北越谷3丁目県道453号沿い歩道

「……島谷くんの家こっちだったっけ」

「いいや。ちょっと用事があって」


 神崎ひかげは自宅のマンションに向かって歩いていた。

 その隣を、クラスメイトの島谷浩一が同じ歩調で歩いている。


 ひかげは訝しんだ。

 なんだこの男は。

 尾行なのかこれは。

 私を探っている?

 まさか組織の……。

 いや、クラスメイトの身元は洗い済みだ。

 全員三親等以内にP.A.P公安警察U.S.F反社会的勢力の関係者はいないはず。

 情報が誤っていたのか。

 私の振る舞いに、何か疑念を抱かせるヘマがあったのか。

 それとも、もしやこいつも高度にカムフラージュされたどこかの組織のスリーパー……。


 ひかげはバッグのポケットの大型のカッターナイフを意識した。この国の学生が所持していて、ギリギリ不自然でない最大の実効制圧力を持つ武器。


「あのさ」


 島谷が立ち止まった。ひかげも立ち止まって振り向いた。


「バレンタインの……ことなんだけど」


 バレンタイン。さっきもその話題だった。

 確か、正教会・カトリック教会における聖職者。

 資料ではこの国は、民間信仰的に土着の神道と仏教が信仰の土台となっているが、その影響力は素朴で形式的な範囲に留まり、こと若年層においては無宗教と呼んで差し支えないのが実情だったはず。


「うん」

「準備してるって」


 ひかげは心の中で舌打ちした。

 バレンタイン。準備。

 確かにさっきのファーストフードの店の中でそんな会話があった。

 だが彼女は、彼らの言うバレンタインが何を指す言葉なのか見当も付かずにいた。

 しかし、それを悟られるわけにはいかない。


「その……神崎さんに、こんなこと聞いていいのか分からないんだけど」

「なに?」

「誰かと約束したりしてるのかな。つまり……バレンタインの日」


 バレンタインの日。

 そうか。聖人の記念日か春節か、とにかくそう言う感謝祭のようなものだろう。なら、対処のしようはある。


「あ、あれね。ごめんなさい、実はあの時考えごとしてて、適当に返事しちゃったの」

 言っていいギリギリの所までは本当のことを言う。それが矛盾なく嘘をつき続けるセオリーだ。

「じゃあ……」

「私、バレンタインってのがよく分かってなくて」

「ああ、そうか。神崎さん、帰国したばっかりだったもんな」

 神崎ひかげは帰国子女。両親は貿易商で取引先を飛び回っている。その設定は、こういう時の口実としてうってつけだった。

「そう。教えてくれない? バレンタインの日ってどんな日なの?」

「それは……」

 島谷浩一は少し考えるような素振りをしてから言った。

「分かった。話すと長いんだ。次の休み、空いてる?」

「次の休み? 日曜日ってこと?」

「そう」

「特に予定はないけど……」

「じゃあ決まりだ。10時に新越谷駅の南口。詳しく教えるよ。それじゃあその時に」


 そう言うと島谷浩一はクルッと振り向いて走って行った。


 なんなんだ。一体。



***



 北越谷。太平ビル。

 降りたシャッターと手入れのされていない外観から、地元住民ですら廃ビルだと思って景色の一部としか認識しない古い四階建ての商業ビルだ。

 だが、その寂れたビルの屋上に、人知れず小さなバーがあった。

 丸太造の山小屋のような外観。

 「Bar」だけの文字がパチパチと点滅するネオンサイン。

 バーの名前はオウルズネスト。

 宵闇を飛ぶフクロウが翼を休める忘れられた巣。


「ヌァッハッハッハ!」


 そのオウルズネストのカウンターに、店主である老人の笑い声が響き渡った。


「何がおかしいんだよ、トクナガの爺さん」

「お前、その約束を受けたのか?」

「受けたも何も、向こうが一方的に言うだけ言ってどっか行っちまったんだ」

「そりゃ、愛の告白の予約じゃぞい」

「ハアッ⁉︎」

「次の日曜と言ったら2月14日じゃろ。この国ではバレンタインデー」

「そうそれだ。なんの日なんだよどいつもこいつも」

「お前、こっちに来てテレビも観とらんのか」

「観てない」

「資料の中に女子高生が読みそうなマンガもあったろう。目は通さなかったな?」

「…………」

「バレンタインデーはな、名前こそ聖人を掲げとるが、この国では若い女が男にチョコレートを渡して愛を告白する日なんじゃよ」

「若い女が……なに?」


「若い女が、惚れた男に、チョコレートを渡して、愛を告白する日じゃ」


「ハアッ⁉︎ なに? なんの為にそんな日があるんだよ‼︎」


「ニッポン人の女は奥ゆかしいからな。チョコレートにメッセージを付けて渡せば面と向かわずに告白できるし、男だって悪い気はしないし、製菓会社や広告会社は儲かるし、WIN-WIN-WINだろうが」

「聖人関係ねぇじゃねえか! そもそもこの国はブッディズムの国だろうが!」

「わしにキレられてもな」


 小柄な老人は禿げ上がった頭をつるりと撫であげてひかげの前にグラスを置いた。


「またコーラか」

「文句を言うな、未成年。だが約束した以上はデートには応じた方がいいぞゲー・フュンフ」

「その名で呼ぶんじゃないよオイボレ」

「すまんすまん。とにかく、女子高生として不自然な要素は一つでも消すことじゃ。失恋に狂った若い男が神崎ひかげの身辺や過去を調べ始めたりしたら……」

「はぁ……コークハイにしてくれよオールドオウル」

「うちは優良飲食店でね。ベイビーチック」

「そこまで慎重になることかね」

「お前さんが今日の今まで生き残ってこれた理由はなんじゃ?」

「あたしが……兎のように臆病だから」

「そういうことじゃ」

「……ヴートカウォッカを静脈注射でもしたい気分だぜ」

「やめとけ。それで入院した男を知っとる」


 神崎ひかげはコーラを一口飲み下して、大きな溜息をついた。

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