四  霧は夢幻の如く

修羅しゅら


沢郷に春が訪れた。

奥州の春は一斉にやって来る。宗綱の屋敷に明るさが戻っていた。阿修羅が屋敷狭しと駆け回り、時折鍛冶場に姿を見せては次郎太に追い返されていた。あの日から、阿修羅は霞になついて、夜叉丸の元に帰る気配が無かった。阿修羅は日ごとに成長して、今では夜叉丸を凌ぐ体高になっていた。

馬鬼羅たち山窩は陸奥に戻った。そして、杖林寺にも静けさが戻っていた。空齋は何か感じるところがあるのか、居座ったままで、寺を出て行く気配がない。あれから、宗綱の屋敷に勘九郎がやって来るようになり、今日も阿修羅と一緒になって騒いでいる。犬と烏が紅彦の供をして屋敷の中を歩いているのを見て、次郎太や弥吉たちは目を細めていた。

大楠に凭<もた>れて庚申山を眺めていた紅彦に霞が声をかけた。

「弘忍様に食べていただこうと思って大福を作ったのよ。一緒に行きましょう」

「あいつは甘党だから喜ぶよ」

「さあ、行きましょう」

「父上には言ってきたかい?」

「父上は朝から鍛冶場なので、弥吉に言ってきたから大丈夫よ」

「阿修羅には内緒で行こう」

「それは無理よ。紅彦さんが家を出るときには、何処にいても走って来るもの」

阿修羅は暇を持て余して、先ほど勘九郎を引き連れて鍛冶場に出かけた。初めの頃は次郎太に追い出されていたが、性懲りもなくやって来る阿修羅を宗綱が黙認したのだ。何が気に入ったのか、阿修羅は紅彦が家にいるときには、鍛冶場の隅にちょこんと腰を下ろし、宗綱たちの仕事を飽きもせずに眺めている。

長屋門を出たとき、後ろから軽い足音が追いかけて来た。

「ほらね、阿修羅を出し抜こうとしても無理でしょう」

「知らん振りして行こう」

阿修羅は二人を追い越して、くるりと向きを変え、巻尾を目一杯振って紅彦と霞を代わる代わる見ている。

「お前には敵わないなあ」

「阿修羅も一緒に行きましょう。あれ、勘九郎はどうしたの?」

「霞さん、ほらあそこ・・・・」

紅彦が指差す方向に勘九郎が飛んでいた。

「勘九郎がいると、弘忍様をびっくりさせることができないわねえ」

「勘九郎は頭がいいからなあ。弘忍もあいつに教わらなくちゃ駄目じゃないのか」

「今ごろくしゃみしていますよ」

紅彦と霞が顔を見合わせて笑うのを、阿修羅が不思議そうな顔をして見上げた。

杖林寺の参道は新緑に覆われ、清々しい雰囲気をかもし出していた。山門は落ち着いた風情で二人を迎え入れた。境内に足を入れると、ここで血生臭い斬り合いがあったことなど感じさせない、深い静けさをたたえていた。

庫裏には人の気配が無かった。庭に回って居間を覗いたが、そこにも弘忍と空齋はいなかった。部屋も整然としており、荒らされた様子は無かった。

「あいつらどこに行ったんだろう?」

「ここから上がって待ちましょうか?」

霞は濡れ縁から座敷に上がった。紅彦は濡れ縁に腰を下ろしたまま、阿修羅の動きを眺めている。勘九郎は阿修羅よりも先回りして、ここに戻ったと思っていたのだが、どこにも姿が見えなかった。紅彦は無双宗綱を胸に抱き、濡れ縁に仰向けになって目を閉じた。

「紅彦さん、お茶にしましょう」

「そうだなあ、あいつらもそのうち戻ってくるだろう」

「私たちが大福を食べているのを見たら、弘忍様はどんな顔をするでしょねえ」

 先ほどまでそばにいた阿修羅が突然走り出し、地蔵菩薩像の前で吠え立てた。

紅彦が走った。

「何をしてたんだ、そんな顔をして・・・」

洞窟の入り口で、弘忍と空齋が真っ黒な顔をして立っていた。

「夜叉丸じゃと思ったら、こいつは一体何なんじゃ。儂のことを見て吠えるとは、たいした奴じゃのう」

弘忍が驚いた顔で阿修羅を見ている。

「やや、もしや、霞さんから聞いた夜叉丸の子供とはこいつのことかな。そう言えばよく似ておるぞよ」

弘忍が阿修羅を見たのは、まだ幼犬の頃だから無理もなかった。

「弘忍、儂は見た途端に、こいつのことは分かったぞよ」

空齋がしたり顔で言った。

「お主なあ、いい加減なことを言いおって、お主こそキョトンとしておったがのう」

弘忍と空齋が互いにけなした。

「二人とも大福を食べるか。霞さんが二人に食わせようとして作ったんだけれども、二人とも姿が見えなかったし、置いていっても悪くなってしまうと思って、俺と霞さんで食い始めたんだが・・・」

紅彦が真顔で言った。

「何と・・・、霞さんはそんな意地悪なことはせんぞよ」

まだ言い終わらない内に、弘忍が庫裏に向かって走り出していた。空齋も負けじと後を追って行った。

「阿修羅、お前のほうが大人だな」

紅彦は阿修羅の鼻面を撫でた。

庫裏に戻ると、二人とも真っ黒な顔のまま大福を頬張っていた。

「紅彦さんがあんなことを言ったものだから、二人とも大変だったのですよ」

霞が可笑しそうに手で口をふさいでいる。

 紅彦は座敷に上がり、霞の横に座った。

「なるほど、これはまるで餓鬼だなあ」

「・・・でしょう」

「お前ら二人、洞窟で何をやってたんだよ」

笑いを堪えながら、紅彦が二人に聞いた。

「うむ、ご・うううう・・・」

「霞さん、弘忍に茶だ」

茶を注いで、霞は弘忍の背中をさすった。

「弘忍、お前まるで餓鬼だぞ」

「・・・・」

「何をしてたんだよ?」

弘忍が茶を飲み干し、胸を撫でていた。

「大丈夫か?」

「ああ、お主が大福のことを言ったから、意地汚い空齋と競争になって、喉につかえてしまったではないか」

眼を白黒させ、弘忍が紅彦を睨んだ。

「まあ、落ち着けよ」

「儂はいつも落ち着いておる。ところで何のことじゃったっけ?」

「洞窟で何をしてたのか聞いたんだよ」

紅彦があきれた顔をした。

「うむ、実はのう、夕霧城の奥を探索に行ったんじゃよ。崩れそうになっておった所があったろう。あそこに何があるのか、この空齋と問答をしてな・・・・」

「このところ暇じゃったのでのう、そんな訳で、穴倉探索としゃれこんだんじゃが、以外に暗くてのう・・・」

「じゃから、儂がそう言ったじゃろう」

弘忍が空齋を睨んだ。

「お前らまるで子供だ」

「紅彦には言われとうないがのう」

「ところで、あれから何か変わったことは無かったか?」

紅彦が弘忍の顔を見た。

「何かあれば穴には潜らんぞ」

「ああ、弘忍は生臭坊主でお経もろくにあげんから、暇でのう・・・」

空齋が横から口を出した。

「暇で結構じゃないか」

紅彦が笑った。

「笑い事じゃないぞよ。ずーっとこの空齋と一緒にいるんじゃぞ。こいつの顔を見ていると気が滅入るぞよ」

「弘忍、お主も髭ぐらい剃らねば野伏と変わらんぞよ」

空齋も負けてはいない。

「弘忍、夕霧城には、何かあったのか?」

紅彦は話題を転じた。

「うむ、忘れておった」

懐の中から布に包まれた物を、紅彦の前に置いた。懐剣と首飾りであった。懐剣は拵えが豪奢であり、気品に溢れていた。紅彦が鞘を払うと、刀身は諸刃の菖蒲造りで地鉄の冴えがあり、錆び一つなく八寸の刃が美しい直刃を見せていた。

「いい出来だ。拵えは蝦夷のものだな。身分の高い女性が持っていたんだろう」

「この首飾りは私のと同じだわ」

霞が驚きの声をあげた。

「これが出て来たところは、奥の院だったのかもしれんのう。多分、阿手流為に縁が深い者が所持しておったのじゃろう」

弘忍が感慨深げに話した。

「じゃあ、弘忍様は阿手流為様の子孫かもしれませんねえ」

「そうじゃのう」

冗談のつもりで言った霞の言葉に、珍しく真顔になった弘忍が肯いた。

「霞さんの首飾りを見せてくれんか?」

霞が首飾りを外して空齋に渡した。空齋がしみじみと比べて見返していたが、納得したように霞に返した。

「同じ物じゃのう。霞さんのも、この夕霧城の物と同じ造り手じゃのう。不思議なことじゃが、弘忍が杖林寺を守っている訳が飲み込めたぞよ」

そう言って、空齋は弘忍を見た。

「うむ、そういう訳じゃ」

弘忍がつるりと顔を撫でた。

「お昼を作りましょうか?」

「おお、そんな時刻になっておったか」

腹っぺらしの弘忍が嬉しそうな顔をした。

「ウオン」

「おお、紅彦、まだあいつを紹介してもらっておらんぞ」

弘忍が阿修羅を指差した。

「小さい頃会っているだろうが・・・」

「あいつが、こんなでっかくなったのか」

さっき教えたのに大福に夢中になり、弘忍は上の空だったのだ。

「あいつが阿修羅だよ」

「顔がそっくりになったのう。むしろ、親父より美男子かもしれんのう」

弘忍が阿修羅を観察している。

「じゃが、阿修羅とは随分と恐ろしい名前をつけたもんじゃのう」

空齋が口を挟んだ。

「あいつには、橘家を守ってもらわなければならんからなあ」

「橘家というより霞さんをじゃな」

空齋が茶化した。

「夜叉丸がいなくなってから霞さんも寂しそうじゃったが、また賑やかになってよかったのう」

弘忍がしみじみと言った。

「阿修羅は勘九郎と友達だから、時折ここまで足を伸ばすかもしれんぞ」

「まあいいじゃろう。紅彦が訓練するより、儂が教えた方が上品になるかもしれんからのう。任せておけ」

弘忍が胸を叩いた。

「弘忍に似たら、とてつもなく上品になるじゃろうのう」

三人の笑い声が境内に響き渡った。

阿修羅が何を見つけたのか、突然、鐘楼の方に走って行った。話題も途切れかけた居間に、台所から霞の作る料理の匂いが漂い、腹減らしの弘忍が鼻をぴくつかせていた。


その頃、蘭が妙見山を歩いていた。

左手に半弓を持ち、数羽の山鳥が入った網を肩から提げていた。

突然、蘭が目の前のブナの太い枝に跳びつき、そのまま枝の上に身を潜めた。その直後、蘭の下を大猪がつむじ風のように走り抜け、それを地犬の群れが追い駆けていた。夜叉丸の率いる群れが、大猪を妙見山に追い詰めて来たのだ。蘭が廃屋に戻ると、左馬の姿はどこにもなかった。左馬はここ数日間、紅彦の動きを監視しているのだが、思ったより容易なことではなかった。空には妙な烏がおり、木陰から見張りをすれば地犬が走り寄って来る。左馬は自分が安易に考え過ぎていたことを思い知った。翌日、左馬は冠山中腹の獣道から脇にそれた窪地に潜み、隠居風に変装した姿で杖林寺を見張っていた。左馬の鋭敏な耳に、参道の階段を上って来る足音が届いた。

大柄な行脚僧が山門を見上げていた。唐風の山門には、遊霧山と揮毫された扁額が掲げられている。行脚僧が境内を進んで行くと、歯をむき出して阿修羅が吠えた。

「どうした?」

紅彦が玄関から姿を現した。

「元気な犬じゃのう」

大柄な僧侶が阿修羅を警戒しながら、紅彦を見つめていた。

「どうした紅彦、これは失礼した。どちらから参られたかな?」

「拙僧は鉄牛と申す。全国を行脚しておるところじゃ」

「まあ、本堂に上がってくだされ」

弘忍が鷹揚に言った。阿修羅は、まだ歯をむき出したままだ。紅彦は本堂に向う鉄牛の後姿をしばし見つめていたが、阿修羅を連れて鐘楼に向った。鐘楼があっても、めったにこの鐘をくことはない。先代の住職は几帳面に時を告げる鐘を撞いたが、無精者の弘忍は勝手に止めてしまったのだ。里の者から再三頼まれたが、そんなことはどこ吹く風で一向に撞こうとはしなかった。沢郷の長老も弘忍の朝寝坊を知ってからは、里に坊さんがいてくれるだけでもいいと思うようになり、時を告げる鐘は諦めてしまった。鐘楼から見る庚申山は、穏やかな姿を見せている。

阿修羅が立ち上がって四肢を踏ん張り、庚申山に向って吠えた。勘九郎が鳶を追いかけていた。

「あのお坊様、なんか感じが悪いわねえ」

霞が鐘楼に上がって来た。

「ああ、・・・」

「本当にお坊様かしら?」

「さあ・・・、その内に分かるだろう」

「あら、あそこに飛んでいるのは勘九郎じゃないの?」

霞も勘九郎を見つけた。

「勘九郎が戻って来ると賑やかになるわねえ。阿修羅といい相手だもの」

「庫裏に戻るか。あの坊主に、茶の一つも入れてやらなきゃならんだろう」

紅彦と霞が連れ立って庫裏に戻ると、丁度、弘忍と鉄牛が部屋に入って来るところだった。

「紅彦、お主も一緒にどうだ?」

弘忍が紅彦も一緒にいてほしいと、不器用に合図をした。

「さあ、入られよ」

弘忍が鉄牛を促した。

部屋には空齋が待っていた。

「あらためて紹介しよう。こいつが紅彦、隣にいるのが霞さんだ。あっちにおるのが空齋、お主と同じく行脚をしておる」

乱暴な言い方で弘忍が全員を紹介した。

「拙僧は鉄牛と申す。胆沢まで行くところじゃが、杖林寺に名僧がおると聞いて訪ねて来たんじゃ」

鉄牛は大柄な体格に相応しく、野太い声をしている。

「誰に聞いたのかは知らんが、ここにはそのような坊主はおらんぞよ。霞さん、すまんが茶を頼む」

弘忍の声も負けずに野太い。

霞が台所に消えて行く姿を、鉄牛が粘っこい眼で追っていた。鉄牛は四尺二寸の杖を持っていた。蔦が巻きつき、捻じれた桜の木を杖に仕立てた物だが、僧侶には分不相応の物だ。鉄牛が紅彦の手にしている太刀に目を向けているのを、空齋がじっと見つめていた。

「まあ、座ったらどうじゃ」

弘忍が促した。

「拙僧は太刀の目利きもするんじゃが、紅彦殿の太刀を見せてくれんかいのう」

「鉄牛殿は元武家の出じゃな?」

先ほどから黙っていた空齋が話しかけた。

「よく分かったのう。拙僧は伊勢の齋藤家に仕えておったが、伊勢神宮の巫女に懸想してのう、それで暇を出されてしもうたんじゃ。恥ずかしい話よのう。拙僧はこれでも、齋藤家中で織田乙麻呂といえば、豪の者として知らぬ者はおらんかったぞよ」

得意そうに、聞かれていないことまでもとうとうと話している鉄牛を、空齋があきれ顔で眺めた。

紅彦が無造作に無双宗綱を差し出した。

「拝見仕る」

粗野な男かと思えば、鉄牛の太刀を見る作法は鮮やかなものであった。無双宗綱を垂直に立てて、佩き表、佩き裏と見てから、目釘めくぎをはずし、なかごをしみじみと眺めていた。

「感服した。これほどの業物は初めて目にした。見事なものじゃ。刀身を見ると随分と使われておるようじ

ゃのう」

「二尺二寸、少し短いが扱いやすい太刀だ。これは宗綱殿が若い頃鍛えたものだ。お主は目が高いなあ」

伯耆ほうきの安綱の作風を引き継いでいる宗綱殿のことは、太刀を持つ者は知らぬ者はおらんじゃろうて。実に見事なものじゃ」

そのとき、霞が部屋に入ってきた。

「弘忍様、しばらく来なかったら、台所が大変なことになっていますよ」

霞は鉄牛に茶と大福を差し出し、弘忍に目を向けた。

「おお、あれはこの空齋がだらしないからじゃよ。儂一人のときにはもっと綺麗にしておったぞよ」

「霞さん、話半分というぞ。儂もこの歳になってから、大男の世話をしなくてはならんとはのう。仏様も大変な修行を仰せつけてくれたもんじゃよ」

空齋が大袈裟にため息をついた。

「紅彦、年寄りは嫌じゃのう。だんだんひがみっぽくなってくるからのう」

「お前、空齋と同じくらいの歳だろう」

紅彦と弘忍のやり取りを聞いていて、霞が俯いて笑いを堪えていた。

「鉄牛殿、伊勢の方では平氏と源氏が勢力を争っておるようじゃが、どうなっておるんじゃろうかいのう」

空齋が鉄牛に問いかけた。

霞が紅彦の横に寄り添うように座った。

「源氏はまだまだじゃろう。やはり平氏の方が上じゃろう」

「実は先だって、平氏の者が三人ほどここにやって来てのう、訳の分からん事を言って太刀を抜いてな、暴

れ捲くって行きおったよ。あれが平氏じゃとしたら、平氏もたいしたことがないのう」

呆けた顔で空齋が、しゃしゃあと言った。

「それはいつ頃のことじゃな?」

鉄牛の目が光りを帯びた。

「かれこれ二月も前じゃったかいのう」

弘忍が応えた。

「その平氏はどうしたのじゃ?」

「さあてな、紅彦あいつらどうしたっけ?」

「弘忍が相手にしないので、挨拶もしないで帰ってしまっただろうよ」

開け放ってある縁側に阿修羅が走り寄って来て、さかんに吠えまくった。

「阿修羅、どうした?」

紅彦が声をかけると、阿修羅が濡れ縁から座敷に跳び上がり、天井に向ってうなり声を発した。初めは、鉄牛に向って吠えたものと思ったが、どうやら別の何者かに向って吠えているのだ。

弘忍が紅彦に目で合図をした。

紅彦が立ち上がり、長押に掛かっている槍を手にとり、天井を突き刺した。そのとき、阿修羅が台所に向って、勢いよく走り出した。

「空齋、霞さんを頼む」

紅彦は空齋に槍を投げ渡し、弘忍と共に台所に向って走った。

空齋は霞の前に移動した。

紅彦たちが台所についたとき、阿修羅の声は裏山に移動していた。

「行くぞ、弘忍」

台所にあった麺棒を手にした弘忍に声をかけ、紅彦は裏山に走った。

「クシュン、クシュン」

本堂裏の獣道で阿修羅が立ち往生していた。

走り寄ると、辺りに唐辛子の粉を撒いたような匂いが漂っており、草色の忍び装束の男が、岩陰に消えるのが紅彦の眼に映った。

「阿修羅、ここで待て」

紅彦は男を追って走った。忍びの者は、甲賀中忍の左馬だった。左馬は左足を負傷していた。足に巻き付けた布に血が滲んでいる。

紅彦が疾走した。左手で無双宗綱の鍔を押さえ、右手には棒手裏剣を握っている。左馬との距離が三間に迫った。左馬が振り向きざまに、八方手裏剣を下手射ちした。紅彦も同時に棒手裏剣を放った。左馬の放った八方手裏剣が右に跳んだ紅彦の左太股に刺さり、紅彦の射った手裏剣は左馬の右肩に深々と刺さっていた。左馬は身を翻して、跳ぶように岩場を登り、紅彦の視野から消え去った。紅彦はその場に腰を落とし、短刀で太股を裂いた。

「紅彦、大丈夫か?」

息を切らして弘忍が走って来た。

「おお、やられたのか」

弘忍は墨衣を裂き、紅彦の足に巻きつけた。

「大丈夫だ」

「よし、ゆっくり戻ろう」

「いや、弘忍は先に戻ってくれ。あの坊主が気になる」

「よし、分かった」

弘忍が走り去ると、代わりに阿修羅が紅彦のところに走り寄って来た。

「心配することはないぞ」

「・・・・」

紅彦と阿修羅が庫裏に戻ると、弘忍から事の次第を聞いていた霞が、不安そうな表情で待っていた。

「大丈夫ですか?」

「ああ、たいした傷じゃない」

座敷に戻ると、鉄牛の姿はなかった。

「鉄牛はどうしたんだ?」

紅彦が空齋に聞いた。

「弘忍が戻って来てから、胆沢まで行くと言って出て行ったよ」

「あいつは仕込杖を持ってたぞ」

「おお、紅彦も気づいておったか」

弘忍が野太い声を出した。

「あいつはまたここに来るぞ」

「ああ、そうじゃろうと思っとる」

「弘忍、俺は一旦屋敷に戻る。甲賀者もすぐ

には襲って来るまい」

「おお、それがよいのう。ここは儂と弘忍がおれば案ずることもなかろう。甲賀者二人の内、一人が手負いじゃ、当分は来ないじゃろうて・・・」

空齋が殊更明るい調子で言った。

心配そうな顔をしている霞と共に、紅彦は夕暮れの中を屋敷に戻った。


庚申山麓の廃屋では、重苦しい空気が漂っていた。蘭が左馬の傷を手当てしている。紅彦が射った棒手裏剣は、右肩の骨まで達しており、当分右腕は使えそうもなかった。足の傷は左足の脹脛を抉<えぐ>られていたが、思いのほか浅かった。

「相手は紅彦でございますか?」

「うむ、得体のしれん奴じゃ。不思議な刀術を遣う」

「しばらくは動かない方がよろしゅうございましょう」

「紅彦には地犬がついておる。勘の鋭い犬じゃ、油断するなよ」

「必ず仕留めます」

「紅彦をるには昼日中は駄目じゃ。夜に仕留めることじゃな。じゃが、宗綱の屋敷を襲うのは極力控えろよ」

微熱が出た左馬を粗末な寝具に寝かせて、蘭は廃屋を静かに抜け出した。紅彦の行動はおおよそ掴んでいるが、最後の詰めをしておく必要があった。左馬の意向は、紅彦を人知れず葬り、都からの侵攻を悟らせないことであった。欄は、八方手裏剣と千本と言われる棒手裏剣を巧みに使う。蘭が腰に帯びた忍び刀は、二尺にも満たない。

 蘭が庚申山から冠山に続く裾を走っていた。

宗綱の屋敷から時折犬の吠える声が聞こえるが、そこには紅彦の姿は見えなかった。鍛冶場から槌の音が聞こえ、弟子たちの出入りする姿が窺えるが、ここにも紅彦の姿は無かった。宗綱の屋敷は庚申山の中腹から一望しており、蘭の頭には建物の配置が刻み込まれていた。

 蘭が紅彦の姿を見つけたのは、それから三日後であった。藍色の作務衣姿で杖林寺に向かう途中を、庚申山側から見つけたのだ。左馬の言うとおり、紅彦には地犬がつき従っており、その後ろには藤色の留袖を着た霞が風呂敷包みを提げて歩いていた。二人が杖林寺の参道に入り、階段を登りだすと、蘭は冠山に移動した。紅彦たちが境内に入ると、どこからか来たのかやかましいほどに烏が鳴きわめきたて、紅彦の肩に止まった。

紅彦たちは、そのまま杖林寺の庫裏の中に消えた。

蘭は、本堂裏の窪地に身を伏せた。

庫裏の居間では、弘忍と空齋がのんびりと囲碁を打っていた。

「やあ・・・」

紅彦が顔を出した。

「どうじゃ傷は。音沙汰が無かったから、お主は死んでしまったかと思っとったぞ」

「弘忍を残して死ぬ訳にはいくまい」

「お主、口が上手くなったのう。じゃが、それを言うなら霞さんを残してじゃろう」

弘忍には、紅彦の陰に隠れていた霞が見えなかったのだ。

「弘忍様は蕎麦饅頭がお嫌いでしたわねえ」

霞が紅彦の横から顔を見せた。

「ややっ、これは霞さんも一緒じゃったのか。儂は蕎麦饅頭が大好物であるぞよ」

「霞さん、弘忍はこのところ運動不足で腹が出てきおったから、もしや遠慮するかもしれんぞよ」

空齋がからかった。

「馬鹿言うな。それじゃ饅頭が可哀想じゃろう。せっかく儂を訪ねてきたのに・・・」

「弘忍、そりゃあ無茶苦茶じゃわい。この襤褸<ぼろ>寺を訪ねてきたのは霞さんじゃろう。饅頭が歩いてきたら、勘九郎に食われてしまうぞよ。あいつも住職に似おって大飯食らいじゃからのう」

「まあいいじゃろう。空齋には多少世話になっておるでのう。じゃが、勘九郎のような下品な奴と一緒にされてはかなわんのう」

とうとう堪えきれずに霞が噴き出した。

紅彦が碁盤の横に座った。

「紅彦、お主言うなよ」

空齋が盤を睨みながら紅彦に釘を刺した。この前は、次の一手を紅彦に指摘され、弘忍に負けてしまったのだ。

「空齋、せっかく饅頭がやって来たんじゃから、もう仕舞いにせんか?」

弘忍は盤上よりも饅頭が気になるらしい。

霞が気を利かせて茶を入れて来た。

「あら、弘忍様の番なの。左辺に手が残っているわねえ。あそこを切ると鶴の巣篭すごもりじゃないかしら・・・」

「なあ空齋よ、さっきのとこで止めておけばよかったのう。儂ものう、お主が可哀想で次の一手を打つのを躊躇っておったんじゃが、霞さんが言ってしまっては、そこに打たん訳にはいかんじゃろう」

「今日も紅彦たちにやられてしまった」

空齋が諦め顔で言った。

 いつの間にか、弘忍が蕎麦饅頭を頬張り、二個目を手にしていた。

「紅彦、傷はどうした?」

空齋が紅彦に目を向けた。

「もう随分良くなったよ。手裏剣に塗ってあった毒にやられた」

「でもね、苦しんでいる紅彦さんのところに天女様が舞い降り、夜通し優しく抱擁してくれたそうですよ」

「それは霞さんも心配じゃのう。天女様が相手では手強いぞよ」

いい加減に聞いている弘忍が、上の空で相槌を打っている。

「お主全部食うてはならんぞ」

空齋は弘忍の勢いに慌てていた。

「大丈夫ですよ、空齋様。まだ沢山ありますよ。残りは台所の戸棚に入れておきましたから、また後で食べてください」

「この二人に関わり合うと、餓鬼道に落ちそうで不安になるなあ」

霞がくすくす笑った。

冠山に夕靄がかかり、それが杖林寺にも立ち込めてきた。

「紅彦、霞さんがおるじゃで、早く帰った方がいいぞよ。夕靄が出てきたわい」

弘忍が境内を眺めた。

「この前の変な坊主はどうした?」

「おお、あいつはあれっきりじゃのう」

弘忍は意にも介していないような言い方をしたが、部屋の片隅には、弘忍の太刀と空齋の杖が仲良く立てかけられていた。

弘忍に急かされ、紅彦と霞は杖林寺を後にした。参道の途中で庚申山を見ると、夕靄の中に夕陽が沈みゆくところだった。阿修羅が前になったり、後ろになったりしながら二人の周りを歩き回り、時折立ち止まっては、遠くの匂いを嗅ぐように鼻を高く上げる仕草で遠鼻をしていた。


二人は屋敷への道を急いだ。街道に藪が迫っている場所に来たとき、阿修羅が牙をいてある一点を睨んだ。紅彦も僅かな殺気を感じ、躊躇わずに棒手裏剣を射った。

やぶが揺れた。

何者かが藪を移動している。

阿修羅が藪に飛び込もうとするのを制止して、霞の側に行かせた。藪に向って阿修羅が猛然と吠えた。紅彦も藪の僅かな揺れを目で追っていた。霞を後ろに庇い、左手は無双宗綱の鯉口を切っている。突然、庚申山の裾で地犬の群れが一斉に吠え出し、追い立てられるように藪の切れ目から男が姿を現わした。

「お前は甲賀の者か?」

「・・・・」

男は忍び装束で、目だけを覗かせている。その右肩が黒っぽく濡れていた。闘いは、時折、運が左右することがある。地の利は己の経験から導くが、天の利は運である。蘭ほどの術者が紅彦の射った手裏剣を避けられない筈はないが、予期せぬことが蘭の判断を狂わせたのであった。蘭の潜んでいた後方から、地犬の群れが近づいていることを察知できなかったのだ。

蘭が左手で放った棒手裏剣を、紅彦が抜打ちで叩き落とした。

「離れるなよ」

「はい」

紅彦の後ろで霞が合口を握り締めていた。

紅彦が誘いの棒手裏剣を射った。

 蘭は驚くべき跳躍力で中空に跳び、紅彦が第二の棒手裏剣を射つと同時に、蘭も八方手裏剣を左右から放った。紅彦の太刀が瞬時に抜かれ、小さく二度動いて、蘭の放った手裏剣を落とした。蘭は体を折り曲げるようにして着地し、そのまま二回転して紅彦の左方に移動した。

紅彦が虎走りの法で突進した。

 二本の棒手裏剣が紅彦の手から放たれた。

 蘭が小太刀で棒手裏剣を叩いたときには、紅彦は目前に移動していた。蘭が後方に蜻蛉をきったが、紅彦の抜打ちが蘭の背を真一文字に斬り裂いていた。蘭は小太刀を横一文字に構えた。紅彦が左上方に跳躍し、脛囲いの法で太刀を一閃させ、蘭の右手首を鮮やかに斬り落とした。

蘭がよろめきながら霞に向って走った。霞は気丈にも、合口を逆手に構えていた。紅彦の手が二度翻って、蘭の背中に棒手裏剣を射った。蘭が後ろに仰け反った瞬間、紅彦の無双宗綱が閃き、蘭の首を峰打ちした。同時に、紅彦も両膝をつき、肩で大きく息をついた。その周りには、阿修羅と夜叉丸が率いる地犬の群れが取り囲んでいた。

夕靄は一段と濃さを増し、血生臭い闘いを包み隠すように闇が広がっていた。

遠くで虎鶫<とらつぐみ>が鋭く啼いた。


  翌日の早朝、紅彦は霞を伴い、鹿谷に向かっていた。

  鹿谷に来てから阿修羅が姿を消した。

「馬鬼羅はどうしているだろう?」

「あれから時折家に来ているのですよ。こっちに来るときには必ず寄ると言ってました。いつも紅彦さんが留守だから残念がっておりましたよ」

「元気だったかな?」

「ええとても。今度、私を連れて陸奥まで来てくださいと言ってましたよ」

「この件が落着したら、馬鬼羅たちの住む村を訪ねるのもいいなあ」

「行くときには、馬鬼羅殿が道案内をしてくれるそうです」

「馬鬼羅たちが歩くところに、道なんてないだろう」

 紅彦に釣られて霞も笑っている。

「それにしても、阿修羅はどこを歩き回っているのでしょうねえ・・・」

「あいつは元々ここがすみかだから、思い出の場所があるのだろう」

「そうでしたわねえ。すっかり家で生まれた子だと錯覚していました」

「あいつは、俺たちの仲間としてとけ込んでいるからなあ」

いつもだと霞を小屋に残して、紅彦だけで出歩くのだが、今回は霞を連れて庚申山の山頂に行くことにした。岩場が続く曲がりくねった獣道を登ると、大きな岩が天空に突き出した場所に出た。

「いい見晴らしだろう」

「妙見山がとてもよく見えるわ」

「ここに小屋を造ればよかったよ」

「でも、ここでは、紅彦さんは何回も下に落ちていますよ」

 急斜面の上は、狭いが平坦になっていた。山際に大きな岩が屹立しており、紅彦がその裏側を覗くと洞穴が口を開けていた。紅彦が中に入ろうとしたとき、突然、黒い塊が飛び出して来た。

「お前ここで何してたんだ。危うく斬るところだったぞ」

 阿修羅に続いて、小さいのが三頭飛び出して、慌ててまた洞穴に引っ込んだ。

「あいつらお前の子分か?」

「可愛い・・・」

 霞が目を細めた。

 阿修羅が霞を見上げて、巻き尾を大袈裟に振っている。霞が洞穴に向って行ったとき、中から唸り声がして霞を威嚇した。阿修羅の野太い声が、洞穴の中にいる地犬を押さえた。霞が紅彦の方に戻りかけると、母犬と三頭の子犬が洞穴から顔を出し、阿修羅のところにやって来た。

「まさか阿修羅の子供ではないわよねえ」

「それはないだろう」

  藍色の作務衣に身を包んだ霞が子犬を抱きかかえ、腹をくすぐっている。

「阿修羅、ここが夜叉丸の本拠地か?」

「小屋からこんな近くにいたのね」

「子犬たちと友達になると別れが辛くなるぞ。遅くならないうちに山頂まで行こう」

「阿修羅行くわよ」

三頭の子犬が阿修羅に纏わりついていたが、

阿修羅に軽くあしらわれて、諦めたように母犬の方に戻って行った。

二人が阿修羅を従えて山頂に辿り着くと、春なのに意外に空気が澄み切っており、  一関郷や平泉が遠望できた。

「阿修羅、お前の親父と来たときは、秋の紅葉がものすごく綺麗だったぞ」

「・・・・」

 名前を呼ばれたので、阿修羅が紅彦の顔を仰ぎ見た。

「さあ、社にお参りしてから降りようか」

小さな祠に手を合わせて、それぞれの思いを胸に秘めたまま帰り道を急いだ。

  鹿谷に着く頃には陽が西に傾き、春霞が谷一帯を淡く埋め尽くしていた。日が暮れると山の気温は下がってくる。


深夜、阿修羅が唸り声を発し、紅彦を起こした。

「・・・?」

「グルルルウ・・・」

「む・・・?」

 阿修羅が鼻に皺を寄せ、牙を剥いている。

「ここを動くなよ。阿修羅は霞さんを守れ、いいな」

紅彦は外に出た。

闇が深い。

紅彦は闇の中で辺りの気配を覗った。

闇の中に黒い影があった。

影は甲賀中忍の左馬だった。

左馬が右に移動している。紅彦は左馬の動きに合わせ、軸足を僅かにずらしながら、常に左馬と正対していた。

左馬が紅彦に向って疾走した。紅彦は地面に触れるほど膝を折り、臍の前に無双宗綱の鯉口を引き寄せ、右手は柔らかく柄を握っている。左馬の太刀が紅彦の首筋を狙い、唸りを発して横一文字に斬り込んできた。鋭い太刀筋で、体を捌いて躱<かわ>すには、あまりにも激し過ぎた。紅彦は瞬時に無双宗綱を鞘走らせた。鋭い金属音が発し、闇に火花が走った。火花は自分の意志があるように、しばらく空間に蛇がのたくるようにうごめいていた。

左馬の太刀が鍔元つばもと一尺で切断された。

小屋の入り口に立ち、霞と阿修羅がこの様子を見ていた。

紅彦は返す太刀で、左馬の左腕を袈裟斬りにしたが、左馬は二度、三度と蜻蛉をきり、後方に宙返りして躱した。

 紅彦は虎の一足で間隔を一気に詰め、左馬の腹を横一文字に斬りいた。左馬は仰向けに落下し、辺りに血生臭い空気が漂い出した。

霞が阿修羅を従えて近寄って来た。

「怪我は?」

「大丈夫だ」

紅彦は肩で大きく息をしていた。

「甲賀の忍びね」

「ああ、俺に八方手裏剣を射った奴だ」

「まだ襲って来るかしら?」

「こいつは単独で行動しているようだから今晩はもう来ないだろう。前に馬鬼羅が見た甲賀者は二人だと言ってたから、この前の奴とこいつだろうと思う」

「でも油断はできませんね」

 その夜は一晩中、谷を渡る風が鬼哭啾々きこくしゅうしゅうとして、心をてつかせるようにもの悲しく吹き抜けていた。


沢郷は祭りを迎えていた。

 祭りは農繁期のほんの一日だけ、骨休みが許される日なのだ。奥州の山が緑一色となり、冠山には春霞が棚引き、杖林寺にも柔らかな日差しが差し込んでいた。

紅彦と霞は杖林寺にいた。

庫裏の居間では、三段重ねの重箱にご馳走が盛られていた。弘忍と空齋に食べさせようと、霞が腕によりをかけて料理したのだ。

あの日、左馬が身につけていた物は、本堂の仏間に納められていた。左馬は折れた太刀を抱いて、この世から旅立ったのだ。

弘忍が無双宗綱の刀身を眺めていた。

「流石に天下無双だのう。傷一つついておらんわ」

「これで全て終りましたねえ」

霞が誰にともなく言った。

「そうじゃといいがのう・・・」

空齋が呟いた。

 座の空気が重くなりかけたとき、外で勘九郎と阿修羅が騒ぎ出した。

「誰か来たのかしら?」

「儂が行ってみる」

 霞が行こうとしたのを弘忍が止めた。

しばらくすると、廊下を渡って来る二人の足音がして、弘忍の後ろから、以前、杖林寺を訪れた鉄牛がのっそりと姿を現した。

「おお、皆元気そうじゃのう」

鉄牛が霞を一瞥いちべつして言った。

青紫色の着物姿の霞は、匂うようなしっとりとした色気が滲み出ている。

「鉄牛殿、黒石寺はどうじゃったな?」

空齋が聞いた。

「おお、あの寺では正月に裸祭りがあるそうじゃ。なかなか立派な住職がおってな、いかい世話になってきた」

鉄牛は霞を粘っこい目で見ながら、空齋に応えた。そのとき、居間の濡れ縁に馬鬼羅が姿を見せた。気を利かせて、霞が台所から濯ぎ水を持って来た。それを受け取りながら、馬鬼羅が小声で霞に何事かを耳打ちした。

馬鬼羅が紅彦の隣に座った。

「馬鬼羅、お前以前に阿修羅に会ったことがあるんだろう?」

「紅彦さん、馬鬼羅さんは夜叉丸のことを時折気にかけてくださっているのですよ。ずーっと前から、夜叉丸があの洞穴にいることを知っていたのですって。だから、阿修羅が生まれたときから知り合いなんですよ」

「ああ、そうか。それで阿修羅が甘えた声で吠えたのか。山の中は馬鬼羅の方が詳しいものなあ」

納得した顔で馬鬼羅を見た。

「鉄牛殿はいつお坊様になったのですか?」

紅彦の陰から霞が鉄牛に声をかけた。

「かれこれ十年近くになるかのう」

「今年になってから、武家姿の鉄牛殿を紀州の山窩が見たといってるそうですよ」

霞が馬鬼羅に同意を求めている。

「紀州のヤゾウから聞いた。紀州のアマリを三人斬ったそうじゃ。そのときの傷が胸に残っている筈じゃ」

馬鬼羅が訥々<とつとつ>と話した。

 山窩は男のことをアマリという。

「鉄牛、いや織田殿、胸を開いて見せてくれんかいのう」

空齋が鉄牛を見た。

「よかろう。その山窩の言うとおりじゃ。隠しても仕方あるまい」

「お主の狙いは何じゃな?」

弘忍が野太い声を出した。

「決まっておる。蝦夷の隠し財宝じゃよ」

鉄牛は悪びれた様子を見せない。

「じゃが、お主らを見ていて気が変わったわ。こんな美しい女性が守っておる物を奪う訳にはいかんじゃろ

う。儂にも武士もののふの心はあるわい。少々助平ではあるがのう」

思いなしか、鉄牛の表情が和らぎ、その風貌に品格すら漂っていた。

「誰に命ぜられてここに来たんじゃ?」

空齋が横から口を挟んだ。

「それは言えん」

「お前の持っている杖は仕込だろう」

紅彦が鉄牛に言った。

「分かっておったか。これは相州鎌倉の小鍛冶正国が鍛えたものじゃ」

「ほう・・・」

空齋が魂消た声を発した。

紅彦も思わず霞と目を合わせた。

「拝見させてくれるか?」

紅彦が興味を持った。

「とくと見てくれ」

刀身二尺五寸、仕込杖にするため無反りに近い。相州物の特徴がよく出ており、刃紋は緩やかな湾になっており、正国の人柄が感じられる名刀である。茎を見ると正国と太刀銘が刻まれており、化粧鑢が美しかった。

「名刀じゃろう。流石に宗綱殿の娘婿のことだけはあるのう」

鉄牛が目を細めて仕込杖を撫でた。鉄牛は宗綱と正綱の関係を承知していたのだ。それで紅彦の太刀を、あれほど異様な目で眺めたのだ。紅彦を始め、ここにいる者全員の気持ちが微妙に揺らぎ始めていた。財宝のことをしゃあしゃあと言ってのけ、聞かれることに淡々と応えている鉄牛に、いつしか好意さえ感じ始めているのだ。

「お主、このまま手ぶらで紀州には戻れんじゃろう」

弘忍の声が沈んでいる。

「わが主は杖林寺に財宝があることは半信半疑じゃよ。都で藤原が動き出したので、それを察知して先に三人を送り込んだんじゃが、戻って来んので儂がやって来たんじゃよ」

鉄牛こと、織田乙麻呂は静かに話した。

「ああ、三人は俺が斬った」

「紅彦殿、儂と立ち会ってくれんか。お主が勝てば儂の命は消える。その時には、この正国を受け取ってくれ。もし儂が勝ったときには、その無双宗綱は儂が貰い受ける。そして伊勢に帰るが、棟梁には杖林寺の隠し財宝のことは、藤原の陰謀じゃったと報告する」

紅彦の後ろで霞の顔が蒼ざめていた。

座に重苦しい空気が漂っていた。

「儂はお主らの姿を見ていたら、自分の運命を呪ったぞよ。こっちに生まれておったら、お主らの仲間になって楽しく生きられたのに、そう思っておったんじゃ」

織田は清々しい表情をしていた。紅彦は脇に吊るした棒手裏剣をはずし、帯に差していた短刀と一緒に霞に渡した。紅彦が濡れ縁を下り、織田が後に続いた。

二人は三間の距離をおいて対峙した。

それを、霞、弘忍、空齋、馬鬼羅が固唾(かたず)を飲んで見つめている。鐘楼にいた阿修羅と勘九郎が、不思議そうな顔つきでこれを眺めていた。織田が仕込杖を抜いて八双に構えた。紅彦は両腕をだらりと下げ、両膝を撓めて上半身をゆらりゆらりとしており、眠そうな双眸からは微塵の殺気も感じられない。織田は八双の構えから、太刀を右肩に担いだ構えに変化させている。織田の双眸も澄み切っており、剣客としての矜持を底に秘めているのが感じられた。

「ウォーッ」

 境内を揺るがす気合が、織田の口から発せられ、紅彦に向って疾駆して来た。

  戦場武者の剣法だ。

紅彦は動かない。

鐘楼にいた阿修羅が身構え、勘九郎が庫裏の屋根に飛び移った。

正国が唸りを発して紅彦を襲った。

織田が斬り込んだ瞬間、紅彦は右前方に跳んでいた。そのときには無双宗綱を抜刀し、織田の左腕を浅く斬り、着地する前に返す太刀で両手首を打っていた。

織田は両膝から崩れ落ちた。

 無双宗綱がその首に一閃された。

 織田が前のめりに倒れると同時に、無双宗綱は紅彦の腰に納刀されていた。

霞と阿修羅が走り寄ってきた。

「弘忍、あいつに水をかけてくれ」

「儂は鉄牛を斬ったと思ったぞよ」

弘忍が桶に入った水を持って来て、勢いよく織田の頭にかけた。この桶の水は先ほど馬鬼羅の足を洗ったものだが、誰もそんなことには気づかなかった。織田が頭を振りながら、ゆっくりと起き上がった。

「また生き長らえてしまったか・・・」

「泥を落として上がって来いよ」

織田が馬鬼羅に支えられて、紅彦の待つ居間に上がって来た。

「痛くないか?」

紅彦がすまなそうな顔で言った。

「大丈夫じゃ。お主の業は凄まじいものじゃのう。儂は斬られたと思ったぞよ」

織田が正国を紅彦に差し出した。

「これはお主が持つべき物じゃ」

紅彦は押し戻した。

「太刀は持つべき者を慕って来るものだよ」

「じゃが約束は守らねばのう」

「じゃあ、一旦紅彦が貰い受け、その後で鉄牛にくれてやればよかろう」

いかにも単純な弘忍の発想だ。

「そうしよう。これは俺からの贈り物だ」

紅彦が再度正国を差し出した。

「では、有り難く頂戴する」

織田が一礼した。

「さて、儂はこれで失敬する」

「なあに、まだいいではないか。よかったら今晩はここに泊まっていかんか?」

弘忍が名残を惜しんだ。

「いや遠慮致す。これ以上長居したら戻るのが嫌になる。お主たちのことは生涯忘れん。二度と会うことはないと思うが、儂の胸の中にそっと仕舞っておく」

「そうか、では無理には引き止めまい」

弘忍がぼそりと言った。

「紅彦殿、お主が最後に斬った甲賀者じゃが、そやつは坊主じゃったかいのう?」

思い出したように織田が聞いた。

「いや、浪人風の姿をしていた」

「儂が耳にしたところによると、藤原から命を受けたのは、甲賀の棟梁の息がかかった男で、そやつは坊主らしい。これからも用心した方がよいぞよ」

「坊主か・・・」

弘忍が呟いた。

空齋も記憶を辿るような目をした。

「さあて、出かけるか・・・」

織田乙麻呂は腰に手を当て、大きく背筋を伸ばしてから立ち上がった。

「そこまで見送ろう」

紅彦も一緒に立ち上がった。

いつの間に用意したのか、霞が竹皮に包んだ握り飯と水筒を用意していた。

「これをお持ちください」

「おおかたじけない。紅彦殿は幸せじゃのう」

織田は心底羨ましそうな顔をした。

織田に続いて、全員が見送りに出た。

「正国を大事にしろよ」

すっきりした顔つきで境内を行く織田に、横に並んだ紅彦が声をかけた。

「おお、お主は霞殿を大事にしろよ」

霞が俯き加減で紅彦に寄り添っている。

「世話になったのう。ここでのことは儂の終生の想い出として宝物にする。そうじゃ、帰りには、鎌倉の正国殿の鍛冶場に寄って行こうと思っておる。何か伝えることがあれば聞いておこう」

「姉上に、こちらは元気に暮らしているとお伝えください」

「承知した。さらばじゃ」

大柄な織田がゆったりとした足取りで、山門から階段を降りて行く。

「故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙花三月揚州に下る」

空齋がそこまで口ずさむと、弘忍が後を引き取って吟じた。

「孤帆の遠影碧空に尽き、唯見る長江の天際に流るるを」

たった今しがた友となった男だが、感激屋の弘忍には、千年来の友との別離のように思えるのだ。

織田の後ろ姿が樹間に消えた。



輪廻りんね


山中を歩いて行く一行がある。

馬鬼羅を先頭に、紅彦、霞、そして弘忍が後に続いていた。この一行には、前を走ったり、時折森の中に姿を消したりしながら、阿修羅がついて来ていた。勘九郎は上空を飛び回り、弘忍に置いてけ堀を食わせられないように目を光らせており、何とも賑やかなものになっていた。

紅彦と霞が、馬鬼羅から陸奥の山窩の里に誘われたのだが、弘忍がどうしても一緒に連れて行けと、強引に割り込んできた。留守中の杖林寺は、これもまた強引に空齋に任せてしまった。杖林寺の財宝を守らねばならぬことを紅彦に言われたが、弘忍は頑として聞く耳を持たなかった。甲賀者の狙いは紅彦にある。従って、弘忍が紅彦を守らなければ誰が守るのだ。紅彦にもしものことがあったら、霞が不幸になってしまう。そんなことは仏弟子として見過ごすことはできない。財宝よりも霞の幸せを求めるのが優先だ、それに甲賀者は杖林寺にはやって来ないだろう。儂であれば、まず紅彦を斬ってから杖林寺を襲う。そんな屁理屈を延々と言い出したのには空齋も閉口して、弘忍の好きなようにするがいい、と言ってしまったのだ。挙げ句の果てには、甲賀の坊主が来たら空齋は逃げてしまえ、と無茶苦茶なことを言って寺を抜け出て来た。


その頃、多賀城から一関街道を歩いて来る一人の僧の姿があった。

  漆塗りの杖を手に、重そうな背嚢を背負って源海が歩いていた。

饅頭笠から覗く双眸が険しい。

配下の忍びは全て紅彦に斬られた。中忍の左馬は、甲賀でも指折りの術者だった。下忍の蘭、菊丸、竹之助は左馬が手練れを選りすぐって集めた精鋭だったのだ。それがこともあろうに、風来坊のような男に斬られてしまったのだ。

源海が杖林寺の参道を上って行く。

山門を潜り、音もなく庫裏に向っていた。庫裏では、空齋が濡れ縁に胡座をかき、近づいて来る源海を眺めていた。

「やあ、珍しいご仁が来たのう」

「達者であったか?」

渋味を帯びた声で源海が応えた。

「まあ、上がられよ。誰もおらん」

一瞬、源海が怪訝な表情をしたが、黙って空齋に従った。

「弘忍は紅彦のお供で陸奥に出かけた」

「陸奥に・・・?」

「ああ、山窩の里に招かれてのう、物見遊山で出かけて行きおったわ」

「そうじゃったか」

「お陰で儂が留守番をしているんじゃよ」

「・・・」

源海は目の前の妙見山を眺めている。

空齋も外に目をやった。

「弘忍殿はいつ頃出かけられたのじゃな?」

源海が空齋の方に向き直った。

「そうさなあ、二日前じゃったのう」

「山の中を歩いておるんじゃろうのう?」

「山窩の者が先導しておるでのう。おお、そうじゃ、先だって面白い男がここに来おったぞよ」

源海が空齋の目を見つめた。

「過日、この寺に来た武将がおってな。この寺が甲賀の忍びに狙われていると言うんじゃよ。その男がのう。甲賀の頭目は僧侶じゃと言うんじゃよ。紅彦が甲賀の配下を全部斬ってしもうたので、やがて頭目がここへ来るじゃろうと言っておった。お主はその男に心当たりがないかいのう?」

「さあて、儂の知っておる者には、そんな男はおらんのう」

「紅彦は甲賀の忍びをすき好んで斬った訳ではないんじゃよ。ひょんなことで大きな渦に飲み込まれてしまったんじゃ。あやつは純情な男じゃよ」

「紅彦殿に怪我はなかったのかな?」

「おお、あやつは闘いのときには、いつも死んでおるようじゃでのう。身を捨てておるんで、逆に怪我をせんのじゃろう」

「・・・・」

「どうも、紅彦は異次元からやって来たようじゃのう」

「異次元?」

「この世とは別の世界のようじゃぞ」

「別の世界・・・?」

「紅彦が言っておったぞ。世誉は惟うに足らず、唯仁をもって紀綱と為すとな。あやつは本質的には物欲が少ないからのう。色欲の方は美人に惚れられておるがのう」

空齋が喉の奥で笑った。

「俗世間の事は考えるのも馬鹿らしいということじゃな。惜しい男よのう。お山におれば大僧都になれる男じゃにのう」

源海が考え込むように言った。

「紅彦はそれも好むまいのう。あれは自然の中で生きて行きたいのじゃな」

「惜しい男よのう」

「源海、もし甲賀の頭目を知っておる者に会うことがあれば伝えてくれないか。紅彦にも弘忍にも手を出さないでくれんかとな。あやつらは、世の片隅でそっと生きておるんじゃで、好んで争うことはせんのじゃよ」

空齋が源海の目を覗き込んだ。

「ああ、心得ておくぞ」

空齋と源海は陽が西に傾くまで、他愛のない話をあれこれとして別れた。

 暮れゆく空を仰ぎ見て、空齋は深いため息を漏らした。


山並みが続く北上山系は雲ひとつ無く晴れ渡っていた。胆沢の東方に小高い山が連なっており、紅彦たちはそこにいた。馬鬼羅が宗綱が鍛えてくれた山刀を振るっている。片刃の平造りで、重ねの厚い一尺五寸、銘は宗綱の二字が刻まれている。鬼魅との闘いのとき、馬鬼羅のウメガイが折れてしまったのを知って、宗綱がわざわざ造ってくれたのだ。

馬鬼羅が細い木を抱えて来た。山窩は器用に仮設の小屋を造る。細い木をウメガイで切り、蔓で木を縛りつけて雨露を凌げるようにするのだ。

 紅彦と霞が火を熾している弘忍のところへやって来た。

 紅彦が真竹を束ねて小脇に抱えている。

「釜や鍋無しで料理するのは初めてだわ」

浅葱色の作務衣を着て、生き生きとした表情の霞は、いかにも楽しそうだった。

「馬鬼羅、後はお主に頼んだぞよ」

弘忍がごろんと横になった。

「駄目ですよ弘忍様。これは弘忍様の仕事ですよ。自分でやらなくては・・・」

「・・・・」

霞の声を聞こえない振りして、弘忍は狸寝入りを極め込んでしまっている。

「弘忍、何をねているんだ?」

「馬鬼羅の奴は、宗綱殿から山刀を造ってもらったんじゃぞ。もっと働かねば申し訳なかろうが・・・」

弘忍がむっくりと起き上がった。

「もしかしたら、お前も造ってほしかったのか。まさか、坊主が刃物を欲しがっているとは、宗綱殿は夢にもそうは思わんぞ」

「儂は宗綱殿の短刀が好きなんじゃ。霞さんのようなものがいいがのう」

「弘忍様、家に戻ったら、私から父上にお願いしますから・・・・」

「おお、そうか。頼んだぞよ」

弘忍の顔が実に嬉しそうな表情になった。

「どうかしたか?」

「馬鬼羅にばかり仕事を押しつけては申し訳ないので、儂も見るに見かねてお主を手伝うことにしたんじゃ」

「では、ひのきの葉でやねをふいてくれ」

実直な馬鬼羅は、笑いもせずに弘忍に仕事を言いつけた。

「おお、何でもやるぞよ。馬鬼羅、お主の山刀を貸りるぞ」

馬鬼羅が差し出した山刀を手に、弘忍は嬉しそうな顔をして樹林に向かった。

「弘忍様も少し変わってきましたよねえ」

霞は弘忍の後ろ姿を目で追っていた。

「あいつは単純なんだよ」

「そうじゃよ。弘忍は単純なんじゃ」

馬鬼羅の言葉で三人は腹を抱えた。


その頃、源海は多賀城にいた。

旅篭から出てきた源海は、菅笠を被り、甲賀袴に袖無し羽織を着て、腰には二刀差していた。源海の歩行は一見ゆったりとしているようだが、常人の倍の速度で一関街道を北上していた。源海は砂鉄川を遡り、北上高地に入り、陸奥に抜けようとしていた。

異変は、砂鉄川を遡ったところで偶発的に起きてしまった。出羽の清原の手先と遭遇したのだ。豪族清原は奥州安倍の地を狙っており、時折密偵を放っていたのだ。砂鉄川が大きく蛇行したところが深い崖となっており、えぐられた穴は丁度雨露をしのぐのに格好の形をなしていた。

夕闇が砂鉄川に迫っていた。

源海が川原づたいに北上していたとき、清原の密偵が野宿しようとしているところにぶつかってしまったのだ。

清原の密偵は三人。屈強な体格をした男たちが、焚火を囲んで雑談を交わしていた。夕暮れ迫る寂しい川原に、用も無いのに人がやって来る筈がない。

密偵狩り。男たちには、源海を安倍の手の者と間違えたのだ。

「待たれいっ」

いかつい風貌をした男が源海を呼び止めた。

「・・・・」

源海は無言のまま男を一瞥した。

「お主は安倍の手の者か?」

「・・・・」

密偵たちの顔つきが険しくなった。

「鈴木、十倉、話を聞いてやれ」

上杉が横柄な態度で二人に命令した。源海の正面には上杉が、左には鈴木が、右には十倉が固めており、常人には抜け出すことができないような布陣を敷いていた。

「もう一辺聞くけんど、お主はどごへ行くんじゃな?」

「・・・・」

源海は鈴木を無視して上杉を見ている。

「儂らはお主を斬りたくはないが、お主がそういう態度をとるんじゃったら、なんとも仕方がなかろうて。鈴木、十倉、存分に可愛がってやれ。遠慮はいらん」

「おう」

二尺七寸はあろうかと思われる太刀を抜き放ち、鈴木が八双に構えた。右方では十倉が脇に構えている。

だが、源海は微動だにしない。

 上杉が左手で鯉口を切り、右手を柄に掛けて摺足で源海に迫っている。源海は両手をだらりと下げて、眠そうな眼で上杉を見つめている。

「きえーっい」

十倉が右脇、車の構えから横一文字に長い太刀を振り回してきた。鈴木の目には、源海の胴が宙に飛んだように映った。だが、源海は何事もなかったように平然と立っていた。源海は鈴木を跳び越していたのだ。

「鈴木、後ろだ。斬れっ」

上杉の檄<げき>がとんだ。鈴木は身を捻りざま袈裟に斬り込んだ。源海が地面に沈んだと見えた瞬間、鈴木の両腕が肩の付け根から切断され、宙に舞っていた。源海は太刀を構えることもなく、右手下段に無造作に持ち、十倉に対峙している。

「ウヲーッ」

獣のような雄叫びを挙げ、十倉が鋭い突きを入れた。実戦で鍛えた見事な体捌きで、十分に腰が入っていた。

源海の太刀が二度閃いた。十倉の両腕が肘のところで切断された。

上杉が抜刀し、腰反りの太刀を右八双に構えた。

「冥土の土産に名を聞いどいてやろう」

「・・・」

「安倍の手の者じゃな?」

「違う。お主らが勝手に間違えおって、儂には迷惑なことじゃな」

「何と・・・・」

上杉の顔に一瞬戸惑いの色が浮かんだ。

太刀を右足元にだらりと下げ、源海は依然として無表情で上杉を見つめている。

「ウオー」

戦場武者のような雄叫びを上杉が発し、一気に間合いを詰め、豪腕で太刀を上下、左右に水車の如く振り回して迫ってきた。源海は無駄な動きをせずに、巧みに一寸の差でこれを躱していた。上杉に焦りの色が見え始めた。

 源海の氷のように冷たい双眸が上杉の全身に注がれており、これが上杉を殊更苛立<いらだ>たせていた。上杉の構えが八双に戻った瞬間、これを待っていたかのように源海が動いた。源海の太刀が、右下段から無造作に片手突きされ、上杉の喉を貫いた。

「ククッツ・・・」

上杉の喉から奇妙な音が漏れた。


北上高地は青空が広がり、小鳥の囀りが心を和ませてくれた。

尾根を進んで行くと、樹林から口笛が聞こえてきた。『うそ』という名の小鳥だ。この小鳥の鳴き声は、人の吹く口笛にそっくりなのだ。一行は野宿した天狗岩山を早朝に出発して、ゆっくりと景色を楽しみながら、高い尾根を移動している。今日の予定は、五十キロメートルほど先の地竹山まで行って、そこで野宿をする予定となっている。

山窩の村は、サクドガ山の中腹にある。

 サクドガ山は地元の者からは、サクドガ森とも言われており、東西南北四十キロメートル四方を一千メートル級の山に囲まれており、めったに里人が近づくことはない。稀には、マタギが道に迷って紛れ込んでくることもあるが、山窩が巧みに村に近づけないように結界を張っているので、山窩の村が人目につくことは無かった。

金成山を過ぎると、釜石から花巻に通じる街道が横切っている。一行は、その街道の手前で昼食をとることにした。腹減らしの弘忍が何やかんやとうるさいので、馬鬼羅がそうしようということにしたのだ。

「霞さん、疲れたであろう?」

「ええとっても。弘忍様もでしょう」

霞が弘忍を振り返って微笑んでいた。

「弘忍は腹が減ったんだろう」

「紅彦さん、本当のことを言ったら、弘忍様が可哀想ですよ」

「そこの二人、何をごちゃごちゃ言っておるんじゃ?」

  弘忍が紅彦と霞の間に割り込んできた。

「馬鬼羅、あとどれくらい歩くんじゃい?」

弘忍が大声を出した。

「今晩は地竹山に泊まる。そこまで行けば、村はすぐじゃ」

「その地竹山までは、一体全体どれくらいあるんじゃよ。まだまだ先か?」

「朝出たところから、丁度ここが真ん中辺りになる」

「そりゃあ魂消た。いつ飯にするんじゃ?」

「もうすこし行くと清水が湧き出している。そこですこし休む」

「少しはなかろう。儂はたっぷり休みたいんじゃがのう」

休むと聞いて、俄然元気が出てきた弘忍の口から軽い言葉が突いて出た。

「霞さんは、紅彦と一緒じゃと元気一杯じゃのう」

「まあ、弘忍様ったら・・・」

「あそこで休む」

馬鬼羅が振り向いた。

阿修羅が湧き水のところに走った。

「おい、待て。儂が先じゃぞ」

疲れている筈の弘忍が走り出した。

この光景を馬鬼羅が笑いながら見ていた。

一行が地竹山に到着したのは、まだ西の陽が高い時刻であった。名前のとおり、そこには真竹や篠竹が生い茂っており、人目に付きにくい場所に山窩の造った小屋があった。

そこに、しばらく姿を見せなかった勘九郎が飛んで来て、弘忍の肩に止まった。

「お前はうるさいから来なくともよかったんじゃがのう」

弘忍が冷たい素振りをした。

「カーッ、カーッツ」

「ウォン、ワン」

「弘忍様は生き物に好かれていいわねえ」

「こいつら、少し厚かましいからのう。紅彦が礼儀を教えねばならんのじゃぞ」

「阿修羅は胡散臭い男にしか吠えないぞ」

「じゃあ、弘忍様は胡散臭く見えるのかもしれませんねえ」

「霞さんまで何を言うか。儂はこう見えても、かつては上品な僧侶として有名じゃったんじゃぞよ」

「そうかしら?」

「霞さん、そういう詮索は無用じゃ。それより夕飯の仕度を急がんとならんぞ」

「弘忍様はいつも食べることが一番大事なのですから・・・」

「よし、儂は薪を採って来よう」

弘忍は仕込杖を腰に差して、雑木の樹林に入って行った。山窩の村に来ると決まったとき、弘忍は宗綱に頼み込んで、白木の鞘で仕込杖を造って貰ったのだ。だが、弘忍の太刀は腰反りが強いので、仕込杖もそれと分かるような形をしており、それが弘忍には不満なのだ。

馬鬼羅は先ほどから姿が見えない。阿修羅は弘忍の後を追って行ったので、紅彦と霞だけが残ってしまった。

「次郎太が一緒に来たそうな顔をしていた。連れて来てやればよかったかなあ」

紅彦は屋敷を出るとき、次郎太が霞の世話をやいていたのを見ていたのだ。

「でも仕事が溜まっていたようですよ」

「あいつは好奇心旺盛だから・・・」

「阿修羅と同じですわねえ」

霞が口を手で押さえて笑いを堪えている。

「夕霧城はどうなっていくんだろう。このままでは、弘忍の代で終ってしまうんじゃないかなあ・・・」

「弘忍様にはお子がおりませんしねえ」

「このまま封印してしまってもいいのかもしれないなあ・・・」

「それでもいいかもしれないわ」

「なまじ財宝があると厄介だ」

「欲張った人が沢山いるから・・・」

遠くの方で阿修羅の吠える声がした。

紅彦と霞が竹林に向かうと、後ろから阿修羅が走って来て紅彦の行く手を塞<ふさ>ぎ、何かを訴えているような仕草をした。ついて来いという顔をして、阿修羅が引き返して行った。二人が戻ると、小屋のところに弘忍と男が立っていた。菅笠を被った武家風の男が、紅彦に目を向けていた。

「紅彦、こちらは源海だ。ついこの前までは僧侶じゃったが、還俗したようじゃ」

紅彦は源海と会うのは初めだった。

源海は無言で紅彦に目礼をした。

「紅彦、源海がお主に用があるそうじゃよ」

弘忍の表情が硬い。

霞が紅彦の陰から源海を覗っていた。

紅彦は無双宗綱を手にして、無造作に源海に近づいた。阿修羅が牙をむき出して、今にも跳びかかろうとしている。

「阿修羅、よせ」

阿修羅は不満そうに紅彦を見上げた。

「中に入って話をするか?」

「いや、外の方が気持ちがいいじゃろう」

源海が太刀を鞘ごと引き抜き、その場に腰を下ろした。源海の左手に弘忍が、二人に対座するように紅彦と霞が腰を下ろすと、阿修羅が霞を守るように四肢を踏ん張った。

「話を聞こうか?」

源海の目を見据えたまま、紅彦が切り出した。

 源海の顔が夕陽に照らされ、心なしか朱みを帯びていた。

「蝦夷の隠し財宝が奥州にあるという情報が都に入ってきた。そこで甲賀の者が使われることになった。随分捜したが、その財宝は遊霧山杖林寺にあることが判明した。じゃが、思いのほか杖林寺は手強かったそうじゃ。たった三人に甲賀の者を含めて、全員が斬られてしまったそうじゃ。じゃが、まだ甲賀の上忍が残っておるらしい」

紅彦は源海の話の腰を折った。

「少し違うなあ。三人ではなく、俺が全員を斬ったんだ」

「大方そうじゃろう。甲賀の上忍もそう思っておるようじゃ。甲賀者はもう杖林寺を襲う気力は無いようじゃ」

源海は眩しそうに目を細めた。

「甲賀の上忍は、紅彦殿に会って話をしたかったそうじゃ」

「紅彦が逆恨みされるのはかなわんのう」

弘忍が憤慨している。

「俺に会ってどうするつもりなのかな?」

「甲賀者はいずれも術者じゃった。それが一人残らずどうして斬られたのか、それを知りたいと申しておったのう」

「俺は運が良かっただけだ」

「運がいい・・・」

「ああ、それだけだ」

「紅彦殿は、空齋殿が言ったとおりのご仁じゃのう」

源海が夕陽に染まっていく空を仰いだ。

「源海、もういい加減に止めないか。俺はもう斬りたくはないんだ」

「・・・・」

「源海殿、甲賀の上忍に伝えてくれんか、無駄な斬り合いは止めようとな」

弘忍が源海を見た。

そのとき、山菜が山盛りになった背負い籠を担いで、馬鬼羅が戻って来た。

「甲賀・・・」

皆一斉に馬鬼羅を注視した。

「馬鬼羅は正直じゃのう」

弘忍がため息をついた。

「甲賀の頭目・・・」

馬鬼羅が源海を睨んでいる。

「いいんだよ、馬鬼羅。分かってたんだよ。まあ座れよ」

「・・・・」

「源海、お前が甲賀の上忍だということは、おおよそ見当がついてたよ」

紅彦が源海を見つめた。

「ここに来る前に杖林寺に寄ったんじゃが、空齋も意味ありげなことを言っておった」

「そうか、空齋も見抜いておったか・・・」

弘忍が呟いた。

「夕霧城の財宝のこと、どこまで知っているんだ?」

「おおよそは・・・。じゃが、もういい。儂はもう甲賀には戻らん。比叡の山も捨てた。これから放浪の旅に出ようと思っておる。じゃが、その前にやらねばならんことがあってのう・・・」

源海が暗い目で紅彦を見つめている。

「そうか、それじゃ暗くならないうちにやらなくてはなあ・・・」

紅彦は左脇に吊るした棒手裏剣をはずし、そっと霞に渡した。霞が不安そうな眼差しで紅彦を見た。霞にも、この闘いがこれまでとは違うことが分かっているのだ。

二人の様子を源海がじっと見つめていた。

「場所を変えよう」

「・・・・」

紅彦が先を歩いて源海を誘導し、樹木のまばらな所で向き直った。弘忍、霞そして馬鬼羅が少し離れた場所で紅彦を見守っていた。霞の傍らには、阿修羅が堂々とした体躯を見せていた。

「源海、もう引き返す訳にはいかんのか?」

弘忍が野太い声を出した。

「・・・・」

「弘忍、頼みがある」

背を向けたまま、紅彦が声を発した。

「なんじゃ?」

「絶対に手を出すなよ。今までのことは、俺と源海でお仕舞にする」

「紅彦さん・・・」

霞の呟きに、阿修羅が耳を緊張させた。

地竹山は深閑とし、風のそよぐ音が二人を包んでいた。

間合いは三間。

源海が太刀を抜いた。

 源海は右腕一本で、太刀を無造作に構えており、鋒が地面についていた。紅彦は両膝を撓(たわ)め、右手はだらりと下げている。

息の詰まるような時間<とき>が静かに流れている。

そのとき、天空を黒いものが掠<かす>めた。

「カアーッ」

勘九郎の鳴き声に釣られたように、源海がゆるゆると間合いを詰めた。

間合いは二間。

紅彦は源海の歩調に合わせて、上体をゆらりゆらりと僅かに揺らしている。源海の太刀が徐々に上がり、胸のところで水平に構えられた。この間も、源海の足は淀みなく紅彦に迫っている。

だが、紅彦は依然として動かない。一気に源海が一間を跳び、加速をつけた太刀が水平に振られた。紅彦は上半身を僅かに仰け反らせて源海の一撃を避けたが、作務衣の胸が水平に断ち切られ、襤褸布のようにぶら下がった。源海の太刀が紅彦の胸を通過した瞬間、紅彦が動いた。無双宗綱が抜打ちされ、逆袈裟に右脇下を斬り、喉仏をかすめた。勢いを増した刃が空中で返り、無双宗綱の峰が源海の首を打った。

 源海が朽ち木のように崩れ落ちた。

西の空が焼けたように真っ赤に色づき、地竹山に夕暮れが迫っていた。逆光の中で、紅彦の上半身が揺れ、がくりと両膝が地面に着いた。

「紅彦さん・・・」

霞と阿修羅が走り寄った。

弘忍と馬鬼羅も走った。

「大丈夫か、紅彦?」

「怪我したのか?」

霞が手当てしようとしているのを見て、馬鬼羅が小屋に走った。

「かすり傷だ。心配ない」

まだ荒い息をつきながら、紅彦が誰にともなく言った。胸が乳の上部で横一文字に切られており、血が噴き出していた。

「霞さん、これをつかえ」

馬鬼羅が地酒を持って来た。

阿修羅が紅彦の傍らにやって来た。弘忍は紅彦の手当てを霞に任せ、源海を介抱し、そして何やら話していた。


紅彦はいつしか深い眠りに落ちた。

目覚めると、紅彦は大きな屋敷に寝かされていた。煤けて黒光りした天井が高い。屋敷は傾斜地をうまく利用して、樹間に造られている。紅彦は弘忍に担がれて、サクドガ山の中腹にある族長の坐弓見ざくみの屋敷に逗留したのだ。軽傷に見えた紅彦の傷は思いのほか重く、丸二日間床に臥していた。

「どうじゃな気分は。傷は我らが里に伝わる薬草を塗っておいたので、もう案ずることはないじゃろう」

「すっかり熱が下がりました」

ずっと付き添っていた霞が応えた。

「用心のためあと四、五日はゆっくりしておった方がいいじゃろう。宗綱殿には秋夢を遣いにやったから案ずることはない」

「何から何までありがとうございます」

霞が頭を下げた。

白髪を後ろで束ね、面長で彫りの深い顔立ちの坐弓見が頷いた。そして、鷲のように澄み切った双眸が、病み上がりの紅彦に注がれていた。

「随分楽になりました」

紅彦が上半身を起こした。

そのとき、傍若無人に廊下を踏み歩いて来る騒々しい足音が聞こえて来た。

「おお、腹が減ったか?」

弘忍と馬鬼羅が部屋に入って来た。

「阿修羅はどうしてる?」

紅彦は阿修羅のことが気になっていた。

「あれはいい犬じゃ。父親にそっくりじゃのう。長の風格を持っておる」

坐弓見が阿修羅のことを口にした。

「坐弓見殿は夜叉丸をご存知でしたか?」

「群れを率いて時折ここまでやって来る。そこにおる馬鬼羅が面倒を見ておるんじゃが、あれは王者の風格じゃのう」

「そうですか。馬鬼羅が世話していたのですか・・・」

紅彦が馬鬼羅を見ると、柄にもなく照れ臭さそうな顔をしていた。

「霞殿も立派に成人されたのう」

「霞さんのこともご存じでしたか?」

紅彦が坐弓見に尋ねた。

「我らは昔から、宗綱殿には世話になっておるのじゃ。霞殿は母者の沙霧殿にそっくりじゃのう。霞殿がこんな小さな頃からよく知っておる」

坐弓見が手振りを交えながら、何かを思い起こすかのように遠い目をしていた。

翌日、紅彦と霞は阿修羅を連れてサクドガの森を散策していた。サクドガの山窩は、二十数戸ほどで集落をなしていた。族長坐弓見の屋敷が最も高い位置にあり、これを守るような形で巧みに集落が形成されていた。集落の中央に集会場が設けられており、そこで籠や箕の作り方を年寄りが子供たちに教えていた。かつて、北上高地を走り回っていた年寄りたちは皆刀匠宗綱を知っており、集落を歩いている霞を見る目が好意に満ちていた。

男が獣道を上って来た。

 腰の竹籠に岩魚が一杯入っている。

 鼓丹<こたん>、族長の長子だ。

 昨日の昼食のときに坐弓見から紹介されていた。座にいたのは鼓丹とその妻紫美しみ、族長補佐の尾太里おたり具礼羅くれらであった。鼓丹には男の子と女の子があった。鼓丹は紅彦と霞に会釈して通り過ぎた。二人をそっとしておいてやるようにと、族長の坐弓見から申し渡されていたのだ。

弘忍は勘九郎を従えて、朝早くから馬鬼羅とどこかに出かけた。

「傷は痛みませんか?」

「ああ、もう大丈夫だ」

「父上がここの人たちと知り合いだったなんて、思いもしませんでしたわ」

「この村から上質の砂鉄を手に入れていたのかもしれないなあ」

「そう言えば、小さい頃、鍛冶場で遊んでいたときに、そんな光景を見たような朧げな記憶があるわ」

「まだいたづらっ子の頃だ」

「まあ・・・・」

霞が紅彦に腕を絡めてきた。

阿修羅が二人を見上げた。

サクドガ山の頂上には、天女岩と呼ばれるそそり立った丸い岩がある。優しき集団の山窩が名付けた、いかにも天から舞い下りたような女神の姿がそこにあった。紅彦と霞は、そこに寄り添うようにして座していた。青く澄み切った空には、初夏の雲がゆるやかに流れていた。

「坐弓見様が言っていたこと、とっても気になるんだけれど・・・・」

「うむ」

昨晩、坐弓見が話したことが、霞の胸にしこりを残していたのだ。食事が済んだ後、坐弓見が山窩の里で昔起こった不思議な話をしたのだ。

坐弓見は目を閉じて話し出した。

「あれは今から三十年前じゃった。儂の妹の子が神隠しにあってしまったのじゃ。生後半年になる男の子が、妹の目の前で煙のように掻き消えてしまったのじゃ。それを儂も見ておったが、まるで夢を見ているようで、現実のものとは思えんかった。それはこの奥にあるサクドガの社の前じゃった。その子は紅龍ぐりようと名付けられておった。それは、それは、可愛い子じゃった。その子が社の前で消えてしまったんじゃ。まるで別の世界にでも行ってしまったかのようにのう。今でもあの時の光景が目に焼きついておる。その子は妹が都に行っておったときに身ごもった子でのう。妹は父親の名は明かさんかったが、儂が調べてみたところでは、父親は藤原一族の某じゃと睨んでおる。紅龍はいつも紅色の着物を着せられておってのう、女の子とよく間違われておったよ。久しく思い出すことが無かったが、紅彦殿のことを聞いてのう。また、懐かしい宗綱殿のご息女がやって来られたので、思い出してしまったんじゃ。あの子もどこかで生きておれば、今は三十歳になるじゃろう。懐かしさの余り、話さんでもいいことをついつい話してしもうた・・・」

紅龍の母はその後体調を崩して、この地で息を引き取ったという。

「このお話は、紅彦さんが突然やって来たのと、何だかよく似ているような気がしてならないの」

「・・・・」

「紅彦さんは藤原紅彦というのよねえ」

「まさか俺がその紅龍だというんじゃないだろうなあ・・・」

「でも、何となく気になる、不思議なお話だったわ」

阿修羅の頭を撫でながら霞が呟いた。

紅彦たちは、それから四日後に坐弓見の屋敷を後にした。

 弘忍は坐弓見が所持していた太刀を見て、しきりに羨ましがっていた。それは、宗綱が鍛えた二尺八寸の大太刀で、惜しげもなく良質の鋼をふんだんに使い、僅かに湾れがある直刃の刃紋を見せ、気品のある美しい姿をしていた。

紅彦たちがサクドガの里を離れるとき、山窩一族が名残惜しそうに見送り、鼓丹の子が二人していつまでも手を振っていた。


沢郷の者たちは杖林寺の出来事は何も知らず、稲の刈り取りに精を出していた。宗綱の屋敷も平穏な日々が続いており、霞が弘忍に約束した短刀が、宗綱によって鍛えられた。

奥州の空が天高く澄み渡り、妙見山の上空にとびが舞っていた。

紅彦が平泉道を歩いている。

その隣には、浅葱色あさぎいろの留袖姿の霞が寄り添っていた。二人は杖林寺に向っているのだ。山窩の里から戻ってから数ヶ月が過ぎ、季節は仲秋を迎えていた。紅彦はいつものように作務衣姿で、黒漆を塗った仕込杖無双宗綱を手にしていた。無双宗綱の栗型には、筒方の形をした紫色の風呂敷きが結びつけられていた。弘忍が待ちに待った宗綱作の短刀を、紅彦と霞が届けに行くところなのだ。

「空齋は今頃どこを気ままに行脚しているのだろう?」

「一度比叡のお山に帰ってから、西の方に旅すると言っておりましたねえ」

霞の表情がはなやいでいた。

杖林寺への襲撃が一段落し、平和な日々が続いており、紅彦は別格の弟子として時折鍛冶場に出入りするようになっていた。宗綱が嬉しそうな顔をして、短刀の四方詰めを手ほどきしてくれるが、平造りの短刀は思いのほか難しいものであった。霞は、宗綱と紅彦が実の親子のように仲睦まじいのが嬉しいのだった。

「空齋は結構呆けたことを言っていたが、あれでなかなかの苦労人なのかもしれんなあ」

「私はどちらかといえば苦手だけれど、今思うと優しい人でしたわねえ」

「そうだなあ・・・」

「あれ、阿修羅は?」

「ほら、あそこだよ」

紅彦の指差す方角に、大人の胸ほどの体高に成長した阿修羅の頭が見え隠れしていた。

「何をしているのかしら?」

「あの辺りには狸の巣穴があるんだ。あいつは、狸をからかいに行ったんだ」

「あのようなところは、弘忍様にそっくりですねえ。まるで兄弟みたい・・・」

「弘忍が聞いたら怒るぞ」

「内緒にしてください」

霞が俯いて微笑んだ。

紅彦が口笛で呼ぶと、紅い獣が疾駆して来た。いつしか、二人は色づき始めた杖林寺の参道に来ていた。

「この坂も随分通った」

「初めて来たときのことを覚えていますか。空齋様に無理矢理来させられたようなものでしたねえ・・・」

「弘忍がぎこちなかった」

「弘忍様があんなに照れ屋だとは思いもしませんでしたわ」

霞が思い出したように俯いて、可笑しそうに笑いを堪えている。

 阿修羅が山門で二人を待っていた。

「この額の意味がようやく分かったわ。夕霧城の上にあるからなのね」

山門を潜ると、境内に弘忍が立っており、鐘楼の辺りを眺めていた。

「何やってるんだ?」

「おう、紅彦か。勘九郎の野郎が最近色気づいてきて、ここんとこ庚申山の方にしょっちゅう出かけおって、帰ってこんのじゃよ」

「騒々しくなくていいだろう」

「じゃがのう、いなくなるとちょっと寂しいもんじゃぞよ」

「弘忍、庫裏に上がろうか?」

「それは儂が言うことじゃぞ、紅彦」

「弘忍様、今日は栗羊羹を持ってきましたよ。それから、父上から大事な物を預かって参りましたが、如何いたしますか?」

「如何とは何じゃ、おっ、紅彦それを早く寄越さんか」

目敏く仕込杖にぶら下がっている風呂敷を見つけて、奪い取るように引っ手繰った。

「相変わらず餓鬼みたいだ」

「ウォン」

遠慮気味に阿修羅が吠えた。

「おお、早く上がってくれ」

弘忍は風呂敷を手にして、走るように庫裏に上がってしまった。紅彦と霞が居間に入ると、弘忍が短刀をうっとりとした目で眺めていた。黒漆塗りの合口造りの拵えは、蝦夷の趣を有しており、霞のものと同じ造りだった。平造りの刀身は落ち着いた地肌の冴えを見せ、のたれがかった広直刃ひろすぐばの刃紋は美しい気品を醸し出していた。

「坊主が刃物を持っては、いかんのじゃないかな?」

「何を言うか。御仏に抵抗する修羅界の奴等を懲らしめるためには、このように清冽な刀が必要なんじゃ。不動明王を見ろ、ちゃんと武器を持っておるじゃろう。素手で闘うのは愚の骨頂じゃよ」

「ふーん、弘忍が不動明王とは知らなかったぞ、なあ、霞さん」

「紅彦さん、弘忍様はお顔がとっても似ておいでですよ」

「二人とも何を分からぬことを言っておるんじゃ。それよりも霞さん、栗羊羹はどこへ行ってしまったんじゃろうか?」

「弘忍様はやっぱり忘れてはおりませんでしたわねえ」

「儂はのう、この世で霞さんの厚意ほど嬉しいものはないぞよ。せっかくじゃからついでに茶も頼むぞよ」

「まあ、いつの間にか弘忍様もお上手になりましたわねえ」

霞が台所に向かった。

「あれから変ったことは無かったか?」

紅彦が弘忍に尋ねた。

「地竹山で紅彦が源海を斬ったのが最後じゃったのう。あれ以来、杖林寺は平和そのものじゃよ。源海も今頃は何処かの地を歩いておることじゃろう・・・」

「もうこれで当分、夕霧城が表舞台に出て来ることもないだろう」

「紅彦の言うとおりかもしれんのう。当分は藤原も平氏もやっては来んじゃろう。儂はお主と知り合ってから、何とのう夕霧城の番人の役目に疑問が湧いてきてのう、本来もっと守るべき大事なものがあるような気がしておるのじゃよ」

「でも、放棄するわけにはいくまい」

「そうじゃのう・・・」

「ウォン」

濡れ縁の先で腰を下ろしていた阿修羅が立ち上がり、山門の方に走って行った。

「おお、出迎えか。たんと立派になりおったのう。紅彦と霞さんは元気じゃったか?」

境内から聞き覚えのある声がした。

しばらくすると、廊下を渡って来る軽い足音が居間に響いてきた。

「おお、久しぶりじゃったのう」

真っ黒に陽焼けした顔で空齋が現れ、部屋の中を怪訝けげんそうに見渡した。

「霞さんがおらんのう」

「霞さんは台所じゃ。いつも紅彦のおるところには一緒じゃろうが・・・」

弘忍が野太い声を出した。

「私のこと呼んだかしら・・・。あら、空齋様お久しぶりでございます」

茶菓子を手にした霞が居間に戻って来た。

「おお、相変わらず輝いておるのう」

「空齋様はお口がお上手ですこと」

「なんの、なんの、真実は一つじゃよ。わっはっははは・・・」

「お主はどこをほっつき歩いてたんじゃ?」

「儂は弘忍とは違ってのう、御仏の教えを説いて歩かなければならんからのう。ところで、伊勢で織田殿に会ってきたぞよ。乙麻呂は侍大将をしておった。それ、これを霞さんに渡してくれと預かって来たぞよ」

「何かしら・・・。まあ、素敵」

和紙に包まれた物をあけると、中から鮮やかな色合いをした帯締めが出てきた。

「あいつも味なことをするのう」

弘忍が口をもぐもぐさせながら、帯締めを眺めている。

「あっ、駄目ですよ弘忍様。全部一人で食べてしまったら・・・」

「こりゃあ大変じゃわい」

空齋も慌てて栗羊羹に手を伸ばした。

「随分秋も深まってきましたわねえ」

誰にともなく霞が呟いた。

「紅彦にはすまないことをしたと思っておる。儂が紅彦を巻き込んでしまったからのう。あれがなければ、ここで平凡に暮らしておったじゃろうがのう」

弘忍が俯き加減に語りかけた。

「弘忍、気にすることはないぞ。俺は満足してるよ」

「今更、霞さんを置いて一人だけ戻ってしまう訳にはいかんじゃろう。それじゃ、霞さんが可哀想じゃろう」

「まあ、空齋様の真面目なお顔、初めて見たような気がしますわ」

「それは大きな誤解じゃぞ。儂はいつでもしごく真面目に生きておるんじゃがのう」

「霞さん、空齋を相手にしてもらちがあかんぞ。それよりも、儂に茶をもう一杯注いでくれた方が御仏が喜ぶじゃろう」

弘忍はこういう話題が苦手なのだ。それぞれが核心に迫るのを避けるように、時折思い出話を交えながら、他愛の無い軽い話を展開していた。空齋はいつものように呆けており、弘忍は陽気に振る舞っている。

陽が西に傾いてきた。

鰯雲が庚申山の上空から多賀城方面に漂いながら流されていた。

 紅彦と霞は、明るいうちに屋敷に戻ることになっていた。今日は宗綱の五七歳の誕生日なのだ。屋敷には宗綱初め五人の弟子と弥吉が、二人の帰りを首を長くして待っている。

二人は弘忍と空齋に見送られ、山門までやって来た。今日は珍しいことに、弘忍たちが山門までついて来た。

「グルルル・・・」

阿修羅が山門に向って唸り声を発した。

山門の四本の柱が、目の前で微妙に歪み出していた。山門を通して見える風景が歪み、それは渦を巻きながら紅彦に迫っていた。霞、弘忍、そして空齋の目前から、紅彦の姿が徐々に薄らいでいく。その中で、紅彦が哀しそうな顔をして霞を見つめていたが、三人の目前から消え去った。そのとき、阿修羅がその空間に向って跳躍し、紅彦と同じように目前から消えた。

「紅彦さん・・・」

霞が泳ぐように、ニ、三歩山門の方に歩み寄った。その姿を見た空齋が走り寄り、紅彦と阿修羅が消えた空間に向って、霞の背中を勢いよく押し出した。

ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら、浅葱色の着物姿が歪んだ空間に吸い込まれ、弘忍と空齋の視界から消え去った。

この日、冠山一帯に濃い夕霧が立ち込め、深閑とした遊霧山杖林寺は更に静寂を極め、深い霧におおわれていった。[終]





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