死神の狩場

 南カダス解放戦線の兵士、ワトバン・ハイラッラー伍長は目を覚ました。


 極東の島国の任務は楽勝のはずだった。

 公共の大型施設でもセキュリティはガバガバ。

 民間人は武器らしい武器を誰も持っておらず、警官すら持っているのは装弾数5発の豆鉄砲だ。


 油断があったといえばそうだったかも知れない。

 制圧したホールの出口を警備していた彼は何者かの襲撃を受けて、倒されてしまった。

 即応の対テロ部隊か、警察だろうか。

 なら殴り倒すというのはおかしいし、対応が早すぎる。今回の作戦の情報が漏れていたのか。


 朦朧とする頭でそこまで考えた時、彼は自分が後手に縛られてれていて、座らされ袋を被せられているのに気がついた。

 拘束されている。しかしこのやり方は……。

 その時、乱暴に袋が剥ぎ取られ、顔に何か液体を掛けられた。それは滑りのある冷たい薬品で、目と鼻に激しく染みて、むせようと吸い込んだ息にも紛れて喉を焼き、伍長は激しく咳き込んだ。酸性の洗剤か何かだ。目はとても開けていられず、誰がそれをやったのかは窺い知れない。


「非正規の戦闘員である君には、ジュネーヴ協定による保護はない。そのことは、理解しているな?」


 綺麗な英語だった。子供……いや。女の声か?


「だが質問に正確に答えるならば、君の身柄は安全に本国に返そう。英語はわかるな?」

「エスタ・ミサ・バナターサ。レフ・イングリタ・セントーリ・クノッジィ」


 伍長は英語が分からない振りをした。

 とにかく、時間を稼ぐことだ。


「レフ・エスペランタ。ディナ・レスウーセ・ティメ・アーナタ」(エスペラント語か。下らない時間稼ぎはよせ)


 バキ、と音がして、彼の右手の小指に激痛が走った。伍長は悲鳴をあげようとしたが、開けた口に先程の液体が注がれて、悲鳴は咳き込みに上書きされた。


『骨折なら治る。だが切断は取り返しが効かない。意味はわかるな?』

 母国の年寄りが喋るような古風なエスペラント語だった。

『お前たちの人数と、警備の配置だ。簡潔に答えて欲しい。私は、短気でね』

 伍長の右手の人差し指に、冷たい刃物が当てがわれた。


***


「ご理解頂きたい。我々南カダスの民もまた被害者なのだ。そして抵抗するものだ。不当な選挙の末権力を握り……」

 ジリリリ………‼︎


 佳境を迎えていた南カダス解放戦線実行部隊リーダー、イヤード・アッ=シャフバンダル大尉の演説は、突然の非常ベルで中断された。


『こちらリュカオン1。何があった?』

『………』


 大音量で繰り返すチャイムの音。

「火事です。火事です。係員の指示に従い、落ち着いて避難してください」

 自動音声のアナウンス。

 館内の設備電源は正副非常も含めて全てダウンさせる手筈なのに。


『リュカオン2。リュカオン3。どうした。状況を報告しろ』

 

 バシュウ、と天井から音がした。

 それは一つではなく、次々と弁が開くような音が続いて、天井一面から白いガスが降り注いだ。


 観客席から悲鳴が上がった。


 ハロン消火システムを誰かが起動したのだ。


『オールリュカオン。誰か答えろ。警備室だ。防災設備を確認しろ』

 ホワイトノイズ。応答はない。


 観客はパニックを起こして、立ち上がり騒ぎ始めた。だが、ホール各所に配置した部下たちがそれを諌める様子はない。


 そうしてるうちに大尉のいる壇上にもハロン1132消火ガスが降り注いだ。


 観客は完全に冷静さを失って、バラバラに近くの扉から逃げ始めた。

『誰でもいい。消火装置を止めろ。ターリク! ワトバン! バルザーン! 何してる! 人質に勝手をさせるな!』

 化学消火ガスのガソリンのような独特の異臭に顔をしかめながら、大尉は自ら訓練し鍛えた部下たちに呼び掛けた。だが、誰一人応答しなかった。


 その時、大尉の五感を越えた何かの感覚が危機を告げた。


 断頭台に掛けられたかと錯覚するような恐怖が、突然背筋に湧き上がった。

 吹き出す汗。浅くなる呼吸。そして狂ったドラムロールのような心臓の鼓動。


 すぐ後ろだ──いる。


 


 滝のように降り注ぐ白いガスのカーテンの隙間から、肉食の大型獣のような殺気を孕んだ視線がこちらを視ている。動けば、やられる。それは不確かな憶測ではなく、過去の経験と現在の体感とが合致して了承する確信だった。

 大尉は彼の仲間が、鍛えた部下が、既に背後の悪魔によって全員葬られていることを悟った。


 大尉はゆっくりとした動きで持っていたAKを床に置いた。そのまま両手を上げる。振り向きはしなかった。その動きは、必ず悪魔の機嫌を損なうからだ。


『全滅か。私の部下は』

「…………」

『私を葬る悪魔が何者なのか、せめて教えてくれないか』


 大尉は英語で、背後の暗殺者に語りかけた。


『乱暴なやり方だ。シャミル・ヴォルフの真似事か?』

(エスペラント語? いや、それよりも……女の声⁉︎)

『アフラトの王子様はこんなやり方は望まないんじゃないのか? ヒディナ・セントステ聖戦士殿

『我々はアズィーズの腰抜け供を王家とは認めていない』


 短いやり取りだったが、大尉には背後の敵の正体が分かった。死んだはずだと驚くと同時に成る程それなら仕方ないという納得が彼を満たした。


『そんなことも忘れたのかエタラマ・モルッサ死神の両腕

 

 死神の両腕。母体組織不明の非情の暗殺者。

 三年前の北カフカース。グロズヌイの非公然捕虜収容所。厳重極まる警備を潜り抜け、彼女たちはやって来た。彼はその時現場にいて、彼女たちの仕事をすぐそばで目撃したのだ。そして彼女たちが噂の通り本当に少女と形容していいほどの若い女だと知った。その実力や恐ろしさが噂以上であることも。


『音に聞こえた気高い死神も、今は傀儡政権の犬か。使い捨ての毒針に成り下がったな』

『狂犬ヴォルフは死に、その時代も終わった。さよならヒディナ・セントステ』


 大尉は笑った。


『何がおかしい?』

『狂犬ヴォルフは死んでいない』

『……なに?』

『お前たちは失敗したんだよ。何が死神の両腕だ』

『シャミル・ヴォルフ大佐が……生きている?』

『そうとも。役立たずの死神は、冥府に帰れッッッ!!!』


 大尉は振り向きながら腰の拳銃を


 撃てなかった。

 大尉が最後に認識したのは、自分を見据える黒い瞳と蒼い瞳の虹彩異色眼ヘテロクロミアだった。


 次の瞬間、大尉の眉間には大きな穴が空き、後頭部は血と脳漿のシェイクを骨の破片と共に吐き出した。

 一発だけ響いた銃声は抑えた小さな音だった。

 

 非常ベルと消火ガスが降り注ぐ暗闇のコンサートホールには一人、サプレッサー付きの高価なスナイパーライフルを携えた少女だけが残された。

 俯き影になったその顔がどんな感情を湛えているのかは判らない。


 程なくその頼りない、か細いシルエットも、白いガスと仄暗い闇に溶けるように音もなく掻き消えた。

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