燭協医科大学埼玉医療センター

 清潔なシーツの匂い。

 糊の効いたその感触。


 安定した温度の空気。

 室内だ。

 明るい。電気は点いている。

 感覚が鈍い。手や足が動かない。

 金縛り……いや、薬を打たれたのか?

 薬……病院……僕は……殴られて……。


「神崎さん!」

「はい?」


 島谷は身体を起こそうとしたが、やはり筋肉は言うことを聞かず、それどころか感覚は鈍麻を極め、手や足がどういう位置にあるかもよく分からない有り様だった。


「良かったぁ。死んじゃうかと思った」

「神崎さん、無事⁉︎ あいつらは? ここは?」


 神崎ひかげはフフッと小さく笑った。

 身体の動かない島谷は視線の真ん中に彼女を捉えようと必死に眼球を下に向け、その視界の端で微笑む彼女を見て、心から安堵した。


「慌てないで。まず、事件は解決した。私は無事。ここは駅の近くの病院で、あなたは頭に怪我をして、手術のために強い麻酔を打たれたの」

「解決した?」

「そう。すっごいニュースになってる。私たちは一足早く抜け出したから、マスコミの人たちには捕まられないで済んだけど」


 ひかげはリモコンを操作してテレビを付けた。

『えー、引き続き予定を変更しまして。本日正午ごろ埼玉県越谷市で発生したコンサートホール占拠事件についてのニュースをお送りいたします。今ご覧頂いておりますのは、武装したテロリストにより一時的に占拠されたコンサートホールに偶然居合わせた越谷市市長、中林勉さんがスマートフォンで撮影した実際の、実際の現場の動画です。テロリストのリーダーらしき人物が、日本語で演説をしています。この直後、テロリストのメンバー内で反乱か仲間割れが起き……』

「あ、でも見えないかな」

「仲間割れ?」

「そう。詳しくは今から調べるらしいけど、テロリスト同士が撃ち合いになって、全滅しちゃったみたい。オーケストラの方々は無事だったみたいだし、犯人以外で亡くなったのは3人の警備員と、最初に撃たれたお客さんだけだって」

「仲間割れ……」


 島谷はそう繰り返した。

 どこか不自然に感じたからだ。


「ありがとう。島谷くん。私を、守ってくれて」


 神崎ひかげが近づいてそう言った。

 彼女の両手が、自分の左手を温めるように挟んでいるのが見えたが、残念極まりないことに左手は殆どその体温も感触も感知しなかった。


「いや。いいんだよ。あそこに誘ったのは僕なんだ。そこで君に何かあったら、僕は悔やんでも悔やみ切れないし、死んでも死にきれない」

「あなたは私の命の恩人。本当のヒーロー。だけど約束して。もうあんな無茶はしないって。あなたが空手の達人なのはよく分かったけど、銃で撃たれたら空手の世界チャンピオンだって死ぬんだからね?」

「分かってる。正直僕も怖かった。今だから言うけど、膝はガクガク震えてたんだ。けどあの時は、なんとか君を、神崎さんを無事に家に帰さないと──」

 神崎ひかげの嫋やかな指が一本、島谷の唇に添えられた。彼は言葉を紡げなくなった。

 ひかげはそのままその指を今度は自分の唇に当てると「しーっ」と改めて黙るように合図した。


「もうすぐご両親が来るそうよ。その前に、私はやって起きたいことがあるの」


 ひかげはバッグから包みを取り出して差し出した。その包装紙には、有名なチョコレート専門店のロゴが金色の飾り文字で印刷されていた。


「ハッピーバレンタイン。島谷浩一くん」

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