フラッシュバック


「ぼくたちも昨日ここに着いたばっかりで,この依頼ボードも今見つけた所なんだ。答えてあげられなくてごめんね」


 少年は肩を落として,分かりました,とうなずいた。


「ぼくはまさる。こっちはライアン。ぼくは勇者なんて立派な者とはほど遠いんだけど,自分を変えたいなって思っていろいろと頑張っている。ライアンはこう見えて,昔は勇者って呼ばれていたすごい人なんだ。君の名前は?」


 「こう見えてってどういう意味だ」とライアンに頭頂部を拳ではたかれた。だってそうでしょ,と涙目になりながら言い返したが,ライアンはあまりそのことに触れてほしくなさそうだ。


「まさるよ。最初の頃より口がよく回るようになったな」


 そうかな,と鼻の頭をかきながら考えた。確かに,初めて会った人に自己紹介をしてから名前を尋ねるだなんて,少し前の自分では考えられない。それどころか,簡単にライアンの紹介を済ませ,目の前の相手の様子から何かしてあげられることがないかだなんて考えてすらいる。何か彼にしてあげられることはないか。そんなお節介が心の中に湧き上がってくるのはしばらくぶりだ。そんなのは小学生の頃にやめたはずだったのに。ぼくはいつしか好意的な感情も否定的な感情も人に抱かないようになった。

 昔は活発な方だった。思ったことをそれなりに口に出していた。それがあるとき,学校に行くのが苦痛になった。それでも無理して学校に行った。そんなことを続けていると,心が壊れた。人間は身体を守るために防衛本能がプログラミングされているらしく,適応できない環境に無理して足を運ぼうとすると,いつしか玄関から出られなくなった。動かない足を無理矢理にでも前に出そうとして,嘔吐したこともあった。次第に制服を着ることも出来なくなり,平日に自分の部屋から出ることはほとんど無くなった。

人と関わるのが怖くなった苦い思い出が,まるで落雷が落ちたように脳内でフラッシュバックした。




 教室の後ろのロッカーの棚は荷物が散乱し,机の横の通路には子どもの私物であふれていた。特に教室の雰囲気を左右する男子においては,公共の場という間隔は一切無かった。とっくに提出期限の切れたプリント,保護者への案内文,学級通信。まるで盗人が手当たり次第に金目のものを探したみたいに,クリアファイルやランドセルの中に入っているべきありとあらゆる配布物が床にまき散らしてあった。自分の部屋でさえもそのように散らかしているのかと疑わしくなるほどの散らかりようには目を覆いたくなる。

 小学校の低学年は素直だ。先生の言うことは絶対だし,とにかく褒められたい。物心が付いた頃には父がいなかったぼくには,担任の清水先生はお父さんのような存在だった。羽目を外すと叱ってくれ,正しい行動をすると手放しで褒めてくれた。清水先生が褒めてくれるなら何だってしたいと思い,自分の力以上の役割を引き受けたりもした。このことはぼくの力をずいぶんと引き上げた。

 中学年ぐらいになると,だんだんとませてくる。宿題がめんどくさくなってなんとかサボろうとしたり,誰かと効率よく答えを写し合ったり,時には言うことを聞かせて人にやらせようとする人もいた。山根くんはその代表だった。

 ある日,気の優しい背の小さなそっちゃというあだ名の男子に山根くんは漢字の宿題を押しつけていた。そっちゃは嫌そうだったが,はっきりと断ることが出来なかった様子で無理矢理漢字ノートを押しつけられていた。そっちゃは優しい人しかだった。気が優しくて断りきれないというところももちろんあったが,たとえどんな人が相手でも,自分が断ることで相手を傷つけてしまうのではないか,それなら負担は自分が背負う,といった様子で毎日を過ごしていた。掃除や係にしても,給食の係りにしても,誰か困っている人がいれば率先して役割を担っていた。ただ遊びたいからという理由で仕事をサボりたいクラスメイトにいいように使われようとも,いつも快く引き受けていた。


「自分でやりなよ」


 そっちゃと山根くんの間に割り込むように入っていった。スポーツが得意だったり,身体が大きいわけじゃなかったが,正義感は人並みに持ち合わせていた。清水先生もぼくにはなぜか絶大な信頼を寄せていて,なにかあればぼくにお願いすることが多かった。正しいことをしなさいというのが清水先生の口癖で,クラスで何か問題があったときには傍観していた周りの人も必ず怒られた。でも,間違ったことをしていた人に注意を与えたり,弱い人を守ったときにはそれと同じくらい大げさに褒めてくれた。褒められたかったぼくは,大して強くもなかった正義感が輪をかけたように大きくなり,クラスの皆もぼくが注意をしたら素直に聞いていた。そんな関係が出来上がっていたので,ぼくはガキ大将の山根くんに臆することなく注意を与えた。

 ただ,その日は虫の居所が悪かったのか,番犬が部外者に気付いたときに見せるような,狂気に満ちた視線をこちらに向けてきた。

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