三   落日《らくじつ》

夕霧城ゆうぎりじょう


庚申山は時雨ていた。

鹿谷には白いものが舞っている。

鉛色の空を犬鷲がかすめって行った。

 紅彦は、今日も囲炉裏の側に座り込み、小さな鎚を振るいたがねを叩き、薄明かりの中で黙々と彫金の作業をしていた。自在鉤じざいかぎるした鉄瓶てつびんが、時折音を立て、湯気を噴き出していた。紅彦の振るう鎚の音が、寒風にかき消されながら鹿谷に微かな響きを起こしていた。静寂に満ちていた鹿谷は、弘忍の出現によって一挙に賑やかになった。弘忍が霞と次郎太を伴い、鹿谷にやって来たのだ。

「お主なかなか器用じゃのう」

弘忍が紅彦の眼を覗き込んでいた。

「ああ、これが俺の生業なりわいだからなあ」

「紅彦さん、上手じゃのう」

「次郎太の鍛冶より数段上じゃろうて」

「弘忍様、次郎太も腕を上げ、上手になっておりますよ」

「ところで今日は何の用かな?」

「これは恐れ入ったぞ」

弘忍が呆れた顔をした。

「そんだよ。紅彦さん、弘忍様は心配してここまで登ってきたんじゃぞ。重い体で大変じゃったんだから・・・」

「これ、次郎太、言うに事欠いて、重い体はなかろうが」

弘忍に睨まれて、次郎太が頭を掻いた。

「紅彦、ちょっと外に出んか?」

「ああ・・・」

「霞さん、ちょっくら紅彦を借りるぞ」

「どうしたのですか?」

「なあに、すぐ戻るぞよ」

時雨は止んでいた。

紅彦と弘忍は肩を並べ、渓流に向かう小道を歩いた。

「いつまでここにおるつもりなんじゃ?」

「うむ、さあなあ・・・」

「ここで冬を越すのは難儀じゃぞ」

「何とかなるだろう」

「お主、屋敷に戻ったらどうだ」

「・・・・」

「お主の気持ちが分からんでもないが、よく考えてみろよ」

「うむ・・・・」

「お主のことは、宗綱殿から聞いたよ。じゃが、この世には理解できないどうしようもないことが起こるんじゃなあ」

「・・・」

「すぐに山を下りろとは言わん。それに次郎太が食料を担いで来おった。五、六日分はあるじゃろう。それが尽きたら一度戻れよ」

「うむ・・・」

「それにのう、お主の力を借りたいものが起きつつあるんじゃよ」

妙見山の頂を仰ぐように、弘忍が遠くを見ながら言った。

「俺の力を・・・?」

  紅彦が弘忍を見た。

「杖林寺が狙われておる」

「狙われる?。あんなぼろ寺を襲っても何もないだろう」

「それがのう、杖林寺にはとてつもない物を抱え込んでおるんじゃよ。杖林寺の秘密は代々の住職しか知らんのじゃ。それをお主に打ち明けるが、絶対口外してはならんぞ」

弘忍の目が据わっている。

「俺でよければいつでも杖林寺に行くぞ」

「お主は何かあると、実に生き生きとしてくるのう」

弘忍が呆れた調子で言った。

「いいから早く話せよ」

「今この地は安倍一族が支配しておるが、その前は蝦夷地じゃったことはお主も知っておるじゃろう。ちょうど杖林寺が建っておる場所に蝦夷の城郭があったのじゃよ。そこを治めておったのが阿手流為あてるいという名君じゃった。この地には昔から金が沢山採れた。砂金、粒金が、冠山周辺から面白いように採れたそうじゃ。これを阿手流為は城の中に貯蔵し、凶作や非常時に備えておったのじゃ」

弘忍はここまで話すと一息ついた。

「しかし、あんな辺鄙なところに、蝦夷の城があったとはとても考えられんなあ」

「まあ黙って聞け」

弘忍の声が真剣みを帯びてきた。

「今からおよそ二百年前に坂上田村麻呂が蝦夷を平定したことは存じておろう。杖林寺は、蝦夷地平定後五十年過ぎてから現在地に建立されたのじゃ。儂がこれから話すのは田村麻呂の平定五十年前のことじゃ。酋長阿手流為のことはさっき触れたが、民人に人望の厚きお方じゃったそうじゃ。その当時は、杖林寺一帯はなだらかな丘じゃったそうじゃよ。そこに城といっても平屋で茅葺き屋根の、ただただ大きなものじゃったそうじゃ。その城の奥まったところに御金蔵があった。そこには鹿皮の袋に入れた砂金や粒金、粒金とは砂金の粒が大きいものを言うんじゃが、それが山ほど積まれておったのじゃよ。それにのう、阿手流為は、金の精錬をやらせておったのじゃのう。魚金(うおがね)を造っておった。魚金とはな、金を魚の形にしたもんじゃよ。それらが城とともに一夜にして地下に埋没してしまったんじゃ。陸奥の大地震じゃな。そのとき、冠山の形も変わってしまったということじゃ」

「ふーん、じゃあ財宝は杖林寺の地下に埋まってしまっているのか。こりゃあ、掘り出すのに骨が折れるぞ」

「ところがのう、夕霧城はすっぽり埋まった訳じゃないんじゃよ。杖林寺には、地下の夕霧城に続く入り口があるんじゃ」

「夕霧城・・・?」

「夕霧城の由来はのう、こんな風に伝えられておる。昔は、冠山一帯はのう、春と秋には夕方になると濃霧に覆われたそうじゃ。それで、誰とはなしに夕霧城と呼ぶようになったそうじゃよ。遠い昔のことのようじゃが、大地震で地形が変わったせいか、今はほとんど夕霧を見なくなったのう」

「地下に埋没した財宝は、弘忍が守っているということか?」

「ああ、杖林寺の住職は代々これを受け継いでおる。この儂で九代目になる。杖林寺は、蝦夷の血が流れている者が住職になる決まりがあるんじゃよ」

「お前も蝦夷と関わりがあるのか?」

「そうじろじろと見るな。儂の身体には阿手流為の血が混じっておるらしいが、相当薄くなっておるじゃろうと思っとる」

弘忍が照れ臭そうな顔をした。

「それで俺は何をすればいい?」

「どうやら、都の方で杖林寺の宝を嗅ぎつけたようじゃ。このところムササビが騒がしくてのう。それと正体の知れない者の気配が感じられるんじゃ。それも複数のな」

「じゃあ、俺は夕霧城の財宝を守ればいいんだな?」

「そうじゃが、霞さんには、何と説明するかのう」

「俺が寺の小道具を修理しに行くと言えばいいんじゃねえか」

「紅彦よ、杖林寺には、そんなものはありゃせんぞよ」

弘忍が困惑した面をしている。

「でもなあ、うまく言わないと、霞さんは杖林寺に押しかけるぞ」

「そうじゃろうのう・・・」

紅彦と弘忍が顔を見合わせた。

「下手な考え休むに似たりと言うぞ。小屋に引き返そうか」

「そうじゃのう」

二人が小屋に戻ると、中では霞が次郎太の話に腹を抱えていた。

「待たせたかな?」

弘忍が二人に向かって言った。

「次郎太がおかしなことを言うのですよ。おかしくて、おかしくて・・・・」

「霞殿、腹の虫が鳴いておる。さあさあ飯にしようぞ」

「弘忍様はいつもお腹が空いているようですねえ。さあ食事にしましょう」

いつも紅彦だけの静かな食事が、今日は小屋の中が一気に花開いたような、賑やかで楽しいものになった。

「明日ここを下りるよ」

食事しながら紅彦が切り出した。

「えっ、でも当分下りないって、さっきまで言ってたのに・・・」

霞が不可解な面持ちで紅彦を見つめた。

「昔から、男心と秋の空と言うぞ。紅彦には寺の座金を修理して貰うんじゃよ」

助け船を出したつもりの弘忍だが、お世辞にも上手とは言えない言い訳に、次郎太までもがあんぐりと口を開けてしまった。

「外で何を話して来たのですか。私に内緒で何か企んでいるでしょう?」

「うん、お嬢さん、これはきな臭い匂いがしてますじゃ」

  好奇心旺盛な次郎太が黙っている訳がない。

「次郎太、お主が横合いから口を挟むほどのことは一切ないのじゃがのう、紅彦・・・」

「弘忍に山窩のことを聞いていたんだ」

「なに、お主、山窩を知っておるのか?」

紅彦は弘忍の馬鹿正直な顔を眺めた。

「やっぱり何か隠してる。弘忍様のお顔に書いてありますよ」

「ああ満腹じゃ。ご馳走様。さあて儂は一風呂浴びて来るかのう」

「弘忍様、お逃げになるのですか?」

 霞が追い討ちをかける。

次郎太は、紅彦と弘忍の顔を交互に見てにやにやしていた。

「儂は何も知らんぞ。紅彦、お主薪取りに行くと言っておらんかったかのう?」

「おお、そうだった」

  二人はぎこちない会話をしながら、そそくさと出ていった。

「弘忍様は嘘が下手ねえ。薪は当分採りに行かなくても間に合っているのに・・・」

「お嬢様、紅彦さんも弘忍様も、ありゃあなんか隠しておるぞ。ほんじゃけど、ちぃっとも悪気がねえようじゃ」

大の男が慌てふためく様は滑稽であったが、霞にはこれから起こる凄惨な出来事は想像だにできなかったのだ。


同じ頃、藤原の忍びが動き出していた。

奥州街道の佐久山宿の外れにある雲蔵寺の一室で、源海が商人風の男と会っていた。男は痩せぎすだが、身の丈は源海よりも高い。

境内には夕闇が迫っていた。

「雪が解け、新緑が萌えいずる頃がいいじゃろう。ちょうど気が緩む季節にのう」

 源海が男に言った。

手筈てはずはどのように?」

左馬さめが扇動するんじゃ」

  左馬は無言で頷いた。

「じゃが、里の者は使うでない」

「はあ、心得ております」

「人数はさほど多くはいらない」

「十五人ほどを考えておりますが・・・」

  左馬は源海の思考を追いかけている。

「どこの者を使うのじゃな?」

「相州者を使おうと思いまする」

「相州者・・、漏れないじゃろうなあ?」

「事が終わればすべて始末いたしまする。里者を三人付けて、分からないように監視させまする」

左馬の双眸が冷酷そうに光った。

「よし、襲撃は卯月じゃ」

承知仕つかまつりました」

「手の者の名を聞いておこう」

「菊丸、蘭、竹之助、いずれも手練れです」

「よし、何かあれば儂に伝えよ」

左馬は闇の中に掻き消えた。

源海の動きを奥州では知る由がなかった。


杖林寺裏の洞窟の中を、龕燈がんどうの明かりが照らしていた。闇の中を三人の男女が歩いている。霞が弘忍からあの手この手で聞き出し、強引に割り込んできたのだ。先頭を行く弘忍が、岩壁の割れ目に備えつけてある燭台に火を灯しながら、更に奥へと進んでいる。

「弘忍様、まだ歩くのですか?」

「もう少しじゃ」

道は下りながら大きく迂回し、本堂の下の方に向かって進んでいた。しばらく進むと、道は平坦になった。行き止まりのように見えた道は、そこで直角に右折し、その先には闇が果てしない広がりを見せていた。その闇を照らすため、弘忍が次々と火を灯した。仄<ほの>かな明かりの中に、崩れかけた建物の一部が現れた。

「すごい、これが夕霧城?」

二百五十年もの間、地下の闇の中で息づいていたその姿に霞は感動した。

「これが夕霧城じゃよ。どうしてこんな姿で残ったのか不思議なのじゃが、金蔵は太い柱を使っておったのと、あの大岩三個が支えてくれておるんじゃろうのう」

燭台の明かりが、夕霧城を仄かに浮かび上がらせていた。

「いつも独りでここに来ていたのか?」

「どこからか、沢山の人に見られているような気がするわ」

 霞が蒼ざめた顔で紅彦の袖を握った。

  弘忍が奥まったところで、二人を手招きして呼んでいた。

「夕霧城にいた人はどうなったんだ?」

「ここには酋長阿手流為一族が住んでいたんじゃが、生き残ったのは末娘と乳母だけじゃったそうじゃよ。ほら、あそこに皆眠っておるんじゃ」

「その末娘の血筋の者が弘忍か?」

「ああ、儂もそれを知らされたのは十五、六年前じゃった。薄々は分かっておったと思うが、儂は若い頃、安倍様に仕えておった武士だったんじゃよ」

弘忍が自分のことを話したのは、このときが初めてだった。

霞が紅彦の背に身を寄せてきた。

「ここの財宝を守ることに、どんな意味があるんだろうか。使い道がないのなら、貧しい人に分け与えた方がいいんじゃないか」

「儂も一時はそう思っとったよ。じゃがのう、それは瞬時のものじゃよ。いずれこの世を変えるときが来るじゃろう。智恵のある者が現われるまで、儂はその時までこれを守っていくことに決めたのじゃよ」

「そうか・・・。霞さん、阿手流為一族の墓にお参りしようか」


紅彦が後ろを振返った。

自然石を積み上げた阿手流為の墓に、弘忍が二人を導いた。蝋燭ろうそくの灯りが風もないのに揺らめき、三人の影を揺らした。

「よし、財宝を見せよう」

「・・・」

弘忍は崩れかけた夕霧城の横に、ぽっかりと開いている穴に二人を導いた。

「財宝は城の中ではないのか?」

「城はいつ崩れるか分からん。儂の代になってから、三年かかって移したんじゃ。お主たちに見せたら、ここを閉じてしまおうと考えておる。万が一、ここに誰か入り込んでも見つけられんようにのう」

「すごい・・・」

霞が喚声を挙げた。そこには木箱が積み上げられ、その一つから眩いばかりの輝きが発せられていた。金塊はいずれもが魚の形をしている。

「これも使い方次第、考え方次第だ。厄介なものを守っているんだな、弘は・・・」

「儂もお主と同じように思っとる。誠に厄介な代物じゃのう。じゃが、いつかこれを有益なものとして利用することができる、そんな仁徳者が出て来ることに、儂の夢を託すことにしたんじゃよ」

弘忍が穴の奥から何やら持ってきた。

「これは純金の首飾りだ。阿手流為の家に代々伝えられてきたものじゃ。儂が母から譲られたものをここに納めておいたんじゃが、霞さんにこれを差し上げよう。ほら、得意の組紐で紫色の紐をつけ、首に下げてくれんかいのう。物というものは、一番似合う人が持つべきなんじゃよ」

弘忍は柄にもなく、照れ臭さそうに鼻の頭を擦りながら、霞の手の平に花形をした純金の首飾りを載せた。

「そんな大事なもの、私が頂くわけには参りません」

「霞さん、これはなあ、儂からの贈り物として受け取ってくれんかいのう」

「でも・・・・」

「弘忍、ありがたく頂こう」

「そうじゃ、時折、紅彦も物分かりがいいことがあるのう。霞さん、それはのう、美人にしかつける資格がないんじゃよ。儂の母上も美しい人じゃった。霞さんよりは幾分落ちるけれどものう」

いつもの弘忍に戻った。

「財宝も見せたし、庫裏に戻ろうか。これからのことも話しておかんとのう」

「うむ、俺は城の中を見ていいかな?」

「紅彦、中は危険じゃぞ」

「ちょっと見るだけだよ」

「じゃあ私も一緒に行くわ」

「皆入ってしまったら、もしもの時に困るじゃろう」

「じゃあ、弘忍様が留守番ね」

「仕様がないお嬢様じゃのう」

洞窟の中は四季を通して温度、湿度共に一定なので、城の中は考えていたほど痛んではいなかった。紅彦の持つ龕燈に照らし出される光景は、寒々した寂寥感が漂っていた。人が住まなくなった建物には、かつて住んでいた者の心が残り、長い時を経て、何者かの存在を感じさせる気味悪さを宿していた。

霞が紅彦の背に身体を寄せてきた。

「弘忍が掃除してるのかな。結構綺麗になっている」

「早く戻りましょう」

「もう少し先まで行こう」

「・・・・」

大広間らしき空間を抜け、いくつかの小部屋を通り、更に奥へと進んだ。紅彦の龕燈が祭壇を照らした。背の高い燭台が両脇に置かれ、その奥に五段の祭壇があった。最上段にはいくつもの古びた位牌が安置されていた。中段には一尺ほどの道祖神さいのかみが鈍い輝きを放っている。右横には、蝦夷の甲冑が置かれていた。柔らかな明かりに浮かび上がったそれは、紅色と黄色が今も鮮やかだった。甲冑の隣には、一口の太刀が刀架とうかに立てられていた。紅彦は太刀を鞘から抜いた。刀身は見た目より短く、鎬造しのぎづくりの湾刀わんとうの姿をしている。

「誰かに見られているような気がするわ。何人もの人がこっちの様子をうかがっているようで気味が悪いわ」

霞が紅彦の背に身体を圧しつけてきた。

「よし、戻ろう」

 紅彦は霞の肩を抱き、弘忍の待つ広場へと向った。

「随分ゆっくりじゃったのう」

「弘忍様、すごく恐かったわ」

「霞さんは感性が強いのじゃろう。じゃがのう、ここにいる霊は悪意がないぞ。静かにこの地を浮遊してい

るだけじゃで・・・」

「弘忍、奥の祭壇のところにある太刀は舞草刀か?」

「やはりあれを見たのか。紅彦の言うとおりじゃ。あれは阿手流為が使っていた物と伝えられておる」

「素晴らしい出来だ」

「さあさあ、二人共もういいじゃろう。霞さん庫裏に戻って茶を喫しようぞ。あの風呂敷の中は何じゃったのかのう?」

「干し柿とお団子ですよ」

霞もいつもの顔に戻り、子供のような弘忍に微笑みかけた。

「それはいい。早く戻ろう」

弘忍が二人を急かせた。


その頃、空齋は下野にいた。

下野には薬師寺がある。薬師寺は、奈良の東大寺、筑前の観世音寺と並ぶ日本三戒壇の一つであり、全国から学僧が集まっていた。

奥州街道沿いの旅篭<はたご>の軒先で、空齋が甘酒を飲んでいた。空齋は厚手の墨衣を着ており、今年の夏に日焼けした顔は、額に深い皺に陰翳をつくっていた。

空齋は往来に目を向けていた。

 薪を背負った母子連れが、家路を急ぐように目の前を通り過ぎ、その後ろから野菜を籠で背負った若者が、急ぎ足で空齋の前を横切って行った。

冬の日は暮れるのが早い。

空齋は夕刻には、茂原<もばら>の観音寺まで足を伸ばすつもりでいる。国分寺に立ち寄ったとき、源海の言<こと>づけを聞き、ここで待ち合わせをしたのだった。源海とは杖林寺で会ったきりで、その後は音信不通であった。空齋もあれから陸奥、出羽を回り、越前を経て、一旦都に戻った。その後、近江、那古屋なごや、相州鎌倉を行脚してから下野に入った。

空齋は目の端に、饅頭笠を被った引き締まった体つきの沙門の姿を捉えていた。ゆったりとした足取りのように見えるが、その速度はかなりのものだ。

「待たせてしまったのう」

源海が空齋の隣に腰かけた。

 二人の前を竹細工売りの男が通り過ぎた。

「いやあ、なんの、なんの」

「堅固じゃったかな?」

「源海、随分と白い顔をしておるが、床にでも臥せておったのか?」

「儂は源信様のもとで写経をしておった。それで空齋みたく烏になっておらんのじゃ」

「言うに事欠いて烏はなかろう。儂のような上品な烏はどこにもおらんぞ」

 源海が噴き出した。

「ところで源海、儂に用があるというのは何じゃろうかいのう?」

「うむ、実はのう、源信様が一度弘忍殿を本山に招いたらどうかと言われたんじゃが、儂から言うよりも、空齋からの方がいいじゃろうと思ってのう。源信様の遣いで薬師寺に来たついでに、空齋に頼もうと考えておったのじゃよ」

「いつから薬師寺におったんじゃ?」

「もう一月ほどになるかのう。あと四、五日で比叡の山に戻らねばならんのじゃ。空齋に会えるかどうか気がかりじゃったのじゃよ」

「じゃが、源信様がよく弘忍を存じておったのう。奥州の破れ寺の住職なんぞ、知る由もなかろうがのう」

空齋が首を捻った。

「源信様には儂が話したのじゃ。奥州に面白い僧侶がおることをな。先だって厄介になったとき、気骨ある住職がおると思っておったでのう。弘忍殿は以前は、武士でもやっておったのかいのう?」

  一瞬、源海の双眸に強い光が過<よぎ>ぎった。

「あんな武骨な男を源信様に会わせたら、びっくらこいてしまうじゃろうて。弘忍が何をしていたのかは儂もよう知らんが、あの手はきこりでもやっておったのじゃろう。あんな品のない武士はおらんじゃろう」

「あの杖林寺は何か謎めいておるのう?」

「弘忍そのものが謎じゃ。あんな男が、どうして僧侶になったのか」

「杖林寺には、弘忍殿の他には誰もおらんのじゃろう。もし、本山に行くことになれば儂が留守番をしてもいいぞ」

「ああ、じゃが、あの男は変りもんじゃで、源信様のところには行かんじゃろう。一応伝えはするがのう」

「うむ、弘忍殿によしなにお伝えしてくれんか。なるべく源信様を訪ねてくれるようにのう。ところで、空齋は杖林寺にはいつ頃行ってくれるんじゃな?」

「うむ、奥州は間もなく根雪が降るでなあ、雪解けの卯月頃になってしまうが、それでもいいかいのう?」

「ああ、よろしく頼む」

 空齋の後ろ姿が長い影を引いて、北の方角に小さくなった。夕闇迫る下野路に木枯らしが舞い、人の絶えた街道を黒い影が掠<かす>めた。


師走が慌ただしく過ぎ、年が改まり、如月も半ばを過ぎていた。日差しは、春の柔らかさを感じさせるようになったが、外気にはまだ肌を刺すものがあった。

杖林寺の一室。

 紅彦が杖林寺に寝泊まりするようになってから、すでに二週間が過ぎた。烏の勘九郎が時折紅彦をからかいに来る以外は、境内は静寂そのものであった。どうしたことか、一年前から寺に烏が棲み着いてしまった。

 その勘九郎が、屋根の上で騒いでいる。

「ちょっくら見て来る」

弘忍が部屋を出て行った。

間もなく、玄関の方から聞き覚えのある賑やかな声が聞こえ、遠慮のない足音が廊下を踏み鳴らし、紅彦のいる部屋に向って来た。

「おお、久しぶりじゃのう」

空齋が顔を突き出した。

「空齋はどこをほっつき歩いておったたんじゃ。相変わらず小難しい念仏を説いて歩いておったのか?」

「喉が渇いておるんじゃが、茶なんぞもらおうかのう。こっちはまだまだ寒いのう」

紅彦が席を立った。

「弘忍、源海を覚えておるかな。この前、下野薬師寺で源海と会ってのう、奴から言づけを頼まれたんじゃよ。それで仕方なくこの荒れ寺まで出向いて来てやったんじゃぞよ」

「それで、源海が何じゃて?」

「うむ、何ということもないがのう。源信様が弘忍に会いたいから、恵心院に来いといっておるそうじゃ」

「源信様が・・・。何かの間違いじゃろう。儂は都なんぞへ行くつもりは毛頭ない」

「わっはっはっはは・・・。お前なら必ずそう言うじゃろうと思っとったぞよ」

「ふん、世誉は惟うに足らずじゃよ」

  弘忍が鼻白んだ。

「まあ、茶でも飲めよ」

  紅彦が茶を入れてきた。

「弘忍、何の話だ?」

「比叡の山から儂に来いとよ」

弘忍はきな臭い顔をして、紅彦に不器用そうな目配せをした。

「ところで、お前ら二人揃って、寺で何をしておるのかね?」

空齋が初めて気がついたように尋ねた。

「鬼魅を葬ってから紅彦に仏心が起こってのう、それで愚僧が説教しておるじゃよ」

「ふーん、愚僧の説教では紅彦殿も混乱するじゃろうて。今日は霞殿の姿が見えんが如何したかな?」

「霞さんは風邪で臥せっておるそうじゃ」

弘忍が口から出任でまかせを言った。

「空齋は少しやつれたんじゃないか?」

「儂は歩き詰めじゃったからのう」

「ところで、ここまでの間に何か変ったことは無かったかい?」

「何もないわなあ。ああ、そう言えば面白い連中と多賀城のところで会ったぞ。浪人風の三人組じゃが、安倍様に仕えるんじゃとか言っておったのう。言葉は関東訛りじゃった。加茂何某なにがしとか言っておったが、あまり品のいい連中ではなかったのう。儂に般若湯を馳走してくれたがのう。杖林寺のことも聞いておったぞよ。こんな荒れ寺を聞く者がおるのかと魂消たぞよ」

弘忍が僅かに顔をしかめた。

そのとき、勘九郎が玄関の屋根で甲高く鳴き出した。

「弘忍また誰か来たようだぞ。俺が見に行こうか?」

紅彦が弘忍に声をかけた。

「いや、その必要はなさそうじゃ」

案内も乞わず、誰かが廊下を急ぎ足でやって来た。廊下を渡って来る足音が軽い。障子に細い影が映り、引き戸が開いた。

「ほう、こりゃ魂消た」

空齋が弘忍を見て、ニヤニヤした。

「あら、空齋様お久しぶりです」

霞が次郎太を伴って部屋に入ってきた。

「これは霞殿、風邪はもう治ったのかな?」

「空齋様、私はいたって元気ですよ」

「そうじゃろうて、血色がよい」

「どういうことですか、弘忍様?」

「うむ、実はのう、霞殿は風邪を引いておったことになっておったのじゃよ」

鼻の頭を撫でながら、弘忍が正直に白状したのを聞いて、次郎太が噴き出した。

「お前は笑うでない」

「何か子細があるようじゃが、聞かんことにしておくかいのう」

空齋の眼が笑っている。

「そうじゃ、それがいい」

「次郎太、台所の方を片づけてね」

「弘忍様、あの勘九郎は襲って来ねえじゃろうなあ?」

次郎太が未練げに台所に向った。勘九郎が裏の地蔵菩薩の辺りで、突然けたたましく騒ぎ出した。同時に、洞窟の入り口に仕掛けた鳴子が音を発した。紅彦と弘忍が顔を見合わせた。

「霞さんはここから動くなよ」

紅彦は続けて大声を出した。

「次郎太、次郎太、こっちに来てくれ」

紅彦は無双宗綱を掴み、素足で廊下から外に飛び出した。その後を、太刀を持ち出した弘忍が、すごい形相で追いかけた。空齋と次郎太は何が起きたのか飲み込めずに、二人が飛び出して行った方角を呆然と見つめていた。

外で弘忍の野太い声が湧いた。霞が廊下に出ると、鐘楼のところで弘忍と浪人風の男が対峙しており、紅彦は鐘楼から離れた場所で二人の男と対峙していた。

「なぜ逃げようとした?」

紅彦が浪人風の男に詰問した。

「・・・」

二人とも険しい目つきをしており、一人は背が高く細っそりとした体形で、もう一人は小太りだが膂力りょりょくのありそうな体つきをしている。

「キーン」

鐘楼の方で刃がぶつかり合う音がした。

「弘忍、大丈夫か?」

「おお、こっちは案ずるな」

弘忍の野太い声がした。

紅彦は一瞬の隙をつかれた。背の高い方の浪人、佐吉が抜刀し、そのまま逆袈裟に斬り上げてきた。鋭い太刀筋だ。小太りの浪人、勘助はその場を動かず、目を半眼にして紅彦を見つめている。紅彦は敵の太刀の長さだけ後ろに移動していた。佐吉の太刀は重ねが薄く、小鋒の身幅がやや狭いものであった。その分、刃筋に速度がある。太刀は右八双の位置まで行くと、手首を返してそのまま袈裟斬りに移ろうとしていた。紅彦はこの瞬間、躊躇ためらわずに居合月影を繰り出していた。佐吉の振り下ろした筈の太刀は後ろに飛び落ち、右手首から鮮血が飛び散り、庭に積もっている雪に朱色の花を咲かせた。佐吉が呆然としているとき、紅彦はすでに納刀していた。勘助が頭を低くして走った。太刀は鞘を離れ、左横車の構えのまま紅彦に迫っている。

「キエー」

甲高い、怪鳥のような気合を発した。剛刀がブーンと音を立てて振り回された。勘助の太刀は難剣だ。左から右に行った刃が、腰を屈(かが)めた態勢から紅彦の脛を狙った。紅彦は小刻みに後ろに退いた。目の端に、佐吉が左手と口で右手首を細紐で緊縛しているのが映った。勘助の太刀は変化を極めている。横車、逆袈裟、袈裟斬りとめまぐるしく動き、つけ入る隙を見せない。いつしか、紅彦は鐘楼に追い詰められ、弘忍と背中合わせとなった。

勘助が真向上段に振りかぶった瞬間を紅彦は見逃さなかった。紅彦は小股で滑るように前進し、抜打ちに勘助の右脇腹から肩の付け根を切り裂いた。

「大丈夫か、俺に任せろ。お前は退け」

「何を言うか、こいつは儂がやる」

弘忍が鬼瓦のような顔で叫んだ。

「あぶない、紅彦さん・・・」

霞の声で後ろを振り向くと、佐吉が左手に太刀を握り、肩に担いで、すぐ近くまで迫っていた。二間の距離に迫ったとき、紅彦は棒手裏剣をった。

「ヴォー・・」

佐吉が後ろに吹っ飛んだ。

紅彦が加茂頼助に向きを変えたとき、加茂が弘忍を袈裟に斬り下ろすところだった。紅彦が棒手裏剣を射ち、加茂の動きを止めた。

「弘忍、斬るな」

 紅彦が弘忍の前に回り込んだ。

そのとき、霞が走って来た。

「こっちに来るんじゃない。次郎太、霞さんを部屋に連れて行け」

紅彦が叫んだとき、加茂は霞に向って疾走し、霞を人質に取った。

勘九郎が鐘楼の屋根で騒いでいる。

「お主ら得物を捨てていただこう」

 加茂が脇差しを霞の喉にピタリとつけた。

「紅彦さん、ごめんなさい・・・」

「分かった、刀は捨てる。弘忍お前もだ」

紅彦は無双宗綱を足元に投げた。

「まだ手裏剣があるじゃろう」

加茂が顎をしゃくった。

 紅彦は肩に吊るした棒手裏剣を革袋ごとはずし、下に落とした。

「お主の狙いはなんじゃ。はっきり言うたらどうなんじゃ?」

弘忍の双眸も怒りのため充血していた。

「そこをのけ」

  加茂は後ろから左手で乳房を鷲づかみし、右手で脇差しを横腹に突きつけた。

「もそっと後ろにさがらんか」

  霞を楯にして、じりじりと加茂が山門に向っていた。このとき、山門の方から獣が集団で走って来て、加茂の行く手を阻<はば>んだ。加茂は突然降って湧いた出来事に訳が分からず、逆に本堂に向かい後ずさりしたとき、鐘楼の蔭から一陣の風が吹き抜けた。

夜叉丸が紅い稲妻の如く姿を現し、脇差しを握っている加茂の右肘をを噛み砕いた。この瞬間、霞が加茂の腕から逃れ、紅彦のところに走り寄った。

 加茂はよろめきながら逃れ、その後を追うように佐助と勘助の姿が山門から消えた。

「紅彦、お主の剣は・・・」

弘忍は言葉を飲み込んだ。

 夜叉丸がゆっくりと歩み寄り、蒼く澄み切った双眸で紅彦を見つめた。

「夜叉丸ありがとう。元気だったのね」

  霞は目に涙を浮かべていた。

 夜叉丸は霞のもとを離れ、ゆったりとした足取りで群れに戻って行く。その肩に、鐘楼の屋根から舞い下りた勘九郎が止まった。

「何と、そういうことじゃったのか」

弘忍の野太い声に呼応して、勘九郎が一声鳴き、天空に舞い上がった。夜叉丸は上空を一瞥した後、紅彦と霞を見つめ、そして山門から去った。喧噪が嘘のように静まり返ったとき、早春の陽は西に傾き、冠山を朱に染めていた。


奥州から遠く離れた坂東では、甲賀の忍びが動き出していた。

相州鎌倉の外れに建徳寺がある。

寺は鬱蒼とした杉木立の中にひっそりと建っており、里の者もめったに足を運ぶことはなかった。傾いた山門の奥に、小さな虚空蔵菩薩を安置した本堂と鐘楼、それと申し訳程度の庫裏があった。 庫裏で左馬と下忍が対座していた。

「菊丸、夕霧城の方は、いかほど調べが進んでおるんじゃな?」

菊丸と呼ばれた下忍は分銅の名手だ。

「肝心の物は、まだでございます」

「うむ、蘭の方はどうなっておる?」

「はあ、坂東下総ばんどうしもふさ野伏のぶせりを使おうと考えておりますが・・・・」

「坂東では遠過ぎる。白河辺りの者にわたりががつけられんのか?」

白河の浪人を使うことは、源海から左馬に指示されていた。

「白河には、伊藤雄之助が率いる一党がおります」

「それを利用できないのか?」

「そちらは何とでもなります」

蘭という下忍は、八方手裏剣術の名手として里では一目置かれていた。

「それで竹之助、源海様は何と申しておったのじゃな?」

「はあ、七夕には金飾りをせねばなるまいと申されておりました」

竹之助は刀術の遣い手だ。

「菊丸、早急に杖林寺に行き、所在をつきとめよ。手段は選ばん。蘭は白河者を心して集めよ。じゃが、お前は裏にて行動するのじゃぞ、よいかな」

左馬が厚手の条幅全紙を広げた。かつて、源海が杖林寺に一泊したとき、自らの目で確かめた杖林寺周辺の見取り図が描かれ、達筆な文字が書き込まれていた。

「菊丸、この辺りを探ってみろ」

「地蔵菩薩の陰に洞穴がある。じゃが、弘忍の目があるぞ、心せよ」

「弘忍に見つかったときは、奴の首でも持ってきますか?」

菊丸が不敵な笑いを浮かべた。

「たわけ、弘忍を殺しては、元も子もないじゃろう」

「竹之助よ、杖林寺の弘忍には異相の友がおる。名は紅彦という。こやつを斬れ」

「紅彦に加勢する者も始末しますか?」

「ああ、構わんが、沢郷の宗綱はよせ。宗綱を殺ると安倍が動く」

「承知仕りました」

「菊丸、蘭、竹之助、よいかな。今回の仕事に失敗は許されない。事を仕損じたときは、儂らの命があの世にいってしまうということじゃ。生きておめおめと甲賀に帰るわけにはいかんぞよ」

初めて目にする左馬の真剣な表情に、三人の下忍は心臓が凍てつくような身震いを感じていた。小一時間後、左馬を残して三人の下忍は黄昏の中に消え去った。


奥州は四月も半ばを過ぎていた。

一関街道を武家風の男が、ゆったりとした足取りで歩いている。多賀城から一関までを一関街道という。男は紋付き袴で、刀を二本差していた。下忍の竹之助だ。妙見山の麓まで来ると、竹之助は一関道に抜ける間道に足を向けた。

竹之助は杖林寺に向っていた。

昼下がりの街道には人影はない。遠くの方には、馬を使って田を耕している農夫の姿が見えた。街道を一関方面に向って行くと、右手に風格のある重厚な長屋門が見えた。竹之助は、長屋門を隔てた道の向こう側の畦で、芹摘みをしている娘に目が止まった。その娘は浅葱色の作務衣姿で、髪を無造作に後ろで束ねたままであるが、上品な色香を漂わせている。

「娘御、ちくと尋ねるが、杖林寺はまだ先の方かいのう?」

額の汗を拭いながら竹之助が尋ねた。

「はい、この道を行きますと、やがて右手に冠山が見えます。この道沿いに杖林寺に上って行く小道がありますので、直ぐに分かると存じます」

色白で切れ長の涼やかな双眸をした娘が、はきはきとした口調で応えた。今が旬の芹を紅彦に食べさせようとして、霞が小籠を提げて摘んでいたのだ。

「娘御、儂は昼飯をとりたいのじゃが、どこぞで、湯なぞを貰えるところはありゃせんかいのう?」

「それでしたら、そこが私の家ですから、どうぞお寄りください」

霞が小籠を背負って前を歩いた。霞の腰から尻を粘っこく見つめながら、竹之助が後ろからついて行く。霞は思うところがあって、竹之助を勝手口から土間の方に案内し、昼の残りの味噌汁と奥州の寒風にさらして漬け込んだ沢庵を差し出した。

「すまんのう、厄介かけて・・・」

背に結わえていた袋から握り飯を取り出し、竹之助は口一杯に頬ばり始めた。間もなく、杖林寺から紅彦が戻って来る時刻となっていた。宗綱が鍛えた太刀が昼前に研ぎ上がることになっており、紅彦が試し斬りをする約束になっていたのだ。

 今日は、弥吉が杖林寺に行っている。弘忍と空齋のため、一週間分の野菜や乾物を持って行ったのだ。

「まだお名前をお伺いしておりませんでしたわね。私は霞と申します」

「これは失礼いたした。儂は、佐々木竹之助と申す。下野の小山家に仕えておるが、かつて先々代が安倍様を訪ねた折、杖林寺の住職にいかい世話になったということでな。それで儂が棟梁から使いを仰せつかり、杖林寺に行くところなんじゃ」

竹之助は袋を叩きながら応え、霞が入れてくれた茶を美味そうに飲み干した。

「そうでございますか。多分、弘忍様は聞いておりませんでしょうねえ」

霞も先々代の住職を知らない。

「弘忍様には話せば分かってもらえると思うが、随分と昔のことじゃからのう」

「ところで、杖林寺にはその弘忍という住職しかおらんのかな?」

「ええ、お一人でございます」

「ここは刀鍛冶を生業としておるのかな?」

鍛冶場の方から槌の音が聞こえて来た。

「はい、私の父が刀匠をしております」

「名は何というのじゃな?」

「宗綱と申します」

菊丸の調べでは、紅彦は宗綱の屋敷に住んでおり、そこの娘といい仲になっているということが報告されていた。

「おお、ここがあの高名な宗綱殿のお屋敷であったか。宗綱殿のことは、坂東から都まで知らない者はおらんぞよ」

竹之助は別のことを考えていた。

「もう一杯お茶をいかがですか?」

竹之助の思考は霞の声で中断した。

「おお、いただこうかのう」

そこに弥吉が戻って来た。弥吉は竹之助に会釈して、言葉少なに霞に挨拶した。

「弥吉ご苦労でした。こちらの方は佐々木竹之助様と申されて、下野の小山家の使いで杖林寺まで行かれるそうです。今、お茶を差し上げていたところです。私は奥に参りますので、後は頼みますね。では、ごゆるりとなさってください」

霞は離れに向った。

紅彦は着流し姿になっていた。離れに住むようになってから、普段は霞が仕立てた浅葱色の着物を着ていた。霞も薄緑色の小袖に着替えた。

「お帰りなさい、早かったのですね。今、土間に杖林寺を訪ねてきたお武家様がおりますが、弥吉がお相手しております」

「どんな男だ?」

「下野の小山家の家臣であると言っておりますが、どことなく違和感があります」

 紅彦は小首を傾げたが、無双宗綱を持って立ち上がった。

「そろそろ鍛冶場に行くよ、新刀の試し斬りを頼まれているから・・・」

「じゃあ、私も一緒に行きます」

「女は鍛冶場には入れないんじゃないの?」

「今日は表でやるんでしょう?」

二人は草履を履いで離れから出かけた。すでに植え込みの横には、試し斬り用の巻き藁が用意してあった。紅彦と霞が歩いて行くと、宗綱が弟子を引き連れて鍛冶場から出て来るところだった。白砥ぎして斬り柄をつけてある太刀を、次郎太が大事そうに両手で抱え、先頭を歩いてやって来た。刀身は二尺七寸、湾れがかった直刃で、地金が冴えている。

「では紅彦殿頼みますぞ」

  宗綱がおもむろに言った。

「試し斬りは巻き藁だけですか?」

「いや、そのほかに二寸の杉を斬ってもらおう。今日、山から切り出して来たものじゃ、枯れてはおらんので刃が入るじゃろう。刃こぼれしなければ及第じゃ」

四本の杉の木が、皮をつけたまま地面に突き立てられていた。紅彦は無造作に巻き藁に向い、次々に三段斬りをした。続いて四本の巻き藁を斬り、柄を宗綱に向けて差し出した。宗綱は懐紙で刀身を拭い、刃こぼれの有無を確かめた。紅彦は再び宗綱ら太刀を受け取ると、やはり無造作に杉の木に近づき、いとも簡単に斬り落とした。いずれも鮮やかな切口で、杉の年輪が美しかった。

「すごい切れ味ですね。力を入れなくとも刀身の重さだけで、紙でも切るように簡単に斬れてしまいます」

「それは、紅彦殿の斬り方が上手いからじゃよ。無駄な力が入っておらんから、刃筋が正しいのじゃのう」

綱は太刀を次郎太に渡した。

「その太刀はどこに納めるのですか?」

「うむ、これは高任殿じゃ。せがれに与えるということじゃ」

高任は霞の母沙霧の兄であり、宗綱にとっては義兄にあたる。

「では喜平次、本研ぎをしておいてくれ」

宗綱は弟子たちを残し、母屋に向かった。その後ろから、紅彦と霞が少し離れてついて行った。紅彦たちが土間を覗くと、すでに竹之助は姿を消しており、弥吉が忙しく台所の仕事をしていた。三人は茶の間に向った。

「父上、ただいまお茶をいれましょう」

霞が台所に向かった。

「紅彦殿、ここに来た佐々木何某という男のことが気になるのう?」

「霞さんから聞いただけですが、私も気になるので、今晩は杖林寺に行こうかと思っております」

「うむ、油断は禁物じゃぞ」

「弥吉が芹の天婦羅を作っておいてくれたので、お茶請けに持ってきました」

霞が部屋に入って来た。

「おお、これは美味そうじゃのう。喜平次たちにも届けてくれたかな?」

「はい、父上がそう言うだろうと思い、弥吉に言っておきました」

  微笑みながら宗綱を見た。

「おお、手回しのいいことじゃのう。ところで、佐々木何某のことを話してくれんか」

「お供もつけないで一人で来たんですよ。お武家にしては何か変な感じがしました」

  霞は竹之助に遭ったところから話し出した。 霞の話が一通り終るのを待って、紅彦が口を開いた。

「少し気になることがあるので、今晩は杖林寺に行こうと思っている」

「お泊りになるのですか?」

「いや、遅くなっても戻って来るよ」

「杖林寺に行くのであれば、次郎太でも供につけようかのう」

「いや、独りの方が身動きがとれます」

 宗綱に挨拶して、紅彦は離れに戻った。


甲賀の左馬は白河にいた。

白河郷の外れに古い社がある。小高い丘の上にその社は建っていた。丘には、数本の老齢の杉が永い風雪に耐えた姿を偲ばせて立っており、周りのしいや楢とほどよくとけ合っている。

陽は西に傾いていた。社の中には十数名の野伏が座しており、座の中央には口髭をたくわえた眼光の鋭い男がいた。伊藤雄之助、野伏の首領だ。

「先ほどは、配下の者が無礼をした」

伊藤が蘭に詫びた。蘭は社の参道で、伊藤の配下に手荒い歓迎を受けたのだ。町人風の姿をした蘭が参道の階段を登りきろうとしたとき、いきなり槍が突き出され、蘭の太股を襲ってきた。甲賀者にとっては、こんな攻撃はどうということはなかったが、蘭は遊び心が湧き起こり、今後のために少々痛めつけておくことにしたのだ。蘭は突き出された槍に飛び乗り、体重をかけずにすすっと手元まで進み、相手の顎を軽く蹴り上げた。瞬きをするほどの出来事だった。伊藤の配下も初めはいたずらのつもりであったが、仲間がいとも簡単に蹴倒されては、引っ込みがつかなくなってしまった。相手は、道中差しを腰にした若造。そいつに舐められては野伏の沽券こけんに関わると考えたのが、恥の上塗りになってしまった。多勢をたのんで襲いかかったが、蝶のように舞う蘭に素手でのされてしまった。

蘭は先ほどの稚戯じみた己の姿を思い出したが、それには触れずに左馬から指示された事を噛み砕いて、目の前の頭の悪そうな首領に丁寧に説明した。

「襲撃のやりようは分かった。じゃが、我らの報酬は間違いなかろうな?」

「山分けの約束は忘れておらん」

蘭が伊藤に応えた。

伊藤の横には三人の手下が睨みをきかせて座している。丸顔で小太りの男が土肥勘助、一番隊隊長だ。土肥は刀術に長けている。伊藤は、集団を一番隊、二番隊、三番隊の三班に分けており、それぞれに腕の立つ者を隊長にしている。隊は五人で編成しており、伊藤を含めて総勢十六人の集団になっている。二番隊隊長は千葉辰之進、小柄だが短槍の達人だ。三番隊隊長は高橋頼蔵、色白の大柄な男で槍術を得意としていた。蘭の後ろには、一癖も二癖もある野伏が十二人で監視しており、妙な動きをすれば立ち所になますにするつもりなのだ。伊藤と対座する蘭は、恐れる様子も見せずに淡々として話を進めていた。

「それでお主の手の者は何人おるんじゃ?」

蘭をねめ回すようにして伊藤が聞いた。武士の気品など、どこにも持ち合わせていないような男だ。

「お頭を加えて四人、これが杖林寺襲撃に出向く。必要とあらばあと十四、五人は集められるが伊藤殿のお仲間で十分じゃろうて。間もなく、儂の仲間が財宝の在処を見つける手筈となっておる」

「明月一日夕刻に行動を起こす。一人か二人でばらばらになり、庚申山の麓にある百姓の廃屋に集まっていただく。指示伝達は全て儂が行う。仲間はそのとき顔見せを致そう」

「承知した」

伊藤が配下の者を眺めながら応えた。

蘭はその晩、闇に紛れて多賀城まで走り、左馬に伊藤雄之助との談合の一部始終を報告していた。このとき源海には甲賀文字の密書が届いており、財宝は地蔵菩薩裏の洞窟に隠されていることが、菊丸から報告されていた。


陽は西に傾き、靄が棚引いている。

庚申山も間もなく新緑を迎える。紅彦は夕闇迫る平泉道を急いだ。夕焼けに目をやると、冠山の上空で鳶が烏に追われていた。しばし、その場に足を止めると、上空から黒いものが飛来して紅彦の肩に止まった。

 杖林寺の参道は、夕暮れの中で静寂を極めていた。山門には屋根裏に菊丸が潜み、参道を上って来る紅彦を監視していた。勘九郎は参道に入る手前で、さっさと寺の方角に飛び去っていた。庫裏に入ると、弘忍と空齋がいつものように碁を打っていた。

「よう、どうした?」

 弘忍が紅彦を見た。

「なんじゃ、今日は二度目じゃぞ」

  空齋があきれた顔をした。

「誰か訪ねて来なかったか?」

「何かあったのか、ここには誰も来やしなかったぞよ」

 野太い声で弘忍が応えた。

  紅彦は霞から聞いたことを話した。

「空齋、儂が昼寝しておったときに誰か来んかったか?」

「いや、来んかったのう」

 空齋も首を捻っていた。

「そうか、考え過ぎだったか・・・」

紅彦は呟きながら盤上を見た。

「おっ、黒がここに一手置けば白は頓死じゃないか・・・」

「何、ああそれか、儂はずっと前から気がついておったが、それじゃあんまりじゃと思ってのう、空齋が気づくのを待っておったんじゃよ」

弘忍が急に元気づいた。黒石を持っているのは弘忍だが、形勢はほとんど勝ち目が無く、一か八かの勝負手を打たなければ、どう仕様もない状況になっていたのだ。

「紅彦、それはなかろう。弘忍は気づいておらんかったぞよ」

「儂の番じゃな。どう仕様かのう・・・」

弘忍がにやにやしながら、さっき紅彦が指差したところに、小気味のいい音を立てて黒石を置いた。

「全くもって紅彦のお蔭で負けてしまったではないか」

「わっはっはっはは、これで溜飲が下がったぞよ」

弘忍が破顔した。

「何事もなければ俺は帰るぞ。十分気をつけてくれ」

「今晩は泊まっていけば良いではないか」

「これからでは夜道になるで、お主の方が心配じゃのう」

空齋も横から口を挟んだ。

「いや、今晩は帰ると言ってきたから、泊まったら余計に心配するだろう」

  座布団も温まらないうちに席を立ち、紅彦は杖林寺を後にした。黄色い月が東の空に浮かんでいた。紅彦の姿がくっきりと浮かび上がり、地面に長い影を落としていた。参道は木立の中を下っており、そこは闇になっていた。そこに菊丸が老杉の梢から紅彦を監視していた。階段を下りると、その先は曲がりくねった砂利道が、下りながら平泉道まで続いている。

 平泉道と交差する辻に男が佇んでいた。

「紅彦殿とお見受けいたす」

 武家風の男が声をかけてきた。

「そうですが、どなたかな?」

  二間の距離をおいて立ち止まり、紅彦は男を見た。

「儂は竹之助と申すものじゃが、お主の命をもらいに来た」

「狙われる覚えはないが、何かの間違いではないのかな?」

「儂もお主に恨みを持つ者ではないが、命によって斬らねばならぬ」

  このとき、二人の様子を少し離れた場所から見つめている影があった。

  紅彦は無双宗綱を腰に差した。

  場所を変えるつもりなのか、無言のまま竹之助がきびすを返して先を歩いている。竹之助は宗綱の屋敷を通り過ぎ、北上川まで来ると河原に下りた。

「ここがお主の死に場所じゃな」

竹之助は太刀を抜き下段に構えた。短めの刀身は上を向きの変則的な構えだ。紅彦と竹之助の距離は三間。紅彦は腰を据えたまま、じりじりと左回りに竹之助に迫った。竹之助も左回りに動いており、紅彦が北上川を背にする態勢になった。竹之助が誘いをかけ、半歩にじり寄ったとき、紅彦の右斜め前の叢がガサついて人が倒れる気配がした。竹之助が助走無しに一間の高さに跳び上がり、紅彦の頭部を狙った一閃が月の光を浴びて鋭く走った。紅彦は一瞬左膝をつき、上体を屈めてから一気に右膝を一歩前に送り、上方を真っ向から斬り裂いた。紅彦は十分な手ごたえを感じ、二、三歩前進し、そのまま振り向きもせずに前方の叢を注視した。それと同時に、叢から鼠色の装束で身を固めた者が飛び出してきた。低い態勢で飛び出した者の覆面が、月明かりの中で黒く濡れていた。覆面の男は身を屈めたまま走り、紅彦の直前でいきなり右上方に跳躍した。その両手からは、紅彦の頭部を狙って分銅が繰り出されていた。紅彦は身を低くして右前方に走り、振り向きざまに棒手裏剣を射った。

驚くべき体術をもった敵だった。空中で一回転して棒手裏剣を躱し、着地と同時に紅彦の左手に分銅を絡めてきた。敵の分銅が右手の頭上で不気味な音を立てて振り回され、紅彦の頭部を狙っている。唸りを発して分銅が繰り出された。紅彦の首を狙ってきた分銅は、抜き打ちした無双宗綱を避け、巧みに操られて紅彦の右手首を絡め取った。敵は二本の分銅を左手一本で持ち、右手を胸に入れた。鎖は一定の緊張を保っており、少しの緩みも無かった。敵が胸から八方手裏剣を出し、紅彦を射とうと右耳の辺りに構えた瞬間、先ほど敵が潜んでいた叢から飛礫つぶてが飛んできた。飛礫は敵の左眼に命中し、目が潰れる嫌な音を立てた。そのとき、紅彦の手首に絡んでいた鎖が緩んだ。紅彦は河原の石の上を飛ぶように走り、敵の正面から横一文字に両腕の筋を切り、そのまま走り抜けた。

 覆面の男は、飛ぶようにして北上川に飛び込んで姿を消した。そしていつの間にか、深手を負った竹之助も姿を消していた。

紅彦は手首に巻きついた鎖をはずすと、くさむらの方に歩み寄った。叢が揺れ、男が立ち上がった。月明かりに照らされた精悍な顔が、照れ臭そうに微笑んでいる。

「馬鬼羅、ありがとう」

「今、秋夢が屋敷に知らせに行った」

「助かったよ」

「寺からずっと後をつけられていたぞ。あの男はここ一月ほど杖林寺を見張っていた」

 河原に数人の足音が響いた。

 秋夢の後ろから、宗綱と霞が走って来た。

「怪我は無かった?」

「紅彦殿、大丈夫であったか。また、どうしてこのような場所に・・・」

霞と宗綱が肩で息をしていた。


  一夜明けた杖林寺。

庫裏に弘忍、空齋、紅彦、霞、馬鬼羅、秋夢の六人が集まっていた。

「紅彦、昨夜の奴はどうしてお主を狙ったんじゃろうのう?」

  弘忍が太い腕を組み、首を傾げた。

「分からんが、初めから俺が狙いだったようだ。これが奴等の持ち物だ」

 紅彦が畳の上に風呂敷を投げ出した。

「ほう、これは変わった物ばかりじゃ」

 弘忍が物珍しそうに手にとって眺めた。

「これは忍びの者が持つ物だ」

 馬鬼羅が言った。

「今度の奴等は先の三人の仲間とは違うようじゃのう」

 空齋も分銅を手にとっていた。

「甲賀の者じゃ」

それまで黙っていた秋夢が断言した。

 他の五人が一斉に秋夢を見た。

「前に八溝を抜けるとき、あの男を見たことがある」

「甲賀か・・・。誰の手先じゃろうか?」

弘忍が首を捻った。

霞が興味深々の顔つきでクナイや八方手裏剣を手にしていた。

「それは毒が塗ってあるぞ」

紅彦が霞を注意した。

「敵は都じゃな・・・」

  空齋が呟いた。

「やはりのう」

  弘忍にも肯けるものがあった。

「馬鬼羅たちは陸奥に帰らればなるまい。これは儂と空齋、そして紅彦の闘いじゃからお主たちを巻き込むわけにはいかん」

  弘忍も馬鬼羅たち山窩の身を案じていた。

  馬鬼羅と秋夢は昨晩、宗綱の屋敷の客間に泊り、大変なもてなしを受けた。紅彦の命の恩人である二人を、霞も宗綱も客人として迎えたのであった。その上して、過分すぎるほどのお礼とお土産を貰い、紅彦たちと一緒に杖林寺までやって来たのだ。

「我らは一旦陸奥に帰るが、事があればいつでもまたやって来る」

馬鬼羅と秋夢は、紅彦たちに見送られながら杖林寺の裏山に消えた。

「紅彦、お主は襲われたとき、なぜ斬り殺さないんじゃ」

弘忍が紅彦を見つめた。

「・・・・・」

「弘忍様、紅彦さんはほんとうは斬りたくないのですよ」

「すまん。儂の言い方がまずかった」

「忘れていました。家から草餅を持って来たのだったわ」

「それを早く言わなきゃ、霞さんも焦<じら>らすのがなかなか上手くなったのう」

「今、お茶を入れてきましょうね」

  霞が部屋から出た。

「儂はお主の身が気がかりじゃのう」

「うむ、夜叉丸がおったらのう、あいつがおったら、敵が近づいてもすぐに分かるんじゃがのう。いかに居合の達人でも、後ろから八方手裏剣を投げられては、防ぎようがないじゃろうからのう」

弘忍が先ほどとは打って変わって、深刻そうな表情をしている。

「お主が死ねば、霞さんも自害するぞ。儂は霞さんにはずっとこの里にいてほしいんじゃよ。そういうことじゃで、紅彦は殺されてはならんのじゃよ」

弘忍が回りくどい言い方をした。

空齋が紅彦の横顔をじっと見つめていた。

「紅彦、過日お主が斬った奴等のことを調べてみたがのう、奴等は平氏の息のかかったものじゃと分かった。

 平氏もあの手を使うようでは落ちたものじゃのう」

 弘忍の声が大きかった。

「どうして平氏と分かったんだ?」

「鐘楼のところで斬った奴の懐から書物が出てきてのう、それで分かったんじゃが、   平氏はここに財宝が眠っていることは、半信半疑のようじゃった」

「では、奴等が戻らなければ、二番手が来るのではないのか?」

「いや、それはあるまいと思う。懐に銭がたんとあったから、それを持ち逃げしたと考えるのではないかな。今の平氏に根性のある奴はおるまい。欲の皮が突っ張っておるだけじゃよ」

弘忍が応えた。

「じゃあ、昨晩の奴等は何なのだ?」

「それも直に分かるじゃろう」

「弘忍は落ち着いているなあ」

「儂はあれしか失うものがないからのう。お主は命を粗末にするなよ」

部屋に入って来た霞を見て、弘忍が真顔で紅彦に言った。

「何のお話ですか?」

霞が草餅と茶を持って来た。

「おお、これは美味そうじゃのう。この寺は何もないからのう」

空齋も嬉しそうな顔をした。

「弘忍が霞さんを女人禁制から外した理由がよく分かったぞよ。弘忍の目的は何と食い物じゃったんじゃのう」

空齋が口の中に草餅を詰め込んで、もぐもぐしながら弘忍をからかった。いつの間にか、霞殿から霞さんに呼び方が変わっていた。

「うむ・・・」

 弘忍は空齋の話などお構い無しで、右手に草餅を持ち、左手には茶碗を持って夢中で食べている。

「お二人ともそんなに急いで食べなくてもまだ沢山ありますよ。弘忍様ほら、きな粉をそんなにこぼして・・・」

藤紫色の小袖を着た霞が座に加わると、艶やかな牡丹の花が開いたように、部屋の中が華やかになった。

「弘忍、提灯貸してくれ」

「お主目が悪くなったか、外はまだ明るいのにどうしたんじゃ?」

弘忍が驚いたように紅彦を見た。

「ああ、ちょっと夕霧城まで行って来る。もう一度見ておきたいんだ」

「じゃあ、私も一緒に行きます」

「その小袖じゃ無理じゃないか?」

「いいえ、草履を履けば大丈夫です」

「弘忍、提灯」

「その辺に勘九郎がおるじゃろうから、紅彦の姿を見るとくっついて行くぞよ。あやつを連れて行くと厄介じゃぞ」

提灯を渡しながら弘忍が笑った。

 作務衣姿の紅彦に、霞が寄り添うようにしていた。



2 忍び寄る影


一関の外れ、庚申山の麓にある廃屋に浪人が集まっていた。

沢郷でも田植えが始まろうとしており、庚申山の反対側にある一軒家、離散農家の廃屋など気に留める者はいなかった。奥の間といっても筵<むしろ>敷きであるが、甲賀の左馬がそこに陣取っていた。母屋には左馬のほか、甲賀下忍の蘭、野伏の首領伊藤雄之助、一番隊隊長土肥勘助、二番隊隊長千葉辰之進、三番隊隊長高橋頼蔵の六人が寝起きしており、納屋には一癖も二癖もありそうな野伏が十四人詰めていた。

「お前は儂の連絡役となり、杖林寺と野伏の双方を監視せよ。儂の指示があるまでは、決して闘いは起こすなよ」

「承知しました」

 蘭が部屋を去り、代わって伊藤雄之助が入ってきた。

「伊藤氏、襲撃は七日後とする。配下の者に軽挙は慎むように、伊藤氏から厳重に申し渡していただきたい」

 伊藤を見据えながら左馬が言った。

「承知した。じゃが、どうして七日も待っておるんじゃ?」

「七日後には月が欠ける」

 短く左馬が応えた。

「杖林寺には何人おるんじゃ?」

「坊主が二人、浪人が一人、合わせて三人しかおらん。じゃが、浪人が相当腕が立つと見ておる。油断はできん」

左馬の双眸が冷酷な光を宿していた。

「浪人一人に魂消ることはなかろう。囲んでしまえば、籠の鳥じゃて」

「儂の配下が二人消えた。杖林寺に浪人を斬りに行って戻らん。探索方も消えた。両人とも腕が立つ男だ。儂は浪人に斬られたと思っておる」

開け放された破れ障子の間から妙見山を眺め、左馬が吐き捨てるように言った。

そのとき、外が俄に騒がしくなった。左馬がゆっくりと腰を上げ、太刀を左手に掴んで庭に向った。伊藤が左馬につき従う格好となっていた。庭では、蘭が四人の野伏に囲まれていた。一番隊の荒くれどもだ。二番隊、三番隊の野伏は、にやついた顔で遠巻きにしてこれを見ていた。

「何事じゃ?」

伊藤が土肥に尋ねた。

「儂の組の者が里の方に行こうとして、蘭殿にとがめられて頭にきたらしいんじゃ」

「なぜ止めんのじゃ?」

伊藤は気のない言い方で土肥を叱咤した。

「よい、まあ見ておれ。今後のこともあるからのう」

左馬は冷たく伊藤に言い、続けて蘭に向って命じた。

「蘭、徹底的にお前の強さを見せてやれ。じゃが殺すなよ。使い物にならなくなったら困るでのう」

左馬の言葉に伊藤らが色めきたった。

「鱠にしろっ」

井川と呼ばれている男が咆えた。

喧嘩馴れしているとみえて、四人の統制がとれている。

「リャアー」

井川が品の無い気合を発し、八双から蘭の首筋を狙い、これと呼吸を合わせて裏から中原が突きを入れた。

 だが、蘭は平然と立っており、その傍らで井川が水月(鳩尾)を押さえてうめいていた。中原の繰り出す突きに、蘭は体を左に捌きながら、後頭部に左回し蹴りをなし、左方の西山の顎に左足刀を一瞬の間で行い、残った住長(すみなが)に対峙した。住長の顔に驚愕の色が走っていた。相変わらず蘭は、胸の前で腕を組んだままだった。住長が八双から上段に振りかぶった時、蘭がふわりと浮いた。その時には、住長は倒れていた。蘭は涼しげな目をして、二番隊と三番隊の野伏どもを見渡した。

「そこまでだ」

伊藤が声を出した。

「お前らが束になってもかなう相手じゃないのが分からんのか」

土肥が声を荒げた。

「奴等を介抱してやれ」

千葉が自分の隊に命じた。

蘭は何事も無かったように、納屋の横から一関道に伸びている小道に消えた。


鹿谷はすでに雪が解けていた。

黒鞘拵えにした無双宗綱を腰に差し、紅彦は霞と共に小屋に向かっていた。曲がりくねった上り坂を行くと、小屋の前で馬鬼羅が待っていた。

「やあ、しばらく」

紅彦が手を上げた。

「待っていた」

「・・・」

「野伏が集まっている」

馬鬼羅の表情が硬い。

「何処に?」

「この山の向こうだ」

「何人だ?」

「十五、六人。甲賀の忍びが二人いる」

「馬鬼羅、ここには何人連れて来た?」

「五人じゃが、もっと仲間を呼べる」

「頼まれてくれるか?」

紅彦は迷いながら馬鬼羅を見た。

「腕っ節の強い者を連れて行って、屋敷の警護をしてくれないか」

「秋夢をやろう」

「すまない。今日から頼む。霞さん、父上にこの事を話して納屋の方に寝泊まりしてもらえばいい」

「そうします」

霞が不安そうに頷いた。

「今晩杖林寺に来てくれないか」

「分かった」

馬鬼羅は軽い身のこなしで、獣道を走るように鹿谷を離れた。

「何かしら、子犬の鳴き声が聞こえたような気がするけど・・・・」

霞が小屋の方に顔を向けた。しばらくすると、また子犬の鳴き声が聞こえてきた。二人が小屋の裏に向かうと、生後二か月ぐらいの子犬が走り寄って来た。三頭走ってきたが、その内の二頭は途中で立ち止まり、警戒しているような眼をして身構えている。紅彦に向って来たのは、三頭の中で一番大きい体格をしていた。

体毛が紅を刷いたように真っ赤で、風貌や切れ長の目が夜叉丸によく似ていた。

「夜叉丸・・・」

霞が呟いた。

子犬が紅彦の足元に来て纏<まと>わりついた。子犬を抱き上げると、好奇心旺盛のその子犬は紅彦の鼻面をペロリと舐めた。

「カアー、カアー」

いつの間にやって来たのか、勘九郎が小屋の屋根に止まって紅彦を見ていた。

「ちょっと私にも抱かせて」

  甘えん坊の子犬は霞の口を舐めまくり、思わず霞を仰け反らせていた。

「カアー」

 勘九郎が小屋の裏側に降りると、代わりに小屋の陰から、夜叉丸がのっそりと姿を現した。警戒して紅彦たちに近づかなかった子犬二頭が、勢いよく小屋の方に走り去った。母犬と思える地犬と共に夜叉丸の後ろにやって来て、母犬の陰から紅彦を眺めていた。

 勘九郎が紅彦の肩に飛び移った。

「夜叉丸、しばらくぶりだなあ」

 紅彦が夜叉丸の鼻面を撫でると僅かに尾を振った。

「夜叉丸、達者だった?」

 霞が腰を下ろした。

 子犬が無双宗綱の下緒をかじっている。

「こいつはよく見ると、なかなかふてぶてしい顔つきをしているぞ。まだ子供だから茶目っ気があるけれど、度胸のある面構えをしているよ」

「やっぱり、子犬って、可愛いわ」

霞が子犬の頬を撫でた。夜叉丸は蒼く澄み切った双眸で紅彦と霞を見ていたが、くるりと踵を返すとそのまま立ち去ろうとした。子犬が夜叉丸について行こうと走り出した時、夜叉丸が子犬に向って吠えた。威嚇しているのだが、子犬は小首を傾げているだけで、夜叉丸を恐れている様子がない。子犬が動きだそうとした時、もう一度、夜叉丸が遠吠えのような悲しみを帯びた長い声で吠えた。

「おいチビ、お前はここにいろとよ」

  夜叉丸は紅彦と霞を交互に見て、小屋の裏に消えた。その後ろには、雌犬と二頭の子犬が従っていた。紅彦の肩に止まっていた勘九郎も、夜叉丸の消えた方角に飛び立った。

「こいつは夜叉丸の子だよ。勘九郎の奴が夜叉丸を連れて来たんだ。勘九郎は、夜叉丸に子供ができたのを知ってたんだなあ」

「じゃあ、この子を夜叉丸がわざわざ私たちのところに連れて来たのね?」

「ああ、多分、自分の身代わりのつもりなのだろう」

「名前をつけてあげなければ・・・」

「こいつは、阿修羅あしゅらだ」

子犬は親と別れても寂しがらず、興味深げに紅彦に纏わりついている。

「阿修羅・・・、恐そうな名前だけれど、まあいいか。おいで、阿修羅」

阿修羅が霞の作務衣の紐を齧じり出した。

「また、霞さんの仕事が増えてしまった」

「ええ、ほんと大変だわ・・・」

霞の顔がほころんでいる。


未明の庚申山麓。

野伏の一団が移動している。

伊藤は夜目が利くのか、提灯も持たずに先頭を歩いている。一団が杖林寺の参道に到着したとき、東の空が白み始めていた。一団の行動は、見事に統率されていた。山門には三番隊が見張りに立ち、杖林寺にやって来る者を阻止する作戦をとっていた。伊藤と一番隊が庫裏の表に回り、二番隊は庫裏の裏を固めた。杖林寺は静寂に包まれており、まるで人の気配が感じられなかった。山門に陽光が差したとき、山肌から一条の光が走り、三番隊の野伏が声もなく倒れた。

「作造、どうしたんじゃ?」

倒れた仲間に声をかけた男が、もんどりうって転がった。その男の胸には、深々と矢が突き刺さっていた。

「佐々木どうした、皆散れ」

高橋の怒号が境内に響き渡った。射手は逆光のため、どこに伏せているのか分からない。中村、幸長が次々に倒れ、高橋も左肩を射抜かれた。三番隊は一瞬のうちに壊滅してしまった。山門脇の岩陰に、馬鬼羅の仲間が潜んでいたのだ。野伏の一団が廃屋から動き出したのを、馬鬼羅が杖林寺に知らせたのだ。

槍を右脇に抱えた高橋頼助が庫裏に走り込んだ時には、凄まじい闘いが始まっていた。一番隊は、紅彦が動くたびに隊の者が斬り倒されていた。無双宗綱は、一人斬るたびに納刀された。井川、中原、住長は、一刀で腕を半ば斬り裂かれていた。

伊藤の顔に焦りが見えた。紅彦の流麗な太刀捌きは、幾多の闘いで実戦剣法を身につけた恐いもの知らずの荒くれどもの心胆を寒からしめていた。土肥勘助が凄まじい気合を発して、袈裟に斬り下した。同時に、後方から西山が脇構えから胴を薙<な>いだ。紅彦は土肥の身体を掻い潜り、月影で両手首の骨を断ち斬り、そのまま跳び上がり、後方に無双宗綱を一閃した。西山の腕が斬り落とされ、鈍い音を立てて地面に落下した。振り向きざまに、土肥の脇腹から胸を斬り上げていた。

 紅彦は、伊藤と対峙した。

 庫裏の裏では、怒号が沸き起こっている。伊藤の額から汗が滴り落ちている。刀術に長けていた土肥が、稚児の手を捻るようにいとも簡単に斬られてしまったので、伊藤の双眸には恐怖の色が浮かんでいた。

「キエーイ」

甲高い気合を発して、伊藤が八双から斬りつけてきた。見せ太刀だ。伊藤が斬り下ろした態勢から、双手で鋭い突きを入れてきた瞬間、紅彦は体を捌いて伊藤の左脇を擦り抜けた。伊藤の剛剣の柄には、肩口から切断された左腕がぶら下がり、重そうに揺れている。伊藤の双眸には絶望感が現れていた。上体をふらつかせながら、右手の突きを入れてきた伊藤の暗い双眸は、最早死ぬ以外に途が残されていないことを悟っていた。

弘忍と空齋は、共に二人の野伏を相手にしていた。短槍を持った千葉辰之進が、弘忍を追い詰めていた。

 空齋は、左右から二人の野伏にじわじわと迫られていた。紅彦は弘忍と対峙している短槍の男の背後に回り、そして無言の気合を発した。

「隊長、後ろじゃ」

「おうーっ、六兵衛こっちは任せたぞ」

大柄の六兵衛は三尺近い太刀を軽々と振っているが、体格は弘忍と五分だ。紅彦は意識して後退をしていた。千葉も百戦錬磨の足捌きで、槍を縦横無尽に繰り出して来る。槍の断面は三角形をしている。刃は片刃造りであり、横に薙いだときに物を断ち切る鋭さを持っている。紅彦は依然として左手で鞘を握り、鯉口を切ったまま、右手はだらりと下げていた。紅彦の上体はゆらゆらと揺れており、半眼の目付けは茫洋として捕らえどころがない。

「ウォー・・・」

凄まじい絶叫を残し、弘忍に斬られた六兵衛が倒れた。

 胴が半ば切断されていた。

 弘忍は空齋の下に走った。空齋が苦戦している。杖の両端がめまぐるしく回転し、野伏が振り下ろす太刀を撥ね返しているが、刃に削られた杖がささくれ立っている。

「いざ、見参」

「左内、後ろだ」

「あいや分かった、諸田こっちは任せた」

弘忍の寸伸びの太刀が、唸りを上げて左内の上段に振り下ろされた。佐内は太刀の鎬で弘忍の刃を受けたつもりだったが、弘忍の馬鹿力は佐内の首を半ば切断してしまった。このとき、空齋の杖が切断され、諸田の太刀が空齋の右肩に振り下ろされた。

「くうさい・・・」

弘忍の野太い声が冠山に木魂した。空齋は杖の端切れを握ったまま、右斜め前方に飛び込むような格好で二回転し、そのまま後方に滑るように下がった。弘忍が二人の間に割って入り、怒りを露にした顔つきで諸田に対峙した。諸田の構えが正眼になった。

 紅彦はゆらゆらと立っており、その双眸は半眼となり、千葉を包み込んでいた。千葉の呼吸が荒くなっている。紅彦がゆらゆらと千葉に近づいていく。千葉は紅彦が進む距離だけ、後ろに下がっている。今、杖林寺の境内で戦っているのは、この二組だけになっていた。この闘いを、馬鬼羅たち山窩が腕組みをして、遠巻きに見つめている。さらにもう一つ、これを見つめている冷酷な眼があった。それは、見る者を凍りつかせるような光を内に宿していた。

紅彦が動いた。

滑るように、千葉の右に寄っていた。千葉が槍の穂先を僅かに下げ、鋭い突きを繰り出した。紅彦は体を左に裁き、抜打ちで槍のけら首を斬り落とした。千葉は槍を捨て、太刀を抜いた。紅彦はその一瞬を見逃さなかった。無双宗綱が閃き、千葉の右手首が一皮残してだらりとぶら下がった。

「手当てしろよ」

「・・・・・」

「トオーッ」

弘忍の激しい気合が境内を揺るがせた。諸田が左に回り、それに従って弘忍が左に位置を変えている。空齋はいつの間に取って来たのか、錫杖を手にしていた。

「ターッ」

諸田が弘忍の気合に応えた。弘忍は八双から下段に構えを変えて諸田を誘った。諸田が太刀を八双に高く構えた。弘忍の太刀が鋭く動き、諸田の右太股が斬り裂かれた。諸田の太刀は、弘忍の右腕をかすめていた。

「エーイ」

弘忍が鋭い気合を発した。左上段から振り下ろされた太刀は、諸田の太刀を両断し、右胸から左脇腹を切りいていた。

「怪我は無かったか?」

片膝をつき、肩で大きな息をしている弘忍に近づき、空齋が心配そうに声をかけた。

「おう、かすり傷じゃよ」

喘ぎながら応えた弘忍が紅彦を見た。紅彦は三間の距離を置き、千葉と対峙していた。無双宗綱はすでに鞘の中に収まっており、両手をだらりと下げたままの紅彦が、何事かを話していた。千葉は柄にぶら下がっている右手首をもぎりとって、横に投げ捨て紅彦を睨んでいる。目が釣り上がり、最早常軌を失った形相となっていた。

「もう止めたらどうだ」

「りゃーっ」

怪鳥のような声を発し、千葉が左手で太刀を右肩に担いで紅彦に迫っている。紅彦はその位置で待っていた。

 千葉が走り寄る。

「キエーイ」

千葉が渾身の力を振るって、最後の一太刀を振った。紅彦の体がわずかに沈み、無言の抜打ちが千葉を襲った。同時に見えた動きは、僅かに紅彦の方が速かった。千葉は左腕を半ば切断され、峰を返した無双宗綱で首を打たれていた。

馬鬼羅が紅彦のところに歩み寄って来た。

「野伏はこれで全員かな?」

「甲賀がいない」

「甲賀の者は何人だ?」

「二人」

弘忍と空齋が近づいて来た。

「弘忍、どうした?」

右腕に巻いた晒から血が滲んでいた。

「おお、かすり傷じゃよ」

弘忍が豪快に笑った。

「紅彦、怪我は無かったかのう?」

空齋が間延びしたような声を出した。

「ああ、大丈夫だ」

「我らが無事にいられるのは、馬鬼羅のお陰じゃのう」

弘忍が山窩たちに頭を下げた。

「弘忍、俺は屋敷に戻る」

紅彦は踵を返し、境内を離れた。弘忍と空齋は、紅彦の後ろ姿を見送り、疲れた足取りで庫裏に向った。


陽は中天に到ろうとしていた。

庚申山の麓にある廃屋では、源海、左馬、蘭の三人が顔を突き合わせていた。杖林寺襲撃の日、源海がやって来たのだ。

「左馬、我らには失敗は許されない。今後のことを話しておこう」

源海の顔が苦渋に満ちていた。

「源海様、申し訳ございませんでした。山窩の動きが分からなかったのは、儂の責任でございます」

左馬が声を落とした。

「もうよい」

「財宝は移されておらんじゃろうのう?」

 うな垂れている蘭に、源海が問いかけた。

「財宝は城の中には無く、洞窟の壁が新しくなっている個所に隠匿しております」

「源海様、思っていた以上に奴等は手強い遣い手です。とくに、紅彦という奴が刀術に長けており、邪魔な存在でござります」

左馬は杖林寺境内での闘いを源海にその模様を簡潔に報告した。

「奇妙な男よのう」

源海が小首を傾げた。

「源海様、紅彦には弱点がございます」

左馬が以前から考えていたことを言った。

「どんなことじゃ?」

「紅彦は、霞という宗綱の娘と暮らしております。霞を人質に取れば紅彦を斬ることはた易いことでございます。屋敷を襲って霞を誘拐してよろしゅうございますか。屋敷には山窩が詰めておりますが、奴等はどうということはございません」

「たわけ、それでは財宝を手にしても事が公になり、我らは都に帰れなくなるじゃろう。決して里の者には手を出すでない」

源海が険しい眼で睨んだ。

「承知仕りました」

「よし、それでは今後の計画を言おう」

左馬と蘭が源海の方に膝を進めた。

「杖林寺から弘忍が消えると沢郷が騒ぎになる。これは絶対に避けねばならぬことじゃ。そこでじゃ、杖林寺を襲い、弘忍と空齋を縛り上げろ。お前らの腕が問われるところじゃな。二人が手向かうときは、片腕ぐらいへし折ってもかまわん。じゃが、殺してはならん。蘭が手筈をつけ、闇に乗じて財宝を運ばせろ。場所は鎌倉の建徳寺じゃ。後始末はきっちりとつけておけ。当然のことじゃが、荷駄は安倍から都への献上物とすることじゃぞ」

  源海が一息入れてから続けた。

「建徳寺には甲賀の衆が来る。荷駄の半分は藤林に運び込む。二人は甲賀への道中を護衛しろ。里に戻ったら棟梁の命に従え。儂は都へ届けたら、その後はまた比叡の山に戻る。二人とも分かったじゃろうな。二度と失敗は許されんぞ」

「承知仕りました」

  左馬と蘭が深々と頭を下げた。源海は立ち上がり、破れ障子を開けて妙見山を眺めた。

上空に数羽の烏が舞っていた。

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