紅夜叉《べにやしゃ》

菴 良介 <いおりりょうすけ>

   一  沢郷 《 さわごおり》

  1 行脚僧あんぎゃそう


錦繍きんしゅうの山野に男はたたずんでいた。

その傍らには、子牛ほどもある精悍な日本犬が寄り添っている。夕陽を浴び、総髪をなびかせた男の周りに一陣の風が吹き抜け、この季節には不似合いな濃霧が俄に立ち込め、またたく間に男を覆い尽くした。

 日本犬が虚空を仰ぎ、鼻をうごめかせた。

 そのとき、目前の霧が柔らかな風になびくように微かに揺れ、天空から一条の光が差し込み、そのまばゆいばかりの輝きの中に人影が浮かび上がった。


 草食獣のような双眸そうぼうが、男を見つめている。

「そうじゃのう。しばらくここにおるがよかろう」

「・・・・・」

この集落は、沢郷さわごおりと呼ばれている。

ここには刀鍛冶が三家ある。奥州には後世月山鍛冶が起こるように、良質の鋼が豊富に産出されていた。

 この男、京鍛冶の伝承者宗綱として奥州に名を馳せている。

「そなたを狂っているとは思わん。じゃが、しばらくここにおった方がよいのではないかな。こんなひなびた土地であっても人の目というものがある。のう、霞・・・」

茶を運んで来た娘に話しかけた。

「その方がよろしゅうございましょう」

「・・・」

「霞もあのように申しておるでな、是非そうなされ。儂は鍛冶場に戻るで、霞に屋敷の中を案内してもらいなされ」

宗綱は、男に異形を見たのだ。

「お気の毒です。ご自分の名前しか覚えていないなんて・・・」

男は、自分の名を紅彦と名乗った。

屋敷には母屋、納屋、鍛冶場のほか、土蔵が三棟あり、広大な敷地の外れには職人の住居が数棟ある。屋敷には子牛ほどもある地犬が飼われており、納屋を塒<ねぐら>にしている。その犬は、夜叉丸と呼ばれていた。

「夜叉丸はこの家で生まれました。母犬はわたしの母上を襲ったひぐまに殺されました。そのとき、これはまだ子犬だったのです。私の母上は、そのときの怪我がもとで亡くなりました・・・」

 地犬は古くからこの地に生息していた純粋の日本犬で、誇り高い清冽な気質をもっていると、霞が話してくれた。

「そうでしたか」

「里の者が何人も傷つけられ、殺された者もおります」

「・・・」

「すみません。つい余計なことを・・・」

  浅葱色の着物の襟から覗く霞の白いうなじが眩しかった。

「これから鍛冶場が見たいのですが、案内していただけませんか?」

  紅彦は話題を転じた。

「鍛冶場には女は入れません。父上のお許しをいただいてからご案内いたしましょう」

鈩師たたらしが信奉する守護神は金屋子神かなやこがみという女神であり、どういうわけなのか女性を嫌うと言われている。鍛冶場は金木犀の垣根に囲まれ、古風な構えをしていた。納屋の北側の土蔵を過ぎ、鍛冶場の裏側の植え込みの小道を通り抜けると、屋敷の北側には真竹が植えられていた。鍛冶場の西側は雑木林になっており、その奥に宗綱の内弟子が住んでいる長屋が建てられていた。長屋の西側は塀が廻らされており、それは屋敷全体を包み込んでいる。

 今、この広い屋敷には鍛冶場の槌音のほか、人の気配が感じられなかった。


都のとある豪邸の一室。

寝殿造りの屋敷には池を巡らせ、築山には手入れの行き届いた樹木が林立していた。

「源氏の動きが気になるのう」

「はあ、陸奥むつに探りを入れておるようでござりまする。平氏にも同じような動きが見られ、こちらも気になるところでござりまする」

「先を越されぬようにせねばならんのう」

「すでに手は打ってありまする」

  開け放した座敷から見える庭園には、小鳥が飛び交うほか人の気配はない。陽光穏やかな春日の築山は新緑が美しく、そのあでやかな姿を池に映していた。

「藤原には奥州の砂金が必要じゃ。これからの麿には、この世を動かす金がいくらあっても、余分なものはない」

「言い伝えでは、奥州には蝦夷えみしの財宝が埋もれているという話がござります。源氏はこれを何処かで聞きつけ、探りを入れておるのでござりましょう」

「手抜かりなく頼むぞ」

「腕利きの草者くさものを放ちました」

  草者とは忍びの者のことで、藤原、源氏、平氏のいずれもが密かに抱えていた。

「蝦夷の話は麿も耳にしておる」

「真偽のほどは定かではござりませぬが、間もなく判明いたしましょう」

「楽しみじゃのう。采配はそちにまかせる」

築山から小鳥のさえずりが響き、二人が庭園に目をやると、二羽の目白が梅の梢を飛び移りながら戯れていた。

謀議から数日が過ぎた昼下がり、男が比叡の山道を登っていた。都から遠く離れた比叡の山も、すでに春色に包まれていた。

 男は、横川よかわの恵心院に向っていた。

烏帽子姿で腰に糸巻き太刀をげた上品な身なりの男は、それとは不釣り合いな暗い双眸をしている。男は恵心院の山門を潜り、玄関先で案内を請うた。

 庫裏の奥座敷に通された男は、そこで一人の修行僧を待っていた。

「ご無沙汰致しておりました」

 墨衣をまとった僧が姿を現した。

「うむ、堅固でおったか?」

男は鷹揚に言った。

「火急のご用でござりましょうか?」

「うむ、お前には奥州に行ってもらうことになった」

「・・・・」

「源氏が騒がしくなった。そこでお前に探ってほしいのじゃ。源氏よりも先に奥州の方を片づけねばならん。

お館様からのきつい言いつけじゃ。平氏も動き出したようじゃで」

男が噛み砕くような言い方をした。

「何をすればよいのでござりましょうか?」

「砂金を押さえる」

「砂金を・・・」

「奥州には蝦夷の隠し財宝が眠っておる」

「・・・・」

男は僧の眼を見つめながら続けた。

「その財宝は蝦夷の首領が守っていたといわれているが、一夜にしてき消えてしまったと伝えられておるのじゃ。奥州は安倍が治めておるが、まだそれに気づいてはおらん。厄介なのは源氏と平氏が気づいたらしいのじゃよ。そこでお前の出番となった訳じゃ。問題は平氏よりも源氏じゃ」

僧は思案深げに聞いていた。

「路銀は持参した」

「必要とあれば、甲賀を使え。そちらには話は通しておいた」

「もし、源氏が妨害をしてきたら、いかがいたせばよろしいでしょうか?」

「斬れ。じゃが、お館様に類が及ぶことはならんぞ。隠密に処理せねばならん」

男の人相が険しくなっていた。

「よく分かりました。この命はいつでもお返しする覚悟でおりました」

僧は生まれ落ちて間もない頃に捨てられていたのをこの男に拾われ、甲賀の里に預けられた。この僧の食い扶持は、目の前の男から届けられていたのだ。生殺与奪の権は、この男が握っていた。

「それで、奥州にはいつ立てばよろしゅうございましょうか?」

「支度ができ次第行くことじゃのう」

これだけを話すと、男は何事もなかったように座敷を後にした。

僧が物心ついたときは甲賀の里にいた。甲賀のおさは藤林三太夫という。三太夫は小田林を名乗っていたが、僧を預かったときに藤原の一字を賜り、そのときから姓を藤林と改めた。僧は、長の家で育てられた。自分が捨て子と分かったのは、十五歳のときだった。育ての母小糸が息を引き取る際に、僧が都のさる屋敷の門に捨てられていたことを話し、そのとき赤子の胸に置かれていたという錦紗の袋に入った、いかにも由緒ありそうな短刀を手渡してから冥界へ旅立った。

  僧は十八歳になったとき、三太夫に甲賀を出て行くことを願い出た。

  だが、里には掟がある。抜け忍は許されない。長は里の者には、藤原の命によってしばし比叡山に預けるということにした。このとき、里に異変があるときは、僧はいつでも自分の命を差し出すことを長に誓った。僧が甲賀の里を去るときも、春まだ浅き頃であった。

僧は意を決して面を上げた。

比叡の山がかげり暮色に染まっていった。


奥州一関を目指して一人の行脚僧が闊歩していた。名は空齋。空也の最晩年の弟子で空也亡き後、浄土教の名僧源信の弟子となり比叡山恵心院で修行していた。

ある日、空齋は意を決して行脚に出た。

今、空齋は師空也の足跡を辿り、修行の旅を重ねているところだった。空齋は饅頭笠を左手で持ち上げ、青く澄みきった空を眺めた。さわやかな季節だが、流石に長時間歩いていると汗ばんでくる。

「あの峠を越えれば一関じゃのう。日暮れには杖林寺に入れるじゃろう」

空齋は手甲で額を拭いながら独り言を漏らし、軽やかな身のこなしで傍らを流れる小川に下りて顔を洗い、目を遠くに移した。

小さな田が幾重にも連なっており、綺麗に植え付けられた稲が、ほんの僅かだけ水の上に穂先を出していた。空齋は腰を下ろし、頭陀袋から竹皮に包まれた握り飯を取り出して頬ばった。

四年前、九九五年に藤原道長の長兄、摂政・関白の道隆が逝去した。その頃、都では疫病が流行り、羅城門は夜影に紛れて屍体を捨てる者が多かった。その様は、まさに末法の世を思わせるものがあった。


  横川の恵心院えしんいん

「源信様、私は里に下りて修行したいと考えております。どうかお許しください」

「空齋、師の御教えに導かれて行脚いたすのかな?」

「私はお山で学問を積むことより、世間の中で修行したいと念じております」

「病んだときは、どうするつもりじゃな?」

「そのときは我が身を喜捨し、狼にでも与える所存でございます」

「そうか。空齋は齢を経るごとに師の空也様に似てくるのう」

「まだ師の足元にも及びませんが、世間と触れ合ってみようと存じます」

「空齋、それで何を求めるのかな?」

 源信の双眸が柔和になった。

「一切空、あるがままに旅をし、あるがままの世を眺めて見ようと存じます」

「道は険しいぞ。迷いが生じたら、いつでもここに立ち寄るがよい」

「ありがとうございます」

 空齋は深々と頭を下げ、恵心院を後にした。

 空齋の耳に子供の声が飛込んできた。

「母上、おいら腹がへった」

「もう少し歩くと峠に茶屋がある筈よ。しばしの辛抱です」

四、五歳くらいの男の子と下僕を伴った旅支度の気品のある女が、土手の上の道を通り過ぎようとしていた。空齋は聞くとはなしに、母子の会話を聞いていた。

「朝からずっと歩いておってくたびれた」

「・・・」

「お祖父じい様の家にはいつ着くんじゃ?」

「正綱、もう少しですよ。家に着けば霞が美味しいものをこしらえておりますでしょう。お祖父様もお待ちですよ」

「うん。大きな犬もいるんだよね」

子供の話は、いきなり別の方向に飛んでしまう。

「夜叉丸といって、とっても強いんだそうですよ」

「かみつかない?」

「夜叉丸は頭のいい犬だそうですよ」

「おいらの言うことをきくかなあ?」

「犬は子供のことが好きだから、すぐに友達になれるでしょう」

 空齋は、腰を上げた。饅頭笠と錫杖を小脇に抱え、一気に土手を駆け上がった。

「ちょっとお待ちなさい。拙僧は空齋と申す者じゃ。拙僧の食べ残しのものじゃが、ここに握り飯がある。お子に差し上げたいが、どうじゃろうか?」

「ありがとう存じます。それではお坊様がお困りになりますでしょう」

「なんの、なんの、拙僧は先ほど済ませたがいの」

  空齋に呼び止められたのは、宗綱の長女美鈴だった。美鈴は色白で穏やかな顔立ちの大柄な女性だった。

「ありがとう存じます。あの峠まで参りますれば茶屋がありますので、そこでひと休みをいたします」

「遠慮は禁物だで。ところで、どこまで参られるのかな?」

「一関の東にある沢郷まで参ります」

「やや、奇遇じゃぞ。拙僧は杖林寺に行くところじゃ。旅は道連れじゃな。わっはっはっは・・・」

美鈴一行は、空齋と道連れに歩き出した。

 美鈴と正綱の横に小柄な行脚僧が親しげに同道しており、その後ろに分不相応な道中差しを腰にした下僕が従っている。

「ところで沢郷のどこへ行くのじゃな?」

たちばなの家まで参ります」

「おお、宗綱殿のところじゃな」

「空齋様は、父上のことをご存じでございましたか?」

「むろんじゃ。宗綱殿のご高名は都まで届いておるぞよ」

  各地を行脚している空齋の言葉には、自信にあふれた響きがある。

「おお、そういえば宗綱殿の息女によう似ておるのう」

「空齋様は霞をご存じでしたか?」

「知らんでかいのう」

  空齋は鼻の頭をひとこすりしてから、得意顔で話を続けた。

「霞殿のことを知らぬという者は、陸奥一円探してもおらんじゃろうて。母譲りの美貌を一目見たいという若い衆がわんさとおるんじゃよ。おっと、美鈴殿もこうして見ると優るとも劣らんのう」

空齋の軽妙な言いぶりに、美鈴の頬に微笑がこぼれた。

「空齋様お戯れを・・・・」

「なんの、なんの、本心じゃぞ」

「空齋様、私は父上似で、妹は母上似と言われておりました。私の方が大柄なのは父上に似てしまったのでしょう」

「そうかもしれんが、やはり他人には姉妹はどことなく似ておるように見えるぞ」

分が悪くなり、空齋は話題を転じた。

「お子の名は何というのかのう?」

「まさつな」

  先ほどから黙って二人の会話を聞いていた正綱が、横から驚くほど大きな声を出した。

「しっかりしたお子じゃで。どこから来たんじゃな?」

「鎌倉から参りました」

  これは、美鈴が応えた。

「随分遠くからやって来たんじゃのう」

「亡き母上の法要にやって来ました。臥せていたときにはまだこの子が小さかったので、妹にばかり面倒をかけてしまいました」

美鈴は伏し目がちになった。

「美鈴殿あまり気にされんことじゃ。この世にはどうしようもないことがあるんじゃよ。これが宿命という

もんじゃ」

「・・・」

「そうじゃったか、杖林寺の弘忍こうにんが法事があると言っておったのは、宗綱殿のところじゃったの

じゃな」

「・・・」

「鎌倉はどこに住んでおるのかな?」

  空齋は如才ない。

「甘縄神社の側で小鍛冶をしている正国に嫁ぎました」

「おお、正国殿に嫁がれたか。正国殿は相州鍛冶で有名じゃのう」

「夫をご存知でしたか?」

「太刀正国の素晴らしさは、垂涎の的じゃということじゃぞ。拙僧も仏門でなかったら欲しいもんじゃと思っとったんじゃよ」

「空齋様はいろんなところを行脚されておられるのでございますね」

「ああ、いろんなところで乞食こつじきしておるんじゃよ」

「こつじきってなーに?」

  横合いから正綱が口を挟んだ。

「うん、乞食とはのう、食い物を恵んでもらって歩くことじゃなあ」

「ふーん、それじゃお坊さんは浮浪者とおんなじなんだ?」

「わっはっはっはは・・・。面白いお子じゃのう」

「正綱、空齋様に失礼でございますよ」

  美鈴が慌てていたが、当の正綱はきょとんとした顔をして空齋を眺めている。

「いやいや、正直でいい子じゃ」

「申し訳ございません」

  他愛のない話をしているうちに、一行は峠の茶屋にさしかかった。茶屋は茅葺き屋根の小さな構えで、店の前に縁台が二つ出してあった。

「母上、さっき、ここで休むっていってたよねえ・・・」

「空齋様はいかがなされますか?」

「せっかくじゃが、拙僧は先を急ぐことにする。弘忍が首を長くして待っておるじゃろうから・・・」

「それでは、私どもはひと休みしてから参りますので、ここで失礼いたします」

「うむ、縁があればまた会えるかもしれんのう。堅固でな」

「空齋様は、橘の家の法事には参られるのでございますか?」

「いや、拙僧は胆沢いさわ黒石寺こくしゃくじまで行かねばならんのでのう、残念じゃが、法事には行かれんのじゃ。じゃあ、失敬する」

美鈴一行と別れた空齋は、軽快な足取りで杖林寺に向う坂道を下った。空齋が峠を下っていくと、下の方から馬子がやって来るのが見えた。太い二の腕を剥き出しにして、見るからに荒々しい歩き方をしている。空齋が脇をすれ違おうとしたとき、馬子がいきなり通せんぼをした。

「大きな馬じゃのう。拙僧が踏み潰されてしまうぞよ」

 空齋が間延びした声を出した。

「坊様、どこまで行くんかい?」

  髭面の馬子が邪険な眼で空齋に迫った。酒臭い息を空齋に吹きかけ、目も真っ赤に充血している。

「ああ、拙僧は胆沢まで行くところじゃよ」

「そんなら、クロに乗ってけや」

「おお、クロというんかい。いかい立派な馬じゃのう」

「おうよ」

  髭面の鼻息が荒い。

「せっかくじゃが、拙僧はとぼとぼと歩くのが好きでのう。それに、こんな大きなものはおっかなくて駄目じゃよ」

「安くしとくから乗れや」

  幾分呂律が怪しい。

「いや、やっぱりやめとこ」

空齋が横を通り抜けようとしたとき、髭面が熊のような手で肩を掴もうとした。

 空齋の錫杖がチョイと動き、髭面の手首を軽く叩いた。

「この野郎、勘弁しねえぞ」

 髭面が竹のご太い鞭で空齋に殴りかかってきたが、空齋がどう動いたのか、髭面の手から鞭が飛んで谷へと落ちていった。

「野郎・・・」

  鬼のような形相で掴みかかる髭面の水月に空齋が軽く当身を入れると、驚いたような顔をして髭面の膝が崩れ落ちた。

「なんとまあ、眠りおったか。少々悪酔いし過ぎたようじゃのう。こりゃあ通行人の邪魔になるわい・・」

とぼけたことを呟きながら、馬を木の幹に繋ぎ、大男を道端に寄せ、空齋は何事も無かったような顔つきで、さっきと同じ足取りで峠を下った。饅頭笠が曲がりくねった道に見え隠れしながら、次第に小さくなった。



2 刀匠の館


宗綱の屋敷で法要が営まれていた。

祭壇の前で、骨格逞たくましい僧侶が読経している。祭主宗綱が中央に、その左脇に美鈴、正綱そして霞が、宗綱の右脇には妻沙霧の弟安倍高任<たかとう>が座している。二列目には宗綱の弟宗朝、従兄弟の安近、親族が並んでいる。次の列には宗綱の弟子たちが神妙な顔つきで正座していた。弟子たちは宗綱の妻が達者だった頃は何かにつけ世話になっていた。その後ろには、沢郷の人たちが座していた。

朗々とした読経が続いている。

野太い声だ。

宗綱の妻沙霧は、安倍本家の傍系安倍佐任すけとうの娘だ。沙霧は十八歳で宗綱に嫁いだ。宗綱が父宗則の使いで安倍の屋敷に太刀を届けに行ったとき、佐任の娘沙霧と出会った。沙霧は陸奥一の美女と言われ、細面で色白の気品のある顔立ちをしていた。霞は母沙霧の面影を宿していた。

それぞれの思いを乗せ、香の煙が座敷を漂っていた。

このとき、長屋門の前で一人の男が、屋敷内の様子を窺うように佇んでいた。片頬に傷のある眼光鋭い男は、しばし考え込むような表情を浮かべていたが、足早に砂鉄川の方角に消え去った。

法要から三日が過ぎ、宗綱の屋敷に平常の静けさが戻った。鍛冶場では、ふいごが真っ赤に焼けた炭から火の粉を飛ばしていた。そこには、宗綱を加えて六人の刀工がいた。

「宗綱殿、これまでに棒手裏剣を造ったことがありますか?」

「棒手裏剣、それはどのようなものかな?」

傍らに落ちていた鉄屑で、紅彦は地面に絵を描きながら説明した。

「さして難しくはないな。じゃが、そんな物をどうするのかな?」

不思議そうな顔をして宗綱が尋ねた。

「暇つぶしになるかと思いまして・・・」

「暇つぶしのう・・・」

宗綱はしばし思案をしていたが、一番若い弟子を呼んだ。

「次郎太、紅彦殿が言われたように造ってみなさい」

「どれくらいかかりますか?」

「本数にもよるがのう」

「三十本ほど・・・」

「それぐらいであれば、昼時には出来上がるであろう」

「それから・・・」

「なにかな?」

「太刀を拝見したいのですが・・・」

  白研ぎされ、刀架に掛けてある仕上げ途中の太刀を見つめた。

「ここにあるものは、皆弟子たちが造ったものじゃ。手元に残っているのは少ないが、母屋に置いてある。あとでご覧にいれよう」

紅彦は鍛冶場を離れ、一人で屋敷を出た。いつの間にか、紅彦の横に無愛想な表情で夜叉丸が横に並んでいた。夜叉丸は切れ長の双眸をほんの少し紅彦に向け、そしてゆっくりとした動作で後ろを振り向いた。霞が左手に籠を下げ、甥の正綱を伴って長屋門から出て来るところだった。紅彦は足を止め、霞が近づくのを待った。

「これから笹竹を採りに行きますが、紅彦殿はどちらへ?」

「その辺をあてもなく・・・」

「では、一緒に参りましょう」

  霞の表情に明るさが戻っていた。

「今時分に山に入って、危険じゃありませんか。羆が襲ってきませんか?」

「大丈夫でございます。夜叉丸が一緒ですから、襲われることはありません」

「ところで、正綱君はここにいつまで滞在するのですか?」

  一緒に晩飯を食べた次の日から、紅彦の住む納屋に入りびたりだったのだ。

「あと五、六日滞在すると、姉上が申しておりました」

  後ろからついて来る正綱を振り返ると、正綱は夜叉丸の首に腕を巻きつけて一緒に歩いていた。

やがて、道が二つに分かれているところに出た。

 左の小道は庚申山へ続いており、右に行くと冠山に向かうことになる。霞は右の道を進んだ。しばらく行くと、右手に重厚な構えの屋敷が見えた。宗綱の屋敷よりも構えは小さいものの、なかなか堂々とした門構えをしている。

「叔父の家です。父上の弟で宗朝といい、同じく刀鍛冶を生業としております」

「霞殿のお祖父さんは、腕のいい刀匠だったのですね」

「父上がお祖父様の作風をよく伝えていると言われております」

 後ろから小さな足音が走ってきた。

「紅彦おじさん、霞おば様と何を話しているの。あそこまで、おいらと競争しようか?」

  正綱が二人の間に割り込んできた。

「正綱、あまり離れてはなりませんよ」

「うん、たけのこ、お昼に食べられるよね、おばさま?」

「まあ・・・」

  食べ盛りの甥の言葉に、若い叔母は思わず微笑みを浮かべた。

  やがて、紅彦たちは冠山の麓にたどり着いた。そこは笹竹が辺り一面に密生しており、十五、六センチメートルほどの筍が自生していた。

「霞おばさま、たくさんあるよ。はやく、はやく・・・」

「慌てなくても大丈夫ですよ。筍は採りきれないほどありますから・・・。紅彦殿はどうされますか」

 気が早い正綱は、竹薮に入ってしまった。

「正綱・・・。一人であまり遠くへ行ってはいけませんよ」

  霞と正綱が筍を採っている間、紅彦は傾斜した叢に寝転んで、流れゆく白い雲をぼんやりと眺めていた。夜叉丸は先ほどから姿を消していた。遠くから聞こえる正綱と霞の声に耳を傾けるうちに、紅彦はいつしか深い眠りに落ちていった。


  その日の午後、母屋の床の間に宗綱と紅彦が対座していた。

「今、手元にある太刀はこの三口<ふり>と短刀が二口だけじゃ」

宗綱が紫色の刀袋から白鞘を取り出した。

 二口が腰反りの二尺七寸の太刀で、一口が無反りに近い二尺二寸の小太刀だ。刃紋は、長物がいずれも小乱れ、小太刀は細直刃で無双宗綱と銘が刻まれている。

「この小太刀を仕込杖にして貸していただけませんか?」

「仕込杖?」

「しばらく貸していただけませんか?」

「それが気に入られたのであれば、差し上げましょう。それから、これは次郎太が打ったものだが、これでよかったのかな?」

「流石に鋼から鍛練して造った棒手裏剣は、手に馴染んできます」

 紅彦の仕草を宗綱がじっと見ていた。

「父上が楽しそうにしているのは、久しぶりでございますねえ・・・」

  霞が茶を運んで来た。その後ろに隠れるようにして、正綱がついて来た。

「父上、安倍様からお使いの方が見えられております。お館様から何かご依頼があるようでございます。客間の方にお通しいたしておりますが・・・」

「何かな。とにかく会ってみよう。紅彦殿、ゆっくりしていてくだされ」

  紅彦は無双宗綱を手にとり、良質の鋼を惜しみなく使って鍛えた名刀を眺めた。

「その小太刀をいただいたのですか。それは父上がとても大事にしていたものです」

 霞が驚いた表情をした。

「ところで、ここには古くなった畳はありませんか。もう使えなくなったものが一枚あればいいのですが・・・・」

「何にお使いになるのですか?」

「手裏剣の稽古に使います」

「手裏剣てなあに。おいらにも教えてよ」

  正綱が目を輝かせて、紅彦と霞の間に割って入って来た。

「分かりました。あとで弥吉に出してもらいます。でも正綱はだめですよ。姉上に私が叱かられますから・・・」

  弥吉は霞が生まれる前からこの屋敷にいる下僕で、もう還暦を過ぎているのに、小柄ながら骨太で律義な男だ。

「おいらもやりたいなあ・・・」

  奥の部屋の方から、正綱を呼ぶ美鈴の声が聞こえてきた。

「はーい。ただいま参ります」

霞が正綱を連れて部屋を離れた。


人の世には別離がある。

美鈴母子が鎌倉に戻り、法事の慌ただしさが過ぎて屋敷に静けさが戻った。

その日、沢郡一帯は濃い朝靄に包まれ、屋敷も乳白色の靄に覆われていた。早朝の鍛冶場には、宗綱と山窩<さんか>の男が腰を下ろしていた。その前には、五振りのウメガイが並べられていた。山窩の男が成人の証として腰に差す両刃の短刀をウメガイという。山窩は一所不住の民であり、山間を放浪しながら竹細工や狩猟を生業とする集団である。

「今年は丹波から五人戻ったのか?」

  宗綱が話しかけた男は、法事の時、長屋門に佇んでいたあの男だった。

「はい、五人の身知みしりが終わりました」

  身知は十三参りとも言われており、山窩の男子が十三歳になると、二年間丹波で忍術や職業の訓練を受けることをいうのだ。

「ところで、坐弓見ざくみ殿はお達者かな?」

矍鑠かくしゃくとしておられますじゃ」

「サクドガの方では、何か変わったことはなかったかのう?」

「はあ、殊更ことさらは・・・」

馬鬼羅ばきらは客人のことは存じておろう」

「話したことはござりませんが、物静かな幾分変わった御仁でございますなあ」

「あの御仁は紅彦という。いろいろと子細があってのう、今はそっとしておいてくれ」

「そのように・・・」

  馬鬼羅がうなずいた。

鬼魅きびのことじゃがのう、その後の行方は分かったのかな?」

 鬼魅とは、宗綱の妻を襲ったはぐれ羆のことだ。マタギや山窩に追われるようになってからは、里には姿を現さなくなっていた。

「秋になればまた追跡を開始しますが、今は山には食料が豊富じゃから無理ですじゃ」

「そうじゃのう・・・」

「夜叉丸は鬼魅を狙ってたんですじゃのう」

 馬鬼羅が納屋の方角を見た。

「どこかで鬼魅と遭遇したようじゃ、しかしのう・・・」

「あやつは夜叉丸の宿敵じゃから・・・」

 陸奥のサクドガの森に棲んでいた夜叉丸の母犬を、宗綱の屋敷に連れてきたのは馬鬼羅だった。

「馬鬼羅よ、サクドガの若い衆に伝えておいてくれないか。くれぐれも羆相手に仇討ちなぞせんようにとのう」

「はあ、奥様のことはイロネのように思っとりましたで・・・」

 馬鬼羅が目を伏せた。

  山窩では姉のことをイロネという。

「すまんが、杖林寺によって弘忍様にこれを渡してくれんか」

「これはハカシのようじゃが・・・」

 ハカシとは日本刀のことだ。

「ああ、舞草刀じゃよ」

「そんな大事な物をヤシガサが頼まれていいんじゃろうか?」

「そちが行けば、弘忍様も気を許して事の次第を話してくれるやもしれんぞ」

 弘忍は獣肉を好んで食べるので、馬鬼羅には以前から世話になっていた。

  法事の翌日、宗綱の屋敷に弘忍が訪れた。

  細長い物を大きな風呂敷に包み込み、ひょっこりと現れたのだった。

「宗綱殿、きょうはちくと頼みがあって参ったんじゃが、今は忙しいかいのう?」

「弘忍様、何を遠慮されておられますんじゃな。何なりと言ってくだされ」

「実はのう・・・」

 弘忍にしては珍しく気弱な口振りだった。

「何かの?」

「これを研いでほしいんじゃが・・・」

 恥じらいを浮かべながら、風呂敷包みを差し出した。

「うむ、これは太刀のようじゃが・・・、ちくと拝見する」

 二尺七寸の鎬造りの刃は、うっすらと錆が浮かんでおり、これを使うには確かに研ぎ直しが必要であった。

「弘忍様、これを何に使われるのかな?」

「いや、その、何じゃ、烏が飛んで、寺がうるそうてかなわんのじゃよ」

「・・・」

 まじまじと宗綱に見つめられて、弘忍の額には汗が浮かんでいた。

「とにかく、それをよく斬れるようにしてほしいんじゃが・・・」

「子細があるようじゃが、訳は聞かないことしておきましょう」

「じゃが、弘忍様。これは舞草刀の中でも上物じゃよ。弘忍様、これをどこで手に入れられたのかな?」

「これは愚僧の家に代々伝わっておったもんじゃが、それほどの物かいのう?」

「これほどの鋼は見たことがありませんぞ。やはり奥州の川砂鉄じゃのう・・・」

 宗綱が刀身を眺めながら言った。

「よしなに頼む」

「弘忍様、あまり無茶はされませんようになさりませんといけませんぞ」

「ややっ、宗綱殿、まだそんなことを言っておられる。隠していることなんぞ、何にもありゃせんぞよ」

 弘忍は投げ出すような勢いで舞草刀を宗綱に手渡し、逃げるように屋敷を飛び出していった。

蔓で編んだ籠を肩に掛け、舞草刀を片手に提げて、馬鬼羅は長屋門を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る