日本国埼玉県越谷市

 血と硝煙にまみれた死神の伝説があった。

 闘争と殺戮を駆け抜けた亡霊の歌があった。

 

 マリオネッテと呼ばれる暗殺訓練を受けた少女たち。なかでも「G4」と「G5」のコンビはエタラマ・モルッサ死神の両腕と呼ばれ諜報員や産業スパイ、犯罪組織の構成員、各国要人に恐れられた。


 18年3月、テルアビブ。ロッド空港。モルデバイ・ハザ陸軍相暗殺。

 同年11月、北カフカース連邦管区。グロズヌイ。南カダス解放戦線シャミル・ヴォルフ大佐暗殺。

 19年2月、広東省。東莞市。黒竹会系マフィア碧龍封門壊滅。

 同年4月、ペルー。サンイシドロ。在ペルー大使公邸占拠事件、犯行グループ「スピリドーノワの輝く道」実働部隊制圧。

 20年8月、ボリビア。ラパス県。麻薬王ゴンサロ・サンチェス・リンバ暗殺。


 戦争と犯罪の闇の中で。欲望の風と弾丸の雨の中で。死神の両腕はその名の通り容赦なく命を刈り取って行った。


 だが、裏社会の住人たちを震え上がらせた二人組の暗殺者の伝説は唐突に幕切れを迎えた。組織の裏切り。情報のリーク。麻薬王暗殺に成功した二人は退路を断たれ、一人はドラッグマネーで築かれた豪邸で射殺され、一人は国外逃亡を謀るも強奪した小型機を撃墜され、アントファガスタ沖で爆発四散して海の藻屑と消えた。


 歴史の歪みの応力と世界の軋轢の摩擦熱で生み出された最凶最悪の死神は、永遠に死の国に還った──


 ──



***


「起立」

 これは「立て」の合図だ。


 ニッチョクと呼ばれる担当者のコールで、彼女は他の構成員と呼吸を合わせて立ち上がる。


「気をつけ」

 これはアッハトゥン姿勢正せ。次はボーグゥンお辞儀


「礼。着席」


 彼女は席に着く。セーラ服と呼ばれるユニフォームに身を包み、長い黒髪をふわりとなびかせて。


 ここは埼玉。越谷。


 そう。彼女が身を隠す先に選んだ土地は世界一の治安を誇る国。日本国。

 そして彼女が偽る身分に選んだのは彼女の実年齢に近い若者たちの中──即ち、一般の高校生としての在学であった。


 名前は捨てた。顔は変えた。失った左目は死んだパートナーの目を移植して、青くなった瞳はコンタクトレンズで黒く覆った。


 今の彼女は、忙しい両親の留守を守って一人マンション住まいをするどこにでもいる女子高生、「神崎ひかげ」だった。


***


「ひかげ」

 放課後の帰り道。自宅に向かう道の途中で呼び止められた神崎ひかげは振り返る。

「みずほ」

「モスよってかない? 今日からだって。ライスアボカドバーガー」

「うぇっ。それって美味しいの?」

「さあ」

「さあって。それにモスってちょっと高いじゃん。定番のやつは美味いしオニオンリングも好きだけど、ライスアボカドバーガーセットに1320円は払えないよ」

「えー……じゃあ320円だけ奢るからさあ!」

「微妙な額で恩を売るのやめてよ」

「ライガーだけ単品で頼めばいいじゃん。それなら880円だし」

「ライガーって略すの? ウソだろ? いやいやいやいやいやナイナイナイナイ」

「行こうよ80円は奢るからさあ!」

「あんた頑なに端数だけ切ろうとするけどそういうことではないからね?」

「違うんだって。バズろうと思ったら今日なんだって」

「前から思ってたけどTwitter大喜利が全てみたいな価値観やめな?」


 完璧だった。

 組織脱走から1ヶ月間、彼女は脱走を手伝い、日本入国を手引きしてくれた協力者とともに日本の女子高生の文化風習を徹底的に調査研究し、「誰よりも女子高生らしい女子高生」になれるよう自分を訓練した。

 そして高校生二年生として在学して6ヶ月。

 これはサバイバルだ。

 組織と、自分との、それぞれの生存を賭けたサバイバルの戦いだ。

 そして、最高のサバイバル技術が「目立たないこと」であることを、彼女は知っていた。

 木を隠すには森の中。

 十代の女を隠すには、沢山の十代の女の中。

 ゲー・フュンフG5と呼ばれた過去の自分を消し、血と硝煙の匂いを消し、生き残る。そしてそれがまだなんなのかは分からないが、幸せを掴むのだ。

 そうできなかった彼女の分身、ゲー・フィーアG4の分まで──。


 彼女はクラスメイトの長峰みずほとハンバーガーを頬張りながら、今は自分の蒼い左目になったかつての相棒を想った。


「お、長峰と神崎じゃん」

「おー、八次と島谷。ごくろうさん。まあ座れ座れ」

「中小の社長かあんたは」


 クラスの男子二人に対する、友人の変わった挨拶にジャブ程度に突っ込みながら、神崎ひかげの脳裏に過ぎ去った闘争の日々が思い起こされていた。


 だからだろうか。


「お前ら……バレンタイン準備してんの?」

「それはもう。ねえ、ひかげ」

「え? うん、まあね」


 彼女は彼女には珍しく、適当な生返事をしてしまった。


(バレンタイン……?)

 

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