第二話
「っ、くそ……! こんな奴に……!」
「あんた、口の割りに大したことないんだな」
稽古用の木でできた剣を振るい、レオンの部下であるシヴァルとオルトスが試合をしている。素早く振りぬかれた一撃を、オルトスは軽々とはじき返す。朝の稽古もそっちのけで、その試合は繰り広げられていた。
ことの発端は、昨日のオルトスの態度の悪さである。彼の態度に反感を覚えた先輩の隊員たち数名が、彼に勝負を挑んだのだ。今はその最中なのだが、既に挑んだ数人はみな惨敗だった。オルトスの剣の手際は冴えており、ほかの新米たちも息を呑んでそれを見守っている。ぽやっとした様子のアルヴァは、人だかりの一番後ろからその様子を眺めていた。
「これはいったい何の騒ぎだ……?」
「レオン隊長。おはようございます」
人だかりの最後尾にいたアルヴァに、レオンは今起きていることについて尋ねる。ことの仔細を聞いたレオンは、朝一番のため息をついた。
もう既に問題が起きていたか……。
苛立ちが籠ったシヴァルの荒い一振りを、オルトスが外側へとはじき返す。手元から木剣を弾き飛ばされた隊員は、勢い余って中庭に膝をついた。口惜し気に中庭の地面を叩く彼に、オルトスはため息をついて木剣を手放す。初めて目にしたオルトスの腕前に、レオンは舌を巻いた。
態度は悪いが、いい腕だ。
「お前たち、その辺にしてくれないか。そろそろ朝の稽古を始めたいのだが」
レオンの声に、集まっていた者たちが一斉に振り返る。そこから稽古を開始するのに、少々時間を要した。
「まず、そうだな……既に剣術の手習いをしている者はどれぐらいいる?」
レオンの問いかけに、オルトスを始めとした四人ほどが手を挙げる。毎年のことではあるが、新米たちの殆どが剣の扱いは初めてである場合が多い。今年もそうらしいと判明し、彼はまず剣の構え方と振り方から教えていくことにした。木で出来た練習用の剣を新米たちに持たせ、適度に散らばらせる。あまり間隔が詰まっていると、利き腕が逆の者がいたときに大変危険なのだ。レオンが数回、手本を見せる。真っすぐに振り下ろす動作と、横に斬る基本の動作だ。見本を見せた後は、各々に振らせていく。中庭に広がった新米たちがこうして一斉に剣を振る様子は、毎年のことではあるが少し不思議な光景だった。
「ファルロッテ。お前はもう少し、脇を締めて振るといい」
新米たちの様子を見つつ、指示を出す。徐々に日が昇り、レオンは額の汗を拭った。
新米たちが入って一週間が経ち、彼らもそれなりに兵舎の環境に慣れ始めたころ。レオンが見たのは、大きな赤毛の新米と、夕暮れに奇妙な影を作るいくつかの木片だった。
「……お前に怪我がなかったのは何よりだが、随分と派手に壊したな」
山際に名残惜しげな残光が輝く夕暮れどき、レオンは頭一つ大きな赤毛を見上げてため息をついた。
中庭の隅、稽古用の案山子が並んだ場所の端で、彼は真っ二つに折れてしまった木製の剣に目を遣る。藁と木材を縄で縛った、頑丈な案山子の強度に負けたのだろう。半ばから折れた剣の破片が、数本の藁とともに土の上に散らばっていた。
「あまり力任せにするんじゃない。あまり強引にすれば、本物の剣でも折れてしまう可能性がある」
そもそも、一体何をどうしたら――。
レオンが何度目かのため息をついたそのとき、ぽたりと水滴が藁の上に落ちた。薄暗くなりつつある残光に光る、一片の粒。はっとした彼が見上げると、アルヴァがほろほろと滴をこぼしていた。
「ごめ、なさ……」
ぐしぐしと乱暴に涙を拭う彼女の意に反し、こぼれ落ちる滴はやむ気配がない。夕暮れの色をした赤い睫から、瞬く度に小さな水滴が散っていった。
「こら、あまり乱暴にするんじゃない。後で腫れると痛いだろう」
腕をそっと引っ張り、瞼を擦るのをやめさせる。湿った頬を滑り落ちていく、脆い一涙の謝罪。
これだけのことで、泣いてしまうのか。随分と泣き虫だな。
些細なことで目を腫らしてしまう、控えめで頼りない大きな後輩。涙を何とかしようと、彼女はきつく下唇を噛みしめている。レオンは掴んだままの腕を離すと、慣れない手つきでその背中をぽすぽすと叩いた。
「すまない。その、怖がらせてしまったか……?」
赤毛の頭が横に揺れ、ぱたぱたと数滴の涙が地に落ちる。通り雨で潤んだ黄昏の色は、レオンと目を合わすことはなかった。
ごめんなさい。朝までには、ちゃんと新しいものを作っておきます。
そっと離れた手のひらの感覚を、彼は引き留めなかった。「そう急がなくとも構わない」とだけ告げ、木剣の残骸を集める赤毛の元を離れる。上手く作れるのだろうかと思いつつ、レオンは視線を遠くに向けた。山際に沈む夕日が、静かに夜の気配を漂わせ始めている。そろそろ、街中の見回りを担当している時間だった。
兵舎の隅に位置する書庫の扉を開け、レオンは薄暗い本棚の群れを凝視する。窓が一つしかない書庫は昼間であっても薄暗く、本の背表紙すらよく見えない。レオンは大きめのカンテラを片手に、そっと書庫の入り口を閉めた。手前から奥へ、本の背表紙を明かりで照らす。その灯りに驚いた小蜘蛛が、慌てて別の段へと逃げていった。
それにしても、この書庫はそろそろ増築か整理の必要があるな。
見上げるほどに高い本棚には、埃はついていない。ごく最近拭き取られた跡が残っているだけだ。掃除はされているが、所蔵する本に対して場所が狭すぎるこの書庫には、あまり人が寄り付かない。滅多に開かれない歴史の本や魔導に関する本を横目に、レオンは目的の本を探し奥へ向かう。かすかな物音に頭上を見上げると、本棚の上部に不審なものが見えた。
本棚の上に出ている、赤い何か。
見上げた先で出たり引っ込んだりしている赤く丸い何かを、レオンはカンテラで照らしてみる。暗がりに蠢くそれに声をかけると、本棚の脇から見知った新米の顔がひょっこりと覗いた。
「アルヴァか。今日はお前がここの担当だったか?」
「はい、隊長は何か探し物ですか」
小さく頷いた彼女は、小さな布切れを片手に持っている。アルヴァの長身であればさぞ掃除がしやすいだろうと、レオンは本棚と一緒に彼女の顔を見上げた。新米たちの雑務に関しては、基本的にレオンの部下が割り振りを決めている。窓から吹き込んだ風がちらちらと書庫の埃を舞い上がらせ、アルヴァがくしゃっ、と小さなくしゃみをした。随分可愛らしいくしゃみをするものだと思いつつ、彼は口元に笑みを零す。次いで尋ねたのは、ここの書物のことだった。
「探している本があるのだが、掃除中に見かけなかっただろうか」
本のタイトルを告げると、彼女はしばし沈黙する。ややあって返された返事に、レオンは一番奥のまだアルヴァが掃除をしていない本棚に向かった。本棚に積もった埃が、カンテラの灯りを受けて白く浮かび上がる。一番下の段まで見たところで、レオンはようやく探していた本に行き着いた。埃を払いつつ、本を数ページめくって内容を確認する。側に寄ってきた新米に、レオンは礼を言った。
「よかった。やはりあの辺りにあったのですね」
掃除の前にざっと見て回ったのだと、アルヴァは告げる。そして、外にたくさん蜘蛛を逃がしたことも。開け放たれた窓からは、時折緩い風が通り抜けていた。
あまり埃を吸わないようにとだけ注意して、レオンは書庫を後にする。小隊長室に戻る途中、彼は中庭にオルトスの後ろ姿を見つけた。中庭に生えた雑草を適当に踏みつけるその様子に、レオンは足先を廊下から中庭に向け直す。近づいてくる気配に気づき、彼は顔を上げた。
「今日の雑草抜きはお前か、オルトス」
ちゃんと根っこから抜くようにと言えば、オルトスは翡翠色の双眼を歪める。そして、まだ咲いていないタンポポの葉をざしざしと足蹴にした。
「こんなの、いくら引き抜いても出てくるに決まってるだろ。無駄だ」
「毎日少しずつでも抜いておけば、夏場に繁る分が少なくなる。面倒臭がらずに頑張ってくれないか」
レオンがそう頼んでみると、彼はじっと眼差しをレオンに向ける。ややあって紡ぎだされた言葉には、先日のような棘はなかった。
「あんたは、俺に敬語が態度がとは言わないんだな」
「……できれば、改めてほしいとは思っているぞ」
ため息をつくレオンの様子に、オルトスは「ふぅん」と息を吐く。彼は地面にしゃがみ込むと、足蹴にしたタンポポを強引に引き抜いた。まだ地中に根は残っているだろうが、それでもレオンとしては充分だった。その調子で頼むとレオンは笑い、中庭を囲う外廊下に戻っていく。夏の始まりを感じさせる、暑い午後のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます