ニ  錦繍の山野で

1 杖林寺


沢郷一帯は夏を迎えて、田の稲は腰ほどの高さに育っていた。   

冠山の中腹、杖林寺の庫裏で空齋が大男の僧侶と向かい合っていた。僧になる前は名のある武将であったと言われているが、このことをつまびらかに知る者はいない。

「空齋よ、今度はどれくらいの期間滞在するのかな?」

「ひと月ぐらいおるぞ。ここを根城にして、平泉の中尊寺、胆沢の黒石寺まで足を伸ばすつもりじゃで。弘忍よ、先だって置いていった顔真卿がんしんけいはどこまでいったかのう。弘忍は祭姪稿さいてつこうより多宝塔碑たほうとうのひの方が性に合っておるじゃろうのう。弘忍の気性からいくと、王羲之おうぎしの書風は生ぬるくて嫌になるじゃろうと思うがどうじゃな?」

「ああ、羲之は揚子江の豊かな田園地帯の官僚じゃからのう。蘭亭序らんていのじょは見る気も起こらんわ。それにひきかえ顔真卿はいい。まさに雄大な唐の国を馬に乗って駆け回った骨太の武人の書じゃな。儂はどうしても宮廷お抱えの欧陽詢おうようじゅん九成宮醴泉銘きゅうせいきゅうれいせんのめいは綺麗事過ぎて尻がこそばゆいぞ」

「弘忍の尻でも痒くなることがあるかえ。儂は、お前のように無骨ではないでなあ。儂は今、懐素かいそ自叙帖じじょちょうをやっておるじゃよ。張旭ちょうきょく肚痛帖とつうちょうは儂には少々激し過ぎるようで駄目じゃのう」

「ああ、懐素のう。あの坊主の書か。あれは、狂ったように草書が連綿と続いておるのう。ああいう軽妙な書風が空齋にあっておるんじゃろうて・・・」

「弘忍よ。実はのう、儂の同門に源海という坊主がここを訪ねてくることになっておるんじゃが、二、三日泊めてもらってもええかのう?」

 空齋が多少遠慮気味に切り出した。

「ああ、ここは儂一人しかおらんので一向にかまわんぞ」

「すまんのう。ところで、沢に橘の宗綱様がおるじゃろう。そこに変わった男が迷い込んだそうじゃよ。聞くところによると何でも、宗綱様の娘御の霞殿が随分と面倒を見ているという話じゃ」

「どんな男かのう。一度会ってみたいもんじゃのう・・・」

「弘忍、お前、先だって宗綱様のところで法事をしたじゃろう。そのときその男とは会わんかったかいのう」

空齋は美鈴母子を思い出しながら言った。

「ふーん、霞殿の姉とその子供には会ったがそんな男はおらんかったぞ。じゃが、そんな男がおるとはのう

・・・」

「弘忍、お前、坊主のくせに霞殿に懸想けそうしておるんじゃなかろうな。ところで、その男じゃが、ここにやって来る前のことは何にも覚えていないということじゃよ」

「ふうん。奇怪な話じゃのう・・・。ところで空齋、お主腕は上がったか。伊達に放浪しておるわけではあるまい」

「あのなあ、儂はお前のように年がら年中暇な奴とは違って忙しい身でなあ。そうそう囲碁を打っておるわけにゃあいかんのよ。しかし、お前より腕は上じゃろうて。どれどれ仕方がない、一局打ってやるかのう」

「抜かしたな。きょうは、グウの音も出せんほど叩きのめして進ぜよう」

二人は戯言ざれごとを言い合いながら、静かな境内に石音を響かせていた。

その頃、源海が軽やかな足取りで峠を越え、杖林寺を目指していた。多賀城を経て、奥州一関街道に入って来たのだ。峠を越えようとした源海は、そこで粗末な茶店に寄った。

「婆さん、茶と団子をおくれ」

源海は饅頭笠を縁台の傍らに置き、襟をくつろげて峠の涼風を入れた。茶店には下僕を伴った商人風の客が奥の土間にいた。

「婆さん、杖林寺はまだまだずーっと先かいのう?」

「なんの、なんの。もうちょっとじゃ。この道を下れば、あっという間に着いてしまうがいの。お坊様は、どちらから来なされましたかいのう?」

腰の曲がった婆さんは、頭に被った手ぬぐいを直しながら源海を見た。

「京の比叡山からやって来たんじゃ。杖林寺の弘忍は元気かいのう。これから訪ねて行くんじゃが・・・」

「えらい遠くから来なさったんじゃのう。弘忍様は、あのとおりの立派な体をしておられるけのう、いたって元気じゃわ。病気ひとつしとらんのじゃないかのう」

粗雑のように見える弘忍だが、里の人たちに好かれているのだ。

「婆さん、拙僧はこの里は初めてじゃが、何か変わったことは起きておらんかのう?」

「そうじゃのう。こんな小さなところじゃ、猫が赤ん坊を生んでもすぐ知れ渡るが、ここんとこは何にも無かったがのう・・・」

「そうかいのう。では、馳走になった」

 源海は勘定を払うと、軽やかな足取りで峠を下った。空には積乱雲がもくもくと湧き上がり、遠くで雷鳴がとどろいていた。

その日、夜も更けた杖林寺境内に黒い影が過ぎった。境内は清水の滴り落ちる音が闇に木霊し、静寂を一層深いものにしていた。杖林寺は質素な佇まいをしているが、寺の敷地は広く、鐘楼には百年の時を経た小ぶりの梵鐘が下がっている。

冠山一帯には、かつて蝦夷の民が住んでいたとの言い伝えがあった。本堂の建っているところが平坦になっているが、敷地全体は緩やかに傾斜している。清水の脇には、石で造られた地蔵菩薩が立っており、その裏には人がやっと入れる洞窟が口を開けていた。それは、入り口から数歩のところで右に曲がっており、どれくらいの深さがあるのかようとして分からない闇が続いている。

境内は深い闇に包まれていた。

その闇に微かな物音がした。

洞窟から龕燈がんどうの火影が揺らめき、大男が腰を屈めて姿を現した。全身黒づくめの姿は、深い闇に溶け込んでいた。大男は辺りの様子を窺うと、庫裏の客室を一瞥いちべつし、足音も無く姿を消した。

寺の朝は早い。まだ夜も充分明けないうちに、勤行が始まる。だが、杖林寺の弘忍は、朝寝坊を決め込むことが多かった。一人住まいの弘忍には、何の気兼ねをするものがなかった。

「おお、ようやく起きたか。朝飯の仕度をしておいたぞよ」

空齋があきれたように言った。

「すまんのう。きょうは、客人がおられるので早く起きようと思ったんじゃが、いつもの癖は直らんもんじゃのう」

弘忍は悪びれた様子も見せずに、しゃあしゃあとして、大きな伸びをひとつしてから板敷きの居間に入った。

「源海殿、申し訳なかった。いつもならとうに起きているのじゃが、時期はずれの風邪で寝坊してしもうて・・・」

 空齋が隣で笑っていた。

「空齋、今朝は馳走じゃのう。ところで源海殿、都の方はいかがでござろうか。羅城門界隈は、風の噂では目を覆いたくなるようなことが起こっておるらしいのう」

「道隆様がお亡くなりになられた後、次々といろんなことが起きておる。羅城門には夜のうちに屍体が投げられていることが多くなった。都大路の西側は夜盗が出ており、物騒なことになっておる」

源海はやや俯き加減のまま、小首を傾げながら応えた。

「僧侶に出自を尋ねるのもなんじゃが、源海殿はどちらのお生まれかな?」

「拙僧は大和の国の出で、十八の歳に出家いたしました。その後は、比叡山横川の恵心院で源信様に得度していただき、それからずっと修行に明け暮れておりました」

「ほほう、大和の国でござるか。ところで、こちらではどの辺りを回られるのかな?」

「今回は恵心院の使いで、黒石寺や中尊寺に参りました。同門の空齋がここに滞在していると聞きましたので、足を伸ばして厚かましくやって来ました」

「おお、そうであったかいのう。ここは破れ寺じゃが、儂一人しかおらんのでゆっくりされるとよかろう」

「ありがとうございます。当初、二、三日滞在させていただく予定でおりましたが、恵心院に早く戻らなければならなくなりました。きょうの昼頃までには、胆沢に入りたいと考えておりますので、朝餉を済ませたらここを立つつもりでおります」

「源海、そうそう早く出立せんでもいいじゃろう。せっかくここまで足を伸ばしたんじゃから、もう一泊せんかい」

「うむ・・・。そうしたいのはやまやまじゃが、そうもしてはおられんのじゃよ」

「そうか。残念じゃのう」

 空齋が心底寂しそうな顔をした。

  朝食を済ませた源海は、軽やかな足取りで杖林寺の山門を出て行った。

「さあて、儂もその辺を回って来るぞや。ついでに沢郷まで行って、霞殿の様子でも見てくるかいのう。お前も心配じゃろうて。どこの馬の骨とも分からん奴と親しくされたら、せっかく仏門に入ったお前の心をかき乱す恐れがあるからのう。ところで、今朝のお前はちょっとおかしかったぞ。何ぞ、源海に含むところがあったのかいのう。お前らしくなかったぞよ」

「戯言も休み休み言え。霞殿は宗綱様の大事な娘御だ。粗末なことはできまいぞ。それから源海のことじゃが、何とのう、儂とは肌が合わん気がしたのでのう」

空齋が出かけた後の杖林寺に静寂が戻り、弘忍は珍しく沈痛な面持ちで経机に向かい、綴帳つづりちょうに黙々と筆を走らせていた。

昼下がりの境内は蝉時雨が降り注ぎ、庫裏で惰眠を貪る弘忍を古の夢の中に誘い、短い奥州の陽は西に傾いていた。


奥州の夏は足が速い。

道端の叢には、薄の穂の白さが仄かに目につくようになってきている。

紅彦は冠山の麓を歩いていた。左手には籐巻き漆塗りの仕込杖、二尺二寸の無双宗綱を携えている。霞と夜叉丸が少し遅れぎみについて来る。昨年、鬼魅から受けた夜叉丸の胸の傷はすっかり回復しており、以前にも増して周りを圧倒する気迫が漲っている。 風呂敷を抱えた霞は黒髪を後ろで束ね、萌黄色もえぎいろの着物がよく似合っていた。

今日は、杖林寺の弘忍と囲碁を打ちに行く紅彦について来たのだ。杖林寺は、沢郷から平泉に向う途中の冠山の中腹にある。山号を遊霧山という。構えは質素であるが古刹である。本堂は中尊寺とほぼ時を同じくして、鎮守府将軍藤原利仁によって建立されたと伝えられている。

 平泉道を右に折れ、なだらかに続く小道を登ると、途中から石段になる。左右には楓や漆などの雑木が無秩序に生えており、秋には紅葉が美しかった。石段を登りきると唐風の山門がある。

二人が境内に入ると、弘忍は上半身をはだけて、汗だくで庭の草むしりをしているところだった。

「よお、遅かったではないか。どこで道草を食っておった?」

「すみません。葛きりを作るのに手間取ってしまいまして・・・。それに、弘忍様、道草などしておりませんよ。ねえ、紅彦殿・・・。変なことをいうと、今日は葛きりを召し上がれませんよ、弘忍様」

杖林寺は女人禁制であったが、霞は別格の扱いをされていた。

「いやあ、参った。霞殿、怒ってはいかんぞ。愚僧はこの紅彦に言ったのじゃぞ。早まってはいかんぞ。これ、紅彦も何とか言え」

弘忍は男臭い面構えなのに下戸であり、甘い物には目が無かった。

「さあ、庫裏に上がろうや」

「やや、これ紅彦、愚僧がこの寺の主人じゃぞ。その言<げん>は愚僧が言うことじゃぞ。さあ上がろう。霞殿、茶を入れてくださらんかのう。それと、その何じゃ、それものう・・・」

「弘忍様は、いつもお子のようなことばかりおっしゃって・・・」

霞がくすくすと笑っていた。


初夏の庚申山。

山頂附近は大きな岩が点々と露出し、その岩を押し包むように赤松やならくぬぎなどの雑木が鬱蒼としていた。この辺りは秋になると松茸などが沢山とれる。霞が茸を採っている傍らで、紅彦は夜叉丸と戯れていた。

「もう沢山採れたんじゃないの?」

「もっと採らないと・・・。下の方へ行きましょう」

「よし、俺が籠を背負う」

「もう少し採れば、籠いっぱいになります。塩漬けにしておけば長い間保存できるので、今採っておかない

と・・・」

「俺も手伝おうか?」

「いや、結構ですよ。夜叉丸の相手をしていてください。毒茸を採ってしまっては、それこそ大ごとですから・・・」

 急斜面を下りながら冠山が見えるところまで下りると、いつの間にか籠の中は茸で一杯になっていた。

「お腹がすいたでしょう。お昼にいたしましょう。家の方は弥吉にまかせてきましたので、今日はゆっくりできます。この先の方に、湧き水が出ているところがありますので、そこで休みましょう」

額の汗を拭いながら紅彦に声をかけた。

しばらく歩いていくと、岩肌から水が湧き出している場所があった。

「紅彦殿、汗でびっしょりですよ。背中を拭きますから上着を脱いでください」

霞は手拭いを湧き水に浸して固く絞った。 傍らでは夜叉丸が、ぺちゃ、ぺちゃと音を立ててうまそうに喉を潤している。

「グルルル・・・」

突然、夜叉丸が薮の中に続く小道に向かって威嚇した。

「ちょっと待った。怪しい者ではないぞや。待った、待った」

薮の中から小柄な僧侶が姿を現した。饅頭笠を被り、右手に錫杖を持っている。

「待った、待った。拙僧は空齋というものじゃ。この湧き水はうまいでな、ここを通るたびに飲むことにしておるんじゃ。おお、二人で茸採りかえ。おっと、そこにも大きいのが一匹おった」

「あら、空齋様でしたか?」

「おお、霞殿か、久しぶりであったのう。おおっと、そっちの大きいのは、儂を喰いそうな顔をしとるぞ」

空齋が夜叉丸を指差した。

「お戯れを・・・。空齋様、お昼がまだでしたらご一緒にいかがですか。沢山もってまいりましたので、どうぞ」

「お邪魔じゃないかな。でも、せっかくのお誘いじゃ、遠慮は禁物じゃな。では、さっそくいただくとするか」

空齋はまだ用意もできていないのに、さっさと岩に腰を下ろした。

「背中拭きは切り上げじゃぞ。ところで、宗綱様のところに記憶を無くした男が世話になっていると聞いたことがあるが、ひょっとしてお主のことかな?」

「空齋様は地獄耳でございますね。どこでそのようなことをお聞きになられましたのでございますか?」

「ほお・・・。これは馳走じゃなあ。遠慮なくいただくぞ」

空齋はさらりと受流した。

夜叉丸は、霞の側で岩魚の燻製を夢中でかじっているが、耳だけは時折微かな動きをさせていた。

「霞殿は、杖林寺の弘忍を知っておるじゃろう。あいつは、面白い奴じゃぞ。一度、紅彦殿をお連れしてみてはどうかな。紅彦殿はここに友人もいないようだし、霞殿とばかりおったら、気が滅入るじゃろうて。わっはっはは・・・。冗談じゃよ」

「でも、空齋様。杖林寺は女人禁制の筈でございますよ」

「ああ、そうじゃよ。じゃが、構わんぞ。あそこは橘家をおろそかにはしまい。それに霞殿が行けば歓迎されるかもしれんぞ」

二人の会話を余所に、紅彦は手ごろな石を枕にして転寝をしていた。


杖林寺は静寂に包まれていた。

碁石を置く音だけが、この寺に人のいることを知らせている。

「くそっ・・・。愚僧がいつもやられてしまうのは、二人がかりで来られるからだぞ。霞殿、紅彦からもう少し離れなさい」

「弘忍様、また負けたのですか?」

「またとはなんだ、口が悪い。紅彦めは、少し手加減すると、すぐに頭<ず>にのるから始末が悪いのう」

「弘忍の碁は正直だから・・・」

「そうじゃ。世誉はおもうに足らず、唯、仁を紀綱と為すじゃ」

「なにそれは・・・。弘忍様の負け惜しみかしら?」

 霞が笑った。

「愚僧はじゃのう、いつも紅彦に布施をしとるんじゃが、こいつには慈悲というものがないんじゃよ」

「まあ、お坊さんがお布施するなんて、珍しゅうございますねえ」

「うほん、それが御仏の心じゃのう」

 弘忍は霞との軽い会話が好きなのだ。

「霞さん、帰りにこの上にある観音岩の洞窟を見に行こう。百年以上前に慈覚大師円仁が篭ったというところだ」

「はい。私もまだ行ったことがないので、ご一緒します」

「それはまずいぞ。二人だけで行くと、仏罰が当たるかもしれんぞ。儂が先導せねばなるまい。それがいい」

弘忍は難癖をつけて、どうしても二人について行くことにしてしまった。

岩肌が露出し、石ころだらけの坂道を、大男の弘忍が荒縄を肩にかけて登って行く。その後ろから霞と夜叉丸が、そして随分離れて紅彦が登っていた。

冠山の中腹にある杖林寺から更に上の方に来ると、この辺りは下界より一足先に木の葉が色づき始めていた。

「おーい、紅彦。早くせんか」

 弘忍が急斜面のところで待っている。

「霞殿、彼奴は何をもたもたしておるのかいのう。おい夜叉丸、早く連れてこい」

「弘忍様、紅彦殿は山の景色を見るのが好きなのです。少し待ってあげましょう」

「霞殿は紅彦のことになると、やけに優しくなるのう」

紅彦が二人に追いついた。

「早くせんと日が暮れるぞ。お主ら二人が戻らねば宗綱様が心配されるじゃろう。観音岩の洞窟はこの上にある。この急な岩場を登らねばならんのじゃが、霞殿にはちくと険し過ぎるでなあ。儂がまず登って、この紐を下にたらそう。そしたら、お主が霞殿を介助して上がって来い」

言い終ると、弘忍は身軽に岩場を登り、間もなく荒縄が落ちてきた。

「何をやっておる。早く上がって来い」

上から野太い声が落ちてきた。

「分かった。今行くから、上で霞さんを受け取ってくれ」

後ろから霞を抱きかかえるようにして、紅彦は岩場を登った。

「霞殿、儂の手につかまれ」

熊のようなごつい腕が差し出された。

「弘忍様、観音山のずーっと向こうに見えるのが平泉でございますね。ここから眺めると人間なんて随分小さなものなんですね。私たちは地べたに張りついたように暮らしているのですねえ・・・・」

霞は頬を朱に染めていた。

「きょうは霞殿が一段と美しいのう。まるで揚柳観音の生まれ変わりのようじゃ」

「弘忍様はお口がお上手ですねえ・・・」

霞が照れながら弘忍を軽く睨んだ。

登り切ると、そこは六畳間ぐらいの平坦なスペースがあり、その奥には洞窟が口を開けていた。いつの間に上がっていたのか、三人と並んで夜叉丸が洞窟に入って来た。中は八畳間が二つほど繋がったほどの広さで、奥の方に腰ほどの高さの平らな岩が一つあった。

 松明をかざして見ると、奥の岩肌に観世音菩薩が浮き彫りになっていた。円空仏のような荒いタッチでのみが激しく、そして深く走っている。

「大師様は、ここで修行なさっていたのでございますね。風の音や鳥の鳴き声しか無い寂しいところですねえ・・・」

霞が呟いた。

「あれえ、紅彦はどこへ行った?」

「今しがたまでここにいましたのに、どこへ行ったのかしら・・・」

霞と弘忍が洞窟を出ると、先ほど霞が佇んだところに紅彦が腰を下ろし、庚申山を眺めていた。その隣に夜叉丸が寄り添っていた。

「霞殿、気をつけないと夜叉丸に紅彦をとられてしまうぞよ」

「弘忍様は戯れ言ばかり言って・・・」

「紅彦、間もなく日が落ちるぞ。暗くなっては、儂でも山道は危ないでのう」

山里は夕闇が迫ってくるのが早い。

西の空が朱に染まっていた。

三人は、下りの山道を急いだが、杖林寺に辿り着く頃には、辺り一面がすっかり暗くなってしまった。

「霞殿をここに泊める訳にはいかんしのう。寺の提灯を持って行け。じゃが、返すときには、霞殿の手料理を一緒に持って来なければいかんぞよ」

弘忍の軽口を後にして、紅彦と霞は夜叉丸を伴って帰路を急いだ。ここには月の輪熊や狼が生息しているが、ここの獣たちはあの鬼魅を除いては、夜叉丸の恐ろしさを知っている。夜叉丸だと分かっていて襲ってくるものはいない。

「父上や弥吉が心配しているだろう」

「でも、紅彦殿も一緒だから安心しておりますでしょう。それに何事かあれば夜叉丸が家に走るでしょうから・・・・」

庚申山の方から狼の遠吠えが聞こえた。

時折、夜叉丸が後ろを振返って、二人を確認している。

「私は紅彦殿がふっと消えて、元の世に戻ってしまう夢を時々見るのです」

霞は躊躇いがちに呟き、柔らかな胸を紅彦の腕に押しつけてきた。



鹿谷ししだに


庚申山の頂<いただき>に紅彦と夜叉丸が立っている。

頂には小さな祠<ほこら>がある。その中には、慈覚大師が冠山に杖林寺を建立する際、裏鬼門に当たるここに立ち寄り、不動明王像をまつったと伝えられている。ここから一望する庚申山は、錦を敷き詰めたように鮮やかな色に染まっていた。

「鹿谷に本拠地を移すか・・・」

夜叉丸が紅彦を仰ぎ見た。

鹿谷は庚申山の中腹にある。紅彦が迷い込んだ台地から、更に南側の斜面を登っていくと渓流に突き当たる。その渓流をさかのぼると、やがて右側に猫の額ぐらいの僅かばかりの平坦な場所がある。その辺りの露出した岩には岩塩が含まれており、鹿や猪、熊などの獣が塩を求めてやって来るのだ。すぐ近くには温泉が湧き出ており、その辺り一帯の斜面には、庚申山を伏流してきた清水が湧き出していた。紅彦が根城にしようとしたのは、鹿谷の小さな炭焼き小屋であった。

紅彦は昼下がりの林道を抜け、宗綱の屋敷に戻った。

「宗綱殿、鹿谷にある炭焼き小屋は誰が使っているものか、ご存じですか?」

「鹿谷の・・・、おお、あれは儂の家のものじゃが、随分と使ってはおらぬぞ。あれがどうかしたかのう」

「どおりで荒れ果てていたんだ」

「あそこに行きなされたか?」

宗綱が庚申山の方角を見た。

「あの小屋ですが、あれを私が使ってもよろしいでしょうか?」

「あの小屋を?」

「はい」

「あそこで何をするつもりなんじゃな?」

いぶかしそうな顔で宗綱が紅彦を見た。

かんざしを造りながら、自分の頭の中を整理してみようと思います」

「簪とな?」

「はい、私はずっと以前に簪を造っていたような気がします。それで、少しでも思い出せれば・・・」

「ふーむ、じゃが、あのままじゃどう仕様もないじゃろう。簪を造るのであれば、ここで仕事をすればいいじゃろう」

「小鳥の声や風の音を聞きながら仕事をしてみようと思います」

「分かった。じゃが、せめて雨漏りぐらいは直さねばならんじゃろうから、五、六日待ってくれんか」


鹿谷の小屋を改修している頃、杖林寺に賊が押し入った。未明に境内を行く影が二つ、真っ直ぐ本堂を目指していた。そのとき、本堂横の大公孫樹の洞に巣くっているふくろうが、一際大きな声で啼いた。

影は重い引き戸を開け、音もなく本堂に上がり、身軽な動きで本尊の薬師如来像の裏に回り、台座を隈無く探り、左足の踵に隠されていた一枚の紙片を見つけた。

黒い影が夜明け間近に杖林寺の山門を抜けようとしたとき、足早に参道を登ってくる馬鬼羅と遭遇した。その途端、黒い影は左右に跳び、一瞬にして馬鬼羅の視界から消えた。馬鬼羅は躊躇うことなく、右手の黒い影を追った。それは、獣のようにしなやかな動きで、樹間を疾走して東に向かった。馬鬼羅の手から礫<つぶて>が放たれた。黒い影は身を沈めてから、驚くほどの跳躍を見せ、砂鉄川の川原に着地した。

闇が白み始めてきた。

東雲しののめの川原に朝霧が薄く立ちこめ、それは対峙した二人の間をゆるやかに流れた。黒い布で顔を覆った男は無言で馬鬼羅を見つめ、いきなり十字手裏剣を放った。間髪をおかず、馬鬼羅が手にしたウメガイが一振りされ、十字手裏剣は後方の薄が原に飛び去った。

暁光が二人の姿を露わにした。

忍びの者の双眸に驚愕の色が走り、立て続けに十字手裏剣を放った。馬鬼羅がこれを防御した隙に、忍びの者は薄が原を駆け抜け、川原に隣接した竹林に逃げ込んだ。 一瞬遅れて、馬鬼羅が後を追った。


庚申山の木立は静かに冬への装いを整え、あれほどまでに鮮やかだった紅葉が、一枚一枚静かに葉を落としている。

鹿谷の小屋が改修された。

小屋に人が住み着くようになると、山の獣たちは静かになった。しょっちゅう夜叉丸がやって来て、紅彦の周りを動き回ることも影響しているのだ。夜叉丸はそれを尻目に足繁く、屋敷と鹿谷を往復していた。

小屋に移って一週間が過ぎた。

紅彦が外で炊事をしていると、枯れ木を踏む音がして、やがて下の方から聞き覚えのある話し声が耳に届いてきた。

「てっきり留守かと思ってたのに、煙が見えたのでびっくりしました」

霞が弥吉と次郎太を従えてやって来た。

「もう野菜や塩がなくなる頃かと思い、運んで来たのですよ」

 今日の霞は草色の作務衣を着ていた。

「次郎太さん、仕事は大丈夫なのですか。いまは忙しい時期でしょう」

「いやあ、次郎太は、お嬢様のお供をして、ここに来るのが楽しみなんでがんすよ」

  横合いから弥吉が口を挟んだ。

「お師匠様に内緒で手裏剣を二十本造って持って来たんじゃ」

  次郎太が恥じらいを浮かべ、懐から布に包んだ棒手裏剣を紅彦に渡した。

「私も手裏剣を習おうかしら?」

「お嬢様には無理じゃろう」

「これ次郎太、口が過ぎるぞよ」

  律儀な弥吉が次郎太をたしなめた。

「いい匂いがすると思ったら、紅彦殿がこれを作ったのですか。でも、この茸汁大丈夫かしら?」

霞が鉄鍋を覗き込んだ。

「どれ・・・。これはうまそうじゃ。弥吉さんも一緒に食うべや」

若い次郎太は遠慮がない。

紅彦を囲み、騒々しい昼食となった。

その頃、宗綱の火事場では、三組に別れて作業に熱が入っていた。宗綱が苦労しているのを見かねて、兄弟子の喜平次が手伝いを申し出たのだ。宗綱と喜平次が額を寄せて棒弓の工夫について談合しており、その横では丈作が一尺五寸の矢竹を火に炙<あぶ>り、真っ直ぐに伸ばしている。次郎衛門は、鞴で焼き上げた鋼を叩いて鏃<やじり>を造っていた。手先の器用な弥五郎は、鏃と羽を取付け、糸を巻き、漆を塗って弓矢を造っており、すでに三十数本が出来上がっていた。

「喜平次よ、弦を張ったときの留め金と引き金の具合がいまいちじゃのう」

宗綱が珍しく悩んだ顔つきをしている。

「お師匠、引き金の角度、曲がり具合がもう一工夫必要ですかいのう?」

相方の喜平次は楽しそうだ。

「うむ・・・・。留め金をはじく支点をもう少し前に移した方がよいのかもしれんのう。どうじゃな」

棒弓は、宗綱の父宗則が伯耆の安綱の元で修行していたとき一度見たことがあると、幼い頃に聞いたことを思い出し、想像をたくましくして造っているのだ。

「お師匠、あとは取っ手を幾分曲げる方がいいですかいのう?」

喜平次が示したものは、後世の種子島銃と同じような銃身となっており、銃の先端に鋼鉄の半弓を取り付けた形となっていた。

「儂は留め金の工夫をするから、喜平次は取付け棒を、もう一度作り直してくれんか」

「お師匠、樫は加工しづらいので、桜でいいですかいのう?」

喜平次は頭が柔らかい。

「うむ、明日には試射できそうじゃのう」

太刀造りとは違って、製作の主導権は喜平次がもっていた。

「紅彦殿が鬼魅と出くわさないうちに仕上げにゃ、なんもならないけのう、お師匠」

「目処がついたところで一服するかのう」

宗綱も少々草臥くたびれてきた。

「お師匠、お嬢様が小屋に行きなさったが、大丈夫ですかいのう?」

喜平次は霞が生まれる前から屋敷で働いており、霞をわが娘のように思っている。

「うむ・・・」

「儂らにできることは、何でもやらせてもらいますじゃ」

「すまんのう、喜平次」

「おーい、次郎衛門、そっちはどうなっておる。切りのいいとこで一服するかのう?」

宗綱たちは母屋の土間に移動して、茶を喫しながら、棒弓の設計について最後の詰めを論じていた。太刀製作のときには、こんな議論の場はないので、若手の丈作などは目を輝かせて口から泡を飛ばしていた。


鹿谷に静寂が戻った。

紅彦は黙々と無双宗綱の手入れを始めた。刀身は仕込杖にしたとき、名倉砥で嫉刃ねたば合わせをしてある。嫉刃を合わせておかないと、実践のとき刃こぼれをおこす。

紅彦が鹿谷に移ってから、夜叉丸の所作に変化が現れた。夜叉丸の深淵に潜む赤黒い闇がうごめきだしたのを感じていた。夜も更けた頃、小屋の外で獣の争う怒声が湧き起こった。月明かりの中に三十数頭の地犬と狼の群れが睨<にら>み合っていた。双眸に不気味な光を宿らせ、双方とも野生の猛々しさを体中に漲らせていた。

地犬を率いているのは夜叉丸であった。

息詰まるような均衡を破り、狼のボスが夜叉丸の首を狙って一足に距離を詰めて飛んだ。だが、狼の攻撃は空を切った。動揺したボスの首筋に夜叉丸の牙が食い込み、一振りで軽々とボスを放り投げた。夜叉丸は一旦攻撃を緩め、ボスが立ち上がるのを待つ態勢をとった。ボスは立ち上がったが、腰が定まらずに身体が左右に揺らめいた。狼の集団が一斉に夜叉丸に向った。

「グルルル・・・」

腹の底に響くような声で夜叉丸が威嚇した。

ボスの双眸に青白い狂気が走り、左にフェイントをかけ、右から夜叉丸の裏を狙って激しい攻撃を仕掛けてきた。夜叉丸は態勢を低くして、ボスがまさに夜叉丸の首に噛みつこうと前足を上げかけたとき、頭からボスの肩口に体当たりをした。そして間髪を置かず、横向きに倒れたボスの喉を前足で踏みつけ、身動きがとれない状態にした。

「グウォーン・・・」

夜叉丸が鹿谷を揺るがすような雄叫びを上げ、狼の集団を睨み据えた。ボスの敗北を見て、狼の集団は波が引くように、一斉に暗闇に消えた。

小屋の辺りに静寂が戻った。

夜叉丸が紅彦に近づき、澄み切った双眸で見つめ、天を仰ぎ一声吠えた。そして、群れを引き連れて闇の中に消え去った。

谷には木枯らしが舞い、晩秋の谷に寂寥感を漂わせていた。あれほど鮮やかだった紅葉は、今は冬の装いに変わっていた。

「そうですか、いつかはこの日が来るだろうと思っておりました・・・」

霞が呟いた。

紅彦があの夜の出来事を話したのだ。

「でも、これからどうなるのでしょう?」

「うむ・・・。あいつは群を率いて、苦労の旅をするのだろう」

「心の中に冷たい風が吹いているような、そんな感じがするわ」

「でも、あいつはそれを選んだんだ」

「・・・」

霞の双眸が潤んでいた。

二人の後ろで小石を踏む音がした。

「おお、ここにおったか?」

大きな荷物を背負った次郎太を従え、宗綱がやって来た。

「あら父上、どうなさったのですか?」

「お嬢様が先に来てしまったので、お師匠は慌ててしまって・・・」

  次郎太が笑っている。

「なにが可笑おかしい、次郎太。実はのう、弟子たちがのう、紅彦殿のために武器を作ったんじゃよ。それを担いできたんじゃ」

「お師匠早く弓を紅彦殿に渡さねば、お師匠が苦労して作ったものだで・・・」

「うほん。そうじゃのう」

「とにかく父上、小屋に行きましょう。お茶を入れますから・・・」

  霞を先頭に四人は小屋に戻り、外の囲炉裏の周りに腰をおろした。

「ところで夜叉丸はどうしておるかのう?」

  夜叉丸の姿が見えないので、宗綱は先ほどから気になっていたのだ。

  紅彦がこれまでのことを掻い摘んで話した。

「うむ。やはりのう・・・」

「父上には分かっていたのですね?」

「夜叉丸は統領の子じゃったんじゃよ」

宗綱が遠くを見つめていた。

「お嬢様、くろねえよ。きっと、夜叉丸は帰ってくっから・・・」

「・・・だといいわねえ」

「そうじゃのう、夜叉丸の旅立ちを皆で祝ってやらねばならんのう」

  宗綱が殊更明るい声を出した。

「お師匠、これを早く渡さねば・・・」

  若い次郎太は痺<しび>れを切らしていた。

「父上、何を持って来られたのですか?」

「おお、そうじゃったのう」

宗綱は次郎太から荷物を受け取り、徐<おもむろ>にそれを取り出した。

「実はのう、これは儂が幼い頃父上に聞いたものを復元してみたのじゃ。棒弓というんじゃが、これなら命中率がいいし、弓を扱ったことのない紅彦殿にも簡単に使えると思って作ったんじゃよ」

「父上はどうして・・・?」

  霞が訝しげに宗綱を見た。

「うむ、紅彦殿が夜叉丸と一緒に屋敷を出るということはじゃ、どうしても鬼魅のことが頭にちらついてのう」

「いや、鬼魅だけのために、ここに来た訳ではありませんが・・・」

「じゃが、これは念のために持っておった方がよいじゃろうのう」

「ありがとうございます」

「ああ、それからのう、杖林寺に賊が押し入ったそうじゃよ」

「賊・・・?」

  紅彦が宗綱を見た。

「弘忍様はどうなされたのですか?」

  霞が心配そうな顔をした。

「うむ、弘忍様はぐっすりと眠られており、賊が入ったのさえ気づかなかったそうじゃ。それで大丈夫じゃったのじゃな」

「弘忍様らしいわ。でも、どうして賊が入ったことが分かったのかしら?」

「うむ、サクドガの馬鬼羅がその賊に出くわしたそうじゃ」

「馬鬼羅?」

  紅彦は初めて耳にする名であった。

「ああ、昔から屋敷に出入りしている山窩の男衆じゃよ」

「父上、それでどうなったのですか?」

「うむ、馬鬼羅が賊を追いかけたが、見失ったそうじゃよ。馬鬼羅の話では、賊は忍びの者じゃったということじゃ」

「あんな破れ寺に盗るものなんてあるんだろうか?」

  紅彦が首を捻った。

「お師匠、先だって、弘忍様の太刀を研ぎ上げましたが、ありゃあ、坊様が持つもんじゃねえ代物だったですがのう」

「ふーん、そんなことがあったのですか。次郎太もなかなか鋭いわねえ」

  霞に冷やかされて、次郎太が頭を掻いた。

「何が狙われたのかは定かではないが、杖林寺には昔からの言い伝えがあってのう」

「父上、それは黄金伝説のことですか?」

「おお、霞も知っておったか?」

「小さい頃、安倍の婆様に聞いたことがあります」

「そうじゃったか。じゃが、その真偽は誰にも分からんのじゃ・・・」

「んじゃども、そいつかもしれんのう」

  次郎太が勢いづいた。

「次郎太はこういうことじゃと、たんと元気になるのう」

「お師匠、じゃども気がかりじゃけ」

「次郎太はもう少し鍛冶の修行をせねばなりませんでしょう」

「お嬢様までそんなことを・・・」

  次郎太が頭を掻いた。

「さあて、暗くなる前に戻るかのう」

  宗綱が霞と次郎太を促して、ゆったりとした足取りで鹿谷を下った。


陽はすでに山の端に傾いていた。

 鹿谷を流れる渓流を遡ると谷はさらに険しくなり、極端に狭まった両岸は切り立った崖になっていた。その辺りには、めったに里人も足を踏み入れることはなく、猟たちはこの谷を猿返えてがえしと呼んでいた。猿返しは、鹿谷の小屋から半日ほど歩いたところにあり、そこは断崖の上方一帯がガレ場になっている。

鬼魅は、渓流沿いの断崖にある洞穴を塒にしていた。洞穴は渓流の浅瀬にある大きな岩の陰にあった。鬼魅は体長三メートル、用心深く老獪ろうかいな羆だ。

 十数年前、出羽からやって来た猟師が、鬼魅に襲われるという凄惨な事件があった。猟師は三人連れで、他郷からやって来た流れマタギであったという。晩春の庚申山で冬眠から覚め、鹿谷に水を飲みに来た羆と偶然出くわした。止める間もなく、十分に訓練された猟犬は羆に向かって突進した。三頭のマタギ犬は、いずれも一撃で首の骨をへし折られた。マタギは咄嗟に弓を引き絞り、心臓を狙って矢を放った。

羆は流れの浅瀬に入っていた。通常では考えられないことだが、羆は流れの石に前足を滑らせて丁度伏せをした格好で倒れた。冬眠から覚めたばかりの、定かでない腰つきが、この羆の命を救った。

 全てが偶然であった。

矢は左耳を上半分ほど飛ばしたが、致命傷を負わせるどころか、逆に羆を狂暴なものにあおりたててしまった。怒り狂った羆は三人に襲いかかった。矢を放ったマタギは鉈のような山刀で応戦したが、顔を殴られ首の骨が折れた。仲間二人が助けに行き、短槍を投げたが背中に浅手を負わせただけで、そのマタギも頭を噛み砕かれた。最後の一人は、熊の懐に飛び込み魔切を心臓に突き刺したが、狙いがそれて致命傷には至らず、逆に深手を負ってしまったのだ。

沢郷の猟師がこれを発見したという。マタギ三人のうち二人が鬼魅に殺され、どうにか命を取り留めたマタギも、左腕が二度と使えなくなっていた。霞が十歳の頃にあった痛ましい事件だという。

鬼魅はこのときから冬眠ができなくなり、極端に人を嫌うようになったという。

そして数年後、霞の母沙霧が弥吉を伴い、庚申山に蕨取りに行ったとき、いきなり鬼魅に襲われたのだ。弥吉が沙霧をかばって応戦したが、一撃で崖下に飛ばされた。鬼魅が沙霧を狙って突進したとき、夜叉丸の母犬が勇猛に立ち向かい沙霧を救った。 だが、沙霧は逃げるとき転倒した際、内臓破裂を引き起こし、それが原因でこの世を去った。母犬も鬼魅に引き裂かれて、何処へともなく担がれて行った。

沢郷の猟師が何度か鬼魅を追い詰めているが、いずれもこの地上から掻き消えたように逃げられている。その後、何度か里人が襲われているが、ここ数年は里に下りてくる姿を見た者はいないという。

宗綱が棒弓を持参してから数日が過ぎ、鹿谷には弓の弦を弾く音が響いていた。

紅彦が棒弓を構えている。

傍らに次郎太が佇んでいた。

「紅彦殿、どんな塩梅かのう?」

次郎太が待ちきれずに聞いた。

「これは素晴らしいぞ。よくこれを造ったもんだ。次郎太さんも撃ってみるかい?」

「紅彦さん、お師匠には内緒じゃぞ」

次郎太は落ち着いた物腰で棒弓を構え、引き金を絞り込んだ。矢は吸い込まれるように米俵に刺さった。

「あら、稽古していたのは次郎太だったのですか?」

 霞が様子を見に来た。

「お嬢様、儂がやってたことは、お師匠には内緒ですじゃ」

 次郎太は悪戯を見つけられた子供のように慌てていた。

「そうそう、紅彦さん、小屋に空齋様がお待ちですよ」

  小屋に戻ると、そこには誰もいなかった。

「あれ、どこに行ったのかしら?」

「空齋様は仕様がねえのう」

 次郎太が空齋を捜しに出た。

「空齋が何しに来たんだろう?」

「空齋様は風の吹くまま、気の向くままの旅ですから、何でしょうねえ?」

「あいつは、とらえどころがないからなあ」

「弘忍様とは違いますものねえ」

「弘忍がどうしたって・・・。随分と久しぶりじゃのう」

 湯上がりの空齋が小屋に入って来た。

「あれっ、風呂にへえっていたのかえ」

 そこに次郎太が戻ってきた。

「そなたが宗綱殿の一番弟子かな?」

「とんでもねえ。儂は五番目の弟子じゃがのう。儂が一番若いんじゃよ」

 からかわれているのも知らず、次郎太が真面目に応えた。

「ところで紅彦殿、弘忍から聞いたんじゃが、夜叉丸がいなくなってしまった今、鬼魅を追跡するのは難儀なことじゃのう」

「まあ、気長にやります」

「ここに来る前に杖林寺に寄ったが、何やら物騒になっているようじゃのう」

「弘忍の体格なら大丈夫だろう」

「紅彦殿、弘忍は舞草刀を磨いていたぞ。あれは隠し事がある顔じゃったぞよ」

真顔とも冗談ともつかぬ表情で、空齋が紅彦を見つめた。

「そうじゃ、忘れておった。こっちに来る前に鎌倉によって来たんじゃが、美鈴殿はお元気じゃったよ。それから男のお子が紅彦殿に会いたいと言っておった」

「空齋様、それを早く言わねば駄目だべ」

  次郎太は遠慮がない。

「沢で何があったのかは知らんが、お子は紅彦殿に心酔しておるぞ。そうじゃ、これを頼まれてきたんじゃ」

ウコン染めの黄色の布に包まれた、七寸ほどの小さな物を紅彦に手渡した。包みの中には棒手裏剣が一本入っており、手紙がまるめられていた。


べにひこおじさん。こんにちわ。

 あれから、ときどき手りけんをれんしゅうしています。父上にたのんで五本つくってもらいました。空さ

いさまにとどけてもらったのは、わたしがつくりました。父上にもすこし手つだってもらいました。

こんど、あったとき、いあいを、おしえてください。

九月廿日


正つな

紅ひこ さま


紅彦は棒手裏剣と手紙を、そっと霞に差し出した。

「正綱が造ったのですか・・・」

霞が書簡に目を通した。

「じゃあ、儂の弟弟子にすっか」

「ふん、あまり軽率な兄弟子を持つと不幸じゃぞ」

空齋にからかわれて、次郎太が照れくさそうに頭を掻いた。

「紅彦殿、杖林寺に行ったら、弘忍が山篭りを案じていたぞよ。そのうち、ここへ訪ねて来るような勢いじゃったのう」

「弘忍は僧侶にしては血の気が多いから、私のことより鬼魅と取っ組み合いをしたいのでしょう」

「それも大当たりじゃが、別の理由もあるのかも知れんのう」

空齋は含みのある言い方をした。

「夜叉丸は、今頃何をしているのかしら?」

霞の言葉に、男たちは顔を見合わせた。

その頃、夜叉丸を頭とする地犬の集団は、庚申山の南に連なっている妙見山の尾根を移動していた。

 妙見山は活火山であり、山頂から時折水蒸気を噴き上げていた。妙見山の標高は庚申山より高く、中腹から上は荒涼とした岩場になっていた。

地犬の群れは二十数頭。鹿谷で狼の群れと闘ったときよりも数が増えている。胆沢から南下してきた群れが夜叉丸の配下となり、共に行動しているのだ。群れは三つのグループに分けられており、それぞれに頭が決められている。夜叉丸が沢郷に住んでいたときは、これらの頭が群れを率いていたのだ。補佐役は一番大きな体格をして、鷹揚とした風貌をしている。群れは庚申山を目指していた。妙見山、庚申山、そして冠山一帯はすでに夜叉丸が制しており、狼の群れは陸奥の北方に去っていた。

鬼魅は依然として消息が不明で、夜叉丸の嗅覚をもってしても、杳として姿を見つけられなかった。夜叉丸の率いる群れは、鹿谷の上にある天狗岩に向っていた。天狗岩の下には裂け目があり、そこが洞窟となっていた。洞窟は入口は狭く、中に進んでいくと広間になっており、そこは夏は涼しく冬は温かく、地犬にとっては格好の棲家となっていた。

群れは夜叉丸を先頭に二列縦隊となり、殿しんがりはあの補佐役が務めていた。

妙見山の尾根から見る鹿谷辺りは、白く薄い煙が棚引いていた。

翌日の庚申山。

 山歩きする紅彦の後ろには、萌葱色もえぎいろの作務衣を着た霞と次郎太の姿があった。早朝、霞が次郎太を伴い、紅彦の元に押しかけてきたのだ。霞一人では危険すぎると考えた宗綱が、鍛冶場にいた次郎太を供につけたのだった。 三人は、庚申山の頂上を目指していた。無双宗綱を左手に持った紅彦は、時折後ろを振り向き、霞に手を差し伸べながら頂上を目指していた。棒弓は次郎太が斜めに背負っている。

 山頂には文殊菩薩を祭った祠がある。

錦繍の山野はすでに虫食い状態となり、荒涼とした姿となっている。冬がすぐそこまでやって来ている。二人の前方には妙見山が姿を見せており、山頂から時折薄い煙が立ち昇っていた。

「おかしいわねえ・・・・」

霞が首を傾けて紅彦を見た。

「妙見山の中腹に煙が見えるわ。誰か山に入っているのかしら?」

「今どき、里の者は来ておらんじゃろ」

次郎太もその方角を見た。

「誰かしらねえ・・・」

霞はまだ腑に落ちない顔をしていた。

庚申山の山頂は四方の見晴らしがよい。北方に目を移すと、冠山の中腹にある杖林寺の本堂の屋根の一部が見える。西方には朧気ではあるが、平泉の集落が望めた。

「どこに夜叉丸はいるのでしょうね?」

「焦ることはないよ。夜叉丸は意外と近いところにいるような気がするんだ」

「儂もそう思うぞ」

次郎太がいると場が明るくなる。

「私も何となく紅彦さんと同じように思っているんだけれど姿が見えないから・・」

「多分、夜叉丸は時々俺たちのことを見ているような気がしてならないんだ」

「そんだよ。そうにきまっってるよ」

次郎太がしきりに頷いている。

「それなら姿を見せればいいのに・・・」

霞が呟いた。

三人は冠山に面した斜面を下った。獣道を下る途中には、中空に突き出した岩があり、見晴らしのいい場所があった。そこからは、冠山中腹の杖林寺が見渡せた。

鹿谷の小屋に着いたときには、陽はすでに西に傾き始めていた。谷を隔てた妙見山は、散り際の紅葉に夕陽が差し、まるで山が燃えているかのように朱に染まっていた。夕闇迫る鹿谷を下りる霞と次郎太の後ろ姿が、長い影を引きながら紅彦の視界から遠ざかっていった。

明くる日。庚申山は朝霧に覆われていた。一寸先が見えないほどの濃霧だ。小屋の中には行灯がともり、囲炉裏には紅葉の細い枯れ枝が、ちろちろと燃えていた。囲炉裏の自在鉤じざいかぎに吊るしてある鉄瓶が湯気を立てており、時折蓋ふたがコトコトと音をたてている。小屋の外は森閑として、小鳥の囀りも聞こえない。

紅彦が外に出ると、濃霧の中から黒い人影が湧き出てきた。

「お嬢様、やっと着いたですじゃ」

乳白色の霧の中から二つの顔が浮かび上がった。

「あれっ、今日も来たのか・・・」

「紅彦さん、そりゃあなかんべよ」

 いつの間にか、次郎太も紅彦のことを、霞と同じように呼んでいた。

「急いでやって来たんだから、もっと違うことを言ってくんねば・・・」

「今日は猿返しに行こうと思ってたんだが、霞さんが一緒だと危ないかなあ?」

「私なら大丈夫です」

 霧の露を睫毛に乗せ、霞が訴えるような瞳を紅彦に向けた。

 昨日のように棒弓を次郎太に持たせ、紅彦を先頭にして小屋を出発した。漆や紅葉は葉を落とし、寒々とした風景を描いていた。渓流を遡って行くと、樹木が密生しているところまでは急斜面となっており、紅彦の胸ほどもある熊笹が一面を覆っていた。ここには、人の歩く道はない。紅彦が振り返ると、霞の額にはうっすらと汗が光っていた。

「紅彦さん、もう休まねば・・・」

 次郎太が霞を気遣った。

「もう少し行くと熊笹が途切れる。そこまで行ったら一休みしよう」

「そうすべ」

「・・・・」

「どうかしたのですか?」

  紅彦が立ち止まり、山側に首を回して怪訝そうな顔をしていた。

「気のせいか・・・」

「・・・」

「たった今、あの木の陰辺りに人影が見えたような気がしたんだけど・・・」

 紅彦が右手の方角を指差した。

「私には何も見えなかったわ」

「紅彦さん、気のせいだべ」

次郎太は涼しい顔をしていた。紅彦たちがひと息ついているとき、妙見山の中腹を三人の男たちが渓流を目指して早足に下っていた。男たちはいずれも肩幅が広く、分厚い胸をしており、歩行が驚くほど速い。

先頭の男が頭領かしらだ。

男たちは膝上までの厚手の袖なしを着込んでおり、木の繊維をって作ったような帯には、マタギのような腰刀を差していた。左手には半弓を持ち、右腰にはえびらを結わえ付けている。

頭領が右手を挙げた。

後ろの二人が両脇に寄り、すばやく弓を構えたが、頭領がこれを制した。頭領は歩みを止め、前方の櫟の大木を無言で指差した大きな黒い固まりがゆっくり移動している。

月の輪熊だ。

「ヤゾウ」

若い方の男が声を発した。ヤゾウと呼ばれた男は馬鬼羅だった。山窩の間では、集団の長をヤゾウと呼ぶ。

「奴は、放っておけ」

馬鬼羅が言った。

月の輪熊は悠然とした足取りで、山窩の視界から消えた。

筋骨逞しい大男が猪覇ししば、もう一人が秋夢あきむと呼ばれている。馬鬼羅たちは、北上高地をテリトリーとしている陸奥系の山窩だ。拠点をサクドガに置き、族長坐弓見ざくみの傘下に入っている。山窩は山系ごとに集合体を形成しており、その族長をクズシリと呼んでいる。

一昨年の冬、鬼魅に山窩が殺された。

 狩猟に来たのは、馬鬼羅の義弟綺目羅きめら左手ゆんでという壮年の男、それと今回同行している猪覇という若者の三人であった。一行は狐や貂(てん)を狩りながら北上山系を南下して来たが、本当の狙いは鬼魅にあった。三人は宗綱の妻沙霧の仇を討つため、サクドガの森からやって来た。庚申山を越え、妙見山に入ったところで羆鬼魅の足跡を見つけた。

この年はとくに雪が深かった。

三人はカンジキの紐を締め直した。

「行くぞ」

リーダー格の綺目羅が短く言った。

三人は追跡を開始した。

雪上の追跡は容易だ。

大きな足跡が渓谷に向って続いていた。

 だが、足跡は大きな岩を曲がったところで途絶えていた。

 この時、三人の心に虚が生じた。

後ろで凄まじい咆哮が湧き起こった。鬼魅は自分の足跡の上を後退し、そして太いブナの木のところで横に跳んだのだ。

殿の左手が左肩を叩かれ吹っ飛んだ。二番手の猪覇は弓を構える余裕もないまま体当たりされ、そのまま渓流に落ちた。綺目羅はウメガイを抜き、後ろ足立ちになった鬼魅の胸元に飛込んだが、切っ先が胸に届く前に頭を噛み砕かれた。その綺目羅を担いで、鬼魅は姿を消した。ほうほうの体で崖を這い上がった猪覇が左手を助け、陸奥のサクドガまで戻ったのだ。馬鬼羅たちは仲間の復讐のため、ここまでやって来たのだ。三人の山窩は音もなく森の中に消えた。


陽は真上にある。

 地犬の集団が鬼魅の潜む洞穴に、音もなく近づいていた。地犬の群れは、二手に分かれて穴に向かっていた。夜叉丸が率いる群れは渓流の上流から、もう一つの群れは下流から迫っていた。

夜叉丸は大岩の手前に群れを待機させ、大岩に軽々と飛び移り、下流の群れを率いる補佐役をを呼び寄せた。そして、夜叉丸は補佐役を待機させ、単独で巣穴に入った。巣穴は溶岩が急激に冷えて、そこに空洞ができた風穴だった。穴は大人が腰を屈めて、ようやく入れるほどの大きさだ。入口から三メートルくらいのところまでは上方に向かった斜面で、そこから先は平坦となり、高さも幅も広々としていた。鬼は、その奥まったところに突き出た岩陰を塒としていた。

夜叉丸の全身の毛が逆立っている。

時の流れが止まってしまったように、辺り一帯は物音が聞こえず、不気味なほどに静寂を極めていた。補佐役が配下の地犬を渓流の浅瀬に配置して、四肢を踏ん張り、精悍な風貌で中の動きを見張っている。

「グウォー・・・」

「グルルルル・・・」

静寂を破り、洞穴の中で怒声が湧いた。

補佐役は位置を上流側に変え、夜叉丸の配下をその後ろに布陣し、鬼魅が出てきたとき下流に追いやる作戦をとっていた。下流に追い込み、そこからガレ場に誘い出すのが、夜叉丸が練った作戦だった。

夜叉丸が凄い勢いで洞穴から飛び出し、大岩のところで身構えた。安眠を邪魔された鬼魅が怒りをあらわにし、猛然と夜叉丸を追い駆け、大岩の隅にいる夜叉丸に突進した。その後方から、補佐役ら地犬が怒声を上げて鬼魅に迫った。

ガレ場に戦場が移った。

地犬は鶴翼の陣を布いた。陣形の要には夜叉丸が位置し、右翼の先端には補佐役が陣取り、夜叉丸と呼吸を合わせた見事な動きをした。鬼魅が正面から攻撃すると地犬は巧みに引き、翼の先端から円を描いて迫り、数頭が後ろから攻撃した。鬼魅が反転し、そちらの攻撃に移ると、今度は夜叉丸の方から攻撃を仕掛けた。地犬の群れは、いずれも勇敢で一騎当千の武者だ。地犬の執拗な攻撃は、鬼魅を苛立たせていた。

この光景を、ガレ場の外れで山窩と紅彦たちが見ていた。

 地犬はすでに数頭が負傷しており、肩口や後足から血を流しているが、依然として士気は衰えていない。

山窩が弓を構えている。

紅彦も棒弓に矢を番えた。

そのとき、鬼魅が左翼の方に向き直り、後ろ足で立ち上がり咆哮した。その瞬間、馬鬼羅、秋夢、猪覇の順に矢が放たれたが、いずれも急所を外した。同時に放った紅彦の放った矢は、鬼魅の右肩に深々と突き刺さった。

鬼魅が狂ったように咆哮し、山窩たちに襲いかかった。だが、山窩も鬼魅に劣らず動きが速い。第二の矢を番え、次々に放った。矢は肩口、前足に突き刺さったが、狂った羆の動きを止めることはできなかった。

山窩たちは横に走った。

鬼魅が山窩を追い、馬鬼羅の頭を殴りつけようとしたとき、夜叉丸が鬼魅の肩に飛び乗り、耳を噛み切った。

「クォーッ」

巨体の割には甲高い声で鬼魅が咆えた。鬼魅の狡猾そうな小さなまなじりは怒りのため毛細血管が切れて真っ赤になり、邪悪な獣に変貌していた。

紅彦と鬼魅の距離は三十メートル。

紅彦は引き金を絞り込んだ。

放たれた矢は、鬼魅の右前足の付け根を射抜き、鏃が突き抜けていた。

「グァオウー・・・・」

怒号をあげ、鬼魅が立ち上がった。地犬の群れは、夜叉丸を中心に陣形を半円形に変化させた。山窩たちはウメガイを手に、背後から狙いをつけていた。紅彦は棒弓を次郎太に渡し、無双宗綱を左腰に差して疾走した。同時に、馬鬼羅が鬼魅の後ろから腎臓を狙って飛込んだ。鋒が背中に刺さった瞬間、鬼魅が巨体を捻じると、重ねの厚い刃が中ほどで折れてしまった。猪覇と秋夢がウメガイを腰だめして突きを入れようとした矢先、夜叉丸が鬼魅の背に飛び乗り首筋に噛みつき、補佐役ともう一頭の地犬が後足に噛みついた。

紅彦が走った。

 鬼魅が紅彦を抱きかかえようとして立ち上がったとき、無双宗綱が鞘を離れ、鬼魅の左前足を斬り落とした。

「グゥオー・・・」

鬼魅の断末魔がガレ場を揺るがせた。

紅彦の右手が二度動くと、鬼魅の両眼には棒手裏剣が深々と突き刺さっていた。

「ヴオー・・・・」

鬼魅が左前足から血しぶきをあげて立ち上がった。その刹那、紅彦の右腕が一閃し、鬼魅の首がグラリと傾いた。その瞬間、秋夢が懐に飛び込み、ウメガイで止めを刺した。同時に、夜叉丸が跳躍し、鬼魅の鼻面を噛み砕いた。鬼魅の首が真後ろに折れ曲がり、地響きを立てて倒れた。小山のような鬼魅の首からドクドクと血が流れ出し、頭部を失った胴体は断末魔の痙攣を繰り返していた。夜叉丸が鬼魅に飛び乗り、勝利の雄叫びを挙げた。

山窩たちが紅彦に近寄って来た。

馬鬼羅が紅彦の前に立った。

「お陰で助かりました」

三人の山窩が深々と頭を下げた。

「あなた方は?」

「紅彦さん、この方が馬鬼羅殿です」

霞が紅彦に教えた。

「うんだ、ときどき屋敷に鋼を届けてくれる人だな」

「鋼?」

「うん、太刀を造る鋼じゃ。紅彦さんの棒手裏剣も、この人が持ってきてくれた鋼で造ったんじゃ」

次郎太が横合いから口を挟んだ。紅彦が右腕を差し出すと、馬鬼羅は熱い眼差しで紅彦の腕を握り、渋い笑顔を残して秋夢、猪覇を伴い去って行った。

別れのときがきた。

夜叉丸は、澄み切った双眸で霞と紅彦を交互に見詰め、そして群れに戻った。地犬の群れは夜叉丸を先頭に、天狗岩に向って走り去った。

秋は遠のき、すでに初冬を迎えている。冬の太陽は釣瓶を落とすように沈む。紅彦と霞と次郎太の三人だけが残ったガレ場には、沈みゆく西陽が差し、寒々とした荒涼たる風景となっていた。茫然としている霞を急き立て、三人はガレ場を後にした。

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