第五話

 それはまだ早い夕刻のころ、新米たちが雑務を終える頃であり、夕食にはまだ早い夜の手前のころだった。雑務を終えたオルトスは、中庭に足を向ける。彼が向かった先には、木剣で素振りをする中堅の男性騎士の姿があった。

 あんたと手合わせがしたい。

 声をかけられた騎士は彼より数歳年上の、オルトスの先輩に当たる騎士の一人である。木剣を手に話しかけたオルトスの態度に、騎士は乱暴に額の汗を拭う。眉間の皺に、汗が伝って流れていた。

「お前な、仮にも俺は先輩だぞ。もう少し相応しい言葉遣いとか態度とかあるだろ」

「別に、あんたにだけそうしているわけじゃない」

 オルトスは軽んじた眼差しを相手に向ける。少し冷たくなってきた秋風が、足下にある枯れ葉を引きずった。男の眼差しは一瞬、危うい鋭さを内包したが、それは緩慢な瞬きによって封じられる。その鋭利な視線が少し緩むと、男は言葉を吐き出した。

「あの日没なきむしも、態度に関しちゃお前より遙かにマシだな。いいだろう、その代わり――」

 俺が勝ったらその態度、改めて貰うからな。

 刹那、風を断つ荒い一振りを、オルトスは僅かな動きで回避する。数歩下がっただけの、その動きに無駄はない。ッ、と前に重心を傾け、オルトスが数歩間合いを詰める。力強く振り下ろされた相手の剣を受け止め、彼は素早い横薙ぎを放つ。空気の切れる音が、中庭の中空へ静かに吸い込まれた。

 落雷のように無慈悲な、正確無比そのものの剣舞。

 男の剣先がかろうじてその一撃を受け止めたが、オルトスの一撃が、男の手から木剣を弾き飛ばす。からりと落ちた木剣を、オルトスがため息混じりに拾い上げ、地面に突き刺した。

 口ほどにもない。

 落胆した青年は男への興味をなくし、肩を軽くほぐす。傾きつつある日差しが、雲に覆われた。さっさと踵を返したオルトスの後ろ姿に、男の罵声が降りかかる。その口汚い言葉に、オルトスは振り返らなかった。

 倉庫の手前に木剣を投げ入れ、ふっと息をつく。オルトスは倉庫の扉の前で、奥にしまわれている剣の束を見つめた。鞘に納められ、沈黙している武器。木箱に詰められた剣の束の奥には、木製の台に立てかけられた槍が並び、その隣にはごちゃごちゃに詰め込まれた重装の鎧が光っている。どれもこれも、平時には無用の物ばかりだ。錆ついた蝶番の扉を閉め、彼は兵舎に戻ろうとした。だがそのとき、オルトスを妙な音が引き留めた。

 向こう側から、乾いた草がさざめくような音が聞こえる。

 倉庫の裏手側から聞こえてくる、かすかな葉擦れの音。オルトスが向かった先には、中庭の隅で破損した案山子を修理する大きな後ろ姿があった。

 ……こいつ、また壊したのか。

 赤毛の日没は、藁をひとまとめに縛ろうとしている最中だ。彼女が縄を力強く引く度、藁同士ががさがさと音を立てる。その様子をしばらく観察した末、彼は作業中の背中に声をかけた。

「お前、また壊したのか。相変わらず馬鹿力だけはあるな」

「あぁ、オルトスでしたか。案山子に用事ですか?」

 立ち上がったアルヴァが、上品な翡翠の双眼を持つ同期に目を合わせる。新鮮な卵の黄身を思わせる両目に見下ろされ、彼は「別に」と鼻を鳴らした。地面に散らばった藁のカスを、アルヴァが箒でせっせと集めている。草が日に焼けた香ばしいにおいが、オルトスの鼻腔をくすぐった。

「お前、まだ騎士団に残るつもりなのか」

 オルトスやアルヴァが入隊したのは、半年ほど前の春のことである。入隊した当初は一〇人いた新米騎士は、あらゆる理由で三人が騎士団を去り、現在は七人に減っていた。

 春には、こいつが真っ先に辞めると持っていたが……この馬鹿でかい馬繋ぎ棒は一向に諦める様子がない。

 オルトスの考えでは、真っ先に騎士団をやめるのはアルヴァのはずだった。同時期に入った連中の中でも、飛び抜けて剣の扱いがへたくそな日没が真っ先に辞めるだろうと。だが、春を終え夏を越し、秋を迎えてなお、彼女は騎士団の一員だった。

 藁を掃除し終えた赤毛の騎士は、束ねた藁を棒に固定しにかかる。彼女の唇が、そっとオルトスに声を届けた。

「私にできることがあるなら、それは私自身で行いたいんです」

 たとえ、ほかの誰かの方が上手くやれるとしても。

 豊穣の麦を思わせる、柔らかな瞳だった。彼女の目に映る物がなんなのか、彼は知らない。彼にわかるのは、アルヴァがただひたむきに騎士団の一員になろうと努めていることだけだ。

 自分が愚図だとわかっているくせに、それでもまだ出来ることがあるはずと居残っているのか。

「……いつまで続くか知らないが、愚直な奴は大抵損をするぞ」

 食堂の方へと向かうオルトスを眺め、アルヴァは小鳥が羽ばたくようにささやかな笑みをこぼした。


 そのとき少年を助けたのは、白髪交じりの髪をした初老の騎士だった。

 脚につけられた鎖が重く、少年はその場から上手く動けない。伸びっぱなしになった藍色の髪が、褐色の頬に貼りついていた。多くの人の隙間を這い、少年は布の幕をくぐる。荷馬車の後ろから飛び降りた少年は、鎖と共に地面に落ちた。

 ――大丈夫か、ぼうす。そんな重てぇのをつけてよく出られたな。

 よしよしと頭を撫でる手は分厚く、少年はくすぐったさに首を縮める。両手首の枷が邪魔をして、少年はその分厚い手のひらを追い払うことができなかった。

 彼が振り返ると、自分と同じように荷馬車に詰め込まれていた人々が、見知らぬ鎧の人たちに助け出されていた。初老の騎士は、少年の手足を封じた枷をはずしてやろうとしたが、いかんせん合う鍵が見つからない。いくつもある鍵束を試した末、ようやく少年の手足が自由になる。身軽になった少年は、騎士に名を尋ねた。

 ――イヴァンだ。ぼうずは何て言う?

 少年が名乗ると、老騎士は褪せた翡翠の目を綻ばせ、いい名前だと肩を叩く。かさついた喉に水を飲ませてくれた騎士の背中を、少年は追いかける。だがいくら追いかけようとも、その距離が縮まることはない。空のコップを持ったまま、少年は必死に足を前に踏み出し続けた。

 イヴァン、イヴァン小隊長。

 少年の手足がぐっと成長し、伸びっぱなしだった藍色の髪が短く切りそろえられる。成長してなお、彼は初老の騎士に追いつけない。声変わりを迎えた彼が躓いて転んだ刹那、青年は自分が白いベッドの上にいることに気がついた。

 ……随分、懐かしい夢を見たものだ。

 ベッドから体を起こした彼は、立ち上がってカーテンを開ける。外はまだ夜明け前で、起きるには少し早い。すっかり目が覚めてしまい、レオンは水道を捻る。ガラスのコップに注いだ水は、冷たく喉を潤した。

 こんな夢を見るのは何時ぶりだろうと、彼は息を吐く。それはレオンが時折思い出すように見る夢であり、ほろ苦くも懐かしい過去のある日のことだった。

 再びベッドに潜り込んだ彼の髪は長く、ベッドシーツの上に青い一筋の川を作る。もうしばらくすれば、朝焼けがうっすらと空を染め、黄色く柔らかな今日を迎えるはずだ。微睡みの残響を耳の奥に感じつつ、レオンは新米たちの稽古について考えを巡らせた。


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