脱ぎ捨てられた仮面

「いきってんじゃねえよ」


 歯をギラつかせながら食いかかるように言い放った。


「お前、むかつくんだよな。前から気にくわなかったんだ。先生に媚びやがって,お気に入りで気分が良いだろうなあ」


 そうだ,と何か思いついたように山根くんはこっちにやってくる。間違っているのは山根くんだ。ぼくは正しいことをしている。自分で自分にそう言い聞かせるのだが,震える足を止めることが出来ない。無理矢理拳に力を込めたつもりだが,爪が手のひらに食い込む感触すらしない。


「まさる,お前がやれよ。おれの漢字ノート。この弱虫にやらせるのが嫌なんだろ? 守りたいんだろ? じゃあお前に頼むわ」


 それは違う。自分でやりなよ。そう言うべきだった。でも,言葉はのどを通らなかった。ぼくは弱い。針金ほどの細さの正義感しか持ち合わせていなかったのだ。


「山根くん,宿題のことは気にしないで。ぼくがやるから大丈夫だよ。漢字を書くの,そんなに嫌いじゃないんだ」


 震える声でそっちゃは言った。ぼくは,自分がどれだけみじめで弱い存在かをこのとき初めて知った。形だけの正義感を振りかざして生活していたが,本当に強かったのはそっちゃだった。ただ言われるままにしているように見えたが,大切なことは自分が傷つけられてでも主張する。ぼくは守られていた。か細く,寒さで震えるような声を絞り出す勇敢な自分より小さな勇者に。


 そっちゃの勇気を振り絞った言葉を,山根くんは受け入れなかった。うっせえ! と叫んでそっちゃの机を蹴り上げる。金属音が教室に大きく響いて,クラスの皆がこちらに目を向けた。


「おれはまさるに頼んでいるんだよ。余計なことを言うな。で,どうするんだ? やってくれるんだろうな?」


 教室の時間が止まったように静寂が包み込む。そっちゃがつばを飲む音が聞こえる。自分の心臓の音が空気を震わせるように鳴り響く。周りの視線が音波のように自分に向かって突き刺してくる。


 はっきりしろよ! と怒鳴る山根くんに両肩を上げて縮こまりながら,ぼくは首を小さく縦に振っていた。


 その日から,ぼくに対する皆の目は変わっていた。ちょっとクラスで何かを話をするときなどはいつも意見を求められていた。たいした答えを出さなくても,なんとなくぼくが言った意見が正しいかのように丸く収まっていた。極端な意見を出さないと言うことが逆に波風を立てない理由であったのかも知れない。でも,もうそんな立場ではなくなっていた。なにを言っても説得力は無いし,思ったことを言ったところで次第に無視されるようにすらなった。


 時々,ぼくのことを気にしたそっちゃが声をかけに来てくれた。初めのうちはそれとなく話をしていたが,二人で話をしているところを見ると山根くんが間髪入れずに茶化してくる。それを聞いたクラスのみんながぼくたちを笑いものにする。そんな瞬間がぼくにはたまらなく辛い時間であり、耐えられなかった。そっちゃはどうかと言えば,周りがどんなリアクションをしようがお構いなしで,ぼくとのつながりを保とうとした。本人としてはそんなつもりはなかったのかも知れないが,ぼくはそっちゃから哀れみの感情からそばにいてくれているのだと勝手に解釈し,周りの視線とそっちゃのお節介に二重に苦しめられているような気がした。家に帰ると何でも無いような表情でさも学校が充実していたという封にお母さんに話をする。お母さんはそれが一番の幸福だというような顔をして微笑んでいる。


 どこにいても仮面をかぶり続けていた。

 ある日,耐えられなくなったぼくはその仮面を投げ捨てた。

 


 休憩時間になると,いつものようにそっちゃがぼくの席へとやってきた。この頃は,山根くんが何も言わなくても,クラス全体がぼくたちを嘲笑の目で見ていた。そっちゃがぼくの席に近寄った途端にひそひそ話が始まる。弱い者通しが固まって楽しそうにしているよ,と呟いているのが脳内で勝手に再生される。実際にそんな言葉が聞こえてきたわけではない。なぜなら,その声はぼくの声だったから。視界の中で誰かが声を潜めるように会話をしているのを見ると,それがどのような言葉で自分を嘲笑しているのかを想像して,頭の中でカセットテープのように再生とリピートが繰り返された。

 バン,と大きな音を立てて机を叩き,勢いよく立ち上がった。「ほっといてくれよ!」とわめくようにして叫ぶと,そっちゃの肩を強く押した。そっちゃは後ろによろめいて,ぼくの前の席に座っていた人にぶつかった。ぼくはかまわず机の上にあった教科書やノートをなぎ払うように散らかした。何かを叫びながら暴れていたように思うが,何を言っていたのか思い出せない。もしかしたらそれは言葉ですらなかったのかもしれない。まるで他人のことのように断片的にしか思い出せない。覚えているのは,そっちゃが次の日から学校に来なくなったこと。そのまま転校してしまい,二度と顔を合わすことが出来なくなったことだ。



 ぼくは次第に学校に行かなくなり,卒業式も出ずに小学校を卒業した。

 お母さんは,そんなぼくの変わり様をひどく悲しんだ。中学校からは一念発起して頑張ろうとなんとか入学式には参加したが,その次に日にはまた元の生活に戻っていた。何をやってもだめなぼくが唯一心安らげる時間は,ゲームに没頭している時間だった。

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