第二章 日没

第四話

「で、これは何だ。アルヴァ」

 レオンより遙かに長身の彼女は、僅かに開きかけた口をちゅっと噤んだ。彼女の短髪は些か乱れており、赤茶色の髪に藁のようなものが数本混じっている。彼はそれを払い落としてやろうかとも思ったが、手が届かないことに思い当たって止めにした。

 夕暮れ時の影法師のようにぬっとした、大きいのに頼りない部下だ。

 彼女は薄い水膜を張った視線の元を所在なさげにうろつかせ、やがて地に落とす。だんまりなのはいつものことだった。

「黙っていてはわからないだろう、どうして壊したんだ」

 中庭には、藁でこさえた稽古用の案山子が、均一の感覚で立たされて並んでいる。そしてその中の二つが、軸の棒からぽきりと折れてしまっていた。

 見上げ続けている首が辛くなり、彼は一度ゆっくりと首を回す。この新米を見上げていると、彼は自分の背が縮んだようで落ち着かなかった。

「聞いているのか、アルヴァ!」

 口を噤んだままのアルヴァに、男は思わず声を荒げてしまう。その声に驚き、彼女はぴっ、と肩を縮ませた。なみなみと潤んでいく瞳に気づいたときにはもう遅く、アルヴァの頬からぽたぽたと滴がしたたり落ちていた。

 ごめんなさい、レオン隊長。ちゃんと作り直しておきます。

 ようやっと絞り出した言葉を置き去りにし、アルヴァは倉庫の方に駆けていく。レオンが伸ばしかけた右手は、彼女の袖を掠めただけだった。

 アルヴァ、アルヴァリタ・レグルス。

 今年入隊した新米たちの中で、一番背が高い彼女。その高い身長は彼女の赤毛と相まってよく目立つのだが、見た目の存在感に反してアルヴァは控えめで、困ったことにすぐ泣いた。

 稽古用の案山子が壊れるのは、騎士団の中では度々あることだ。それは大抵、案山子が古くなって潰れやすくなっているときである。それは仕方がないことで、だいたい年に三回は作り直さなければならない。だが今回アルヴァが壊したそれは、まだ作ってから一ヶ月も経たない新しいものだった。壊れるには早すぎる。だからこそ彼はその原因が知りたかったのだが、この分ではもう理由を聞くことはできそうにない。

 追求を諦め、彼は朝練のために集まりだした新米たちの挨拶を聞く。今日もまた、長い一日になりそうだとレオンはため息をついた。


 書類を片付けるレオンの側で、セロがぐっと伸びをしている。昼間の日差しが、窓際に暖かく届いていた。今朝のことを思い出し、彼は中庭に目を向ける。へし折れていた藁の案山子は、アルヴァによって回収されておりそこにはなかった。

 ――、ごめんなさい、作り直しておきます。

 鼻声で口にした言葉通り、藁の案山子はアルヴァの手によって修復されるだろう。どうした?と尋ねられ、彼はセロにざっくりと今朝のことを伝える。あの大きな新米は誰かに注意を受けるとすぐに泣き出してしまうため、「よく泣くでかい奴」として誰もが知っていた。

「あぁー、また泣かせたんだな? やめてやれよ可哀そうに」

 だいたい、お前の顔が険しいからいけねぇんだ。眉間の皺をなくしてこいよ、そんな顔してっと、何か言う前に泣き出すぞあいつ。

 澄んだ空に似た双眼に睨まれ、「私だって、できることならそうしたい」とため息をつく。例えアルヴァ相手でなくとも、部下にめそめそと泣かれるのは罪悪感があり、レオンとしては大変苦手だった。

「あいつ、あんまり毎日泣いてっからか、こないだ見たら頬骨の皮が剥けてたんだぞ。それっきり全然治ってねぇみたいだから、お前いじめんなよ」

 並べば頭二つは差があるであろうアルヴァの頭を、セロがよしよしと撫でているのを、レオンは見かけたことがある。彼女が座っていなければ不可能なことだ。いい加減だが、面倒見のいい男なのがセロの長所である。「今日は泣かせんなよ」と振り返ったのを最後に、セロは部屋の外に出ていく。レオンは引き続き、小部屋の書類と向き合うことにした。


 先週あった、墓を荒らした窃盗犯の事件に関する書類をようやくまとめあげ、封筒にしまい込む。窃盗犯が墓を荒らすこと自体は珍しいことではないが、今回は酒に酔った窃盗犯が「死人が動いた」などと供述する少し妙な事件だった。だが窃盗犯を捕まえた付近には怪しいものは何一つ見つからず、死体すらなかった。書類に取りかかったのは朝のことだったが、外を見れば太陽が随分高いところまで来ている。薄い白雲に覆われた太陽が、穏やかに兵舎の中庭を照らしていた。そこに目立つ赤毛の頭と数人の新米たちを見つけ、彼は時間を確認する。午後からは、再び新米たちに稽古をつける予定が入っていた。

 窓越しに見える新米たちは、稽古用の木製の剣で打ち合いの練習をしている。剣をぶつけあっているのは、二人。クロームとドニクだ。彼らから少し離れたところで、数人が様子見をしているらしい。ドニクの振りに負けて、黒髪の青年の手から木製のそれが弾かれる。クロームが尻餅をついたところで、練習の決着はついた。

 そろそろ私も行かなければ、とレオンが立ち上がったそのとき、視界から外しかけた中庭の様子が変わったことに気づいた。話こそ聞こえないが、彼に練習の剣を押し渡された彼女がしきりに首を横に振っているのが後姿でもわかる。

 アルヴァに、打ち合いの相手をさせようとしているのか……?

 彼女は、剣を振るのが群を抜いて下手だ。恐ろしく嫌な予感がし、彼は急いで中庭に向かうことにした。

 部下たちに「走るな」と言っている廊下を走り、急いで中庭に出たがどうにも遅かった。新米の一人が持っている木製の剣は、半ばから無惨に折れて情けない形状になっている。その向かいで、アルヴァがしょんぼりした様子で佇んでいた。こちらの剣は無事だ。

「お前たち、何をしている!」

 全員がさっと彼を振り返り、表情を強張らせる。遠巻きに見ていたそばかすの新米が、「オルトスが……」と茶髪の人物に目を向ける。アルヴァとオルトスの方に近寄れば、何か言うより先に彼女がきゅっと肩を強張らせた。

「あの、たいちょ……ごめんなさい……」

 またお前か、という気持ちがため息とともに出そうになったが、彼はぐっとそれを飲み込む。

 先に、オルトスに話を聞くのがいいだろう。

「オルトス、お前がアルヴァに木剣を渡したところは見た。それでなぜ、お前の剣が折れている?」

 オルトスは新米たちの中に数人いる、剣術経験者の一人だ。その中でも群を抜いて剣の扱いが上手い彼なら、間違ってもへし折るようなことはないはずだった。

「日没が悪いんだ。普通、剣を腕で受け止めようなんて、そんな馬鹿なこと……」

 日没。それはアルヴァにつけられた、よくわからないあだ名だった。最初は、本棚や塀の向こうに見えたアルヴァの赤毛が、ちょうど山に沈む太陽に似ていると誰かが言い出したのが始まりだ。そしてその妙な呼び名は、本人が嫌がらないのをいいことに完全に定着してしまっていた。

 非常にしょんぼりしている彼女を見上げたレオンは、剣を受け止めた腕を露出させる。いくら木の剣とはいえ、強く殴られれば骨が折れてしまう。剣の方がへし折れるような勢いで振り下ろされたのなら、アルヴァの腕の骨も共に折れている可能性があった。

 袖を捲った右腕の、手の甲と肘の間が真っ赤に腫れている。

 熟れた火傷のような患部に、レオンは一瞬、目をそむけた。そっと触れてみると、皮膚の下で出血が続いている熱が、手の平に移ってくる。アルヴァは目をぱちくりさせ、レオンを見下ろしていたが、痛がる様子はない。

「ごめんなさい、また壊してしまって。あれも、ちゃんと作り直します」

 彼女は、自分の腫れあがった腕よりも、練習用の備品を壊したことを咎められると心配していた。眼下の隊長を窺う視線は、不安に満ちている。

 腕の感触からして骨は折れていないようだが……痛く、ないのだろうか。

「いや、お前は井戸のところで腕を冷やしていろ。後で私も行く」

 持っていた稽古用の剣を預かり、彼はアルヴァを井戸がある方へ向かわせる。オルトスを注意するのも後にして、レオンは午後の稽古を任せられる部下を探しに走ることになった。


 街の見回りから戻ったばかりのセロに稽古の監督を任せ、目的の場所に向かう。井戸がある馬小屋の裏手に回れば、地べたにぺたりと腰を下ろした赤い頭がすぐに見つかった。

 地べたに腰を下ろした彼女の膝には、水を張ったタライが乗っている。そこに肘から下の患部を沈めて冷やしていた。それは良かったのだが、彼女の傍で草をはんでいた馬が、ちょうどいいといわんばかりにタライに口先を突っ込んで水を飲んでいる。

「こら、水桶なら向こうにあるだろう」

 レオンは軽く馬の胴を叩き、馬小屋の方へ向かわせる。アルヴァの隣に腰を下ろすと、彼女と背丈が同じになったようで彼には新鮮だった。

 熾火のような深い緋毛に、猫のような黄色い目。頬にある、小指の爪ほどの薄い瘡蓋。

「腕は、痛むか?」

「痛いですが、特に動かせなくて困るようなことはありません。大丈夫です、隊長」

 そう言って、アルヴァはタライの中で手を動かして見せる。波打った水面が静まるのを眺めつつ、彼はその腕の腫れが心配だった。

「ある程度、内出血が治まるまではそうして冷やした方がいいだろう。一度、腕を出せ」

 生ぬるくなった水を地面に撒き、井戸水を汲む。再び浅い水底に沈んだ腕は、先ほどよりは赤みが失せてきたようだ。

 それにしても。

 ――、日没が悪いんだ。普通、剣を腕で受け止めようなんて、そんな馬鹿なこと……。

 先ほど、反省する気もなさそうだったオルトスの言葉を、レオンは思い返す。確かに、剣を腕で受け止めるのは大きな間違いだ。実戦でそんなことをすれば、装備にもよるが腕が飛びかねない。

「お前は、なぜオルトスの振りを腕で防ごうとした? 実戦でないとはいえ、剣を腕で受けるのは適切じゃない」

 それぐらいはわかっていただろうと言えば、彼女の視線がつっ、とタライの方に落ち、口を噤んでしまう。「剣で防ごうとしたら、思ったより近くて……」そう呟いたアルヴァの檸檬色の両目が、やがてほろほろと蜜をこぼした。

 これだけのことで、泣き出してしまうのか。

 鼻先を赤くして、鼻を啜るたびにしゅんしゅんと音を立てる。

 腕の怪我に対しては、あんなに平気そうだったじゃないか。それなのに、どうして――

 右頬にある瘡蓋の上を、涙がゆっくりと降りていく。無事な方の手で乱暴に目元を擦るのを、彼は慌ててやめさせた。

「そんなに乱暴にすると、目に傷がいく」

 擦れて赤くなった目元の辺りを、また涙が濡らしていく。ぐじゅ、と鼻を啜った彼女は、ただ「ごめんなさい」と言っただけだった。

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