持って着席した。私のは大きくしてくれないのかとレオンが尋ねると、彼はこちらを見て軽く吹き出した。

「なんだよ、レオンは魚の方がいいんだろ? 前に言ってたじゃねぇか」

「一番好きなのは魚だが、卵も嫌いじゃない」

 グリニッジには海がなく、魚類は周辺国との貿易でしか手に入らない。そのため滅多に手に入ることはないのだが、レオンは時々あの骨ばかりの手間がかかる食料を口にしたくなるときがあった。

「隊長は、海の側で育ったのですか?」

 半分ほどオムレツを食べた彼女が、真っ直ぐに彼の方に視線を向けてくる。泣きそうだったり、既に泣いていたりで目を合わせたがらないアルヴァの顔を、正面から見るのはレオンには難しかった。

「子供のころだけだったが、不思議と子供の頃のことはよく覚えているからな。そう言ってもいいかもしれない」

 グリニッジで生まれた者たちは、国を出て山を越えない限り、海を目にすることはない。彼が思い出す海は、長らく故郷を離れてなお、生々しく記憶の中で波打っていた。

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