第64話 カリーとロゼ
翌朝早朝、まだ日が昇る前からカリーは旅館を背にした。
昨日の夜、サクセスから二日間この場所に滞在すると聞いて、真っ先に考えたのが釣りである。
早起きしたカリーは、既に働いていた女将から釣り竿と釣り餌を借りると、その足で塩野湖に向かった。
ちなみに釣り場への行き方は、道具を借りた時に聞いている。旅館へ来た道と逆方向だ。
その道は、旅館に滞在する釣り好きの為に舗装された道。
歩く場所は石一つ落ちていない程に綺麗に整地されており、その両側には朝露に湿った花々が朝を迎えようと蕾を開こうとしている。
カリーはその道を黙々と進んで行くと、やがて湖に架かる桟橋が見えてきた。
「意外と近かかったな。さて、どんな魚が釣れるやら。」
そう一人ごちると、桟橋に設置された丸い石椅子に座る。
そして釣り針に餌を付け、塩野湖に向かって投げ入れたところで気付いた。
「しまった……バケツも借りておくんだった。まぁいいか……今日はキャッチ&リリースだな。」
カリーとしては珍しい迂闊なミスだが、そこまで気にはしていない。
まだ姉と二人で暮らしていた時は、生活がかかっていた為、釣った魚を持ち帰らないなんてありえなかったが、今は違う。
少なくとも今日の食事は、全て旅館で用意してくれるのだから無理に持って帰る必要はなかった。
とはいえ、やはり自分で釣った魚を食べるのと、出されたもの食べるのでは気持ちが大分違う。
それにキャッチ&リリースと聞けば優しくも聞こえるが、少なくとも魚にはダメージが残る為、本来ならば釣った魚の命はキチンとありがたくいただくべきだ。
しかし今から戻るのは面倒だし、今回だけはそのポリシーを捨てる事にする。
【三十分後】
「うぉ!! またかかった! どんだけ入れ食いなんだよ、ここは!」
カリーはこの釣り場に来てから、既に十回以上キャッチ&リリースを繰り返していた。
この湖は釣り好きな客が来ない限り、人が魚を釣る事がないため、魚が素直に餌に食いついてくる。
正直カリーとしては、若干つまらなく感じていた。
沢山の魚が釣れるのは楽しいが、こんな簡単に釣れるのでは趣味としての釣りには物足りない。
そんなカリーだったが、そこで釣り餌が入ったボックスに不思議な物が入っているのに気付いた。
「なんだこれ? 魚の形をした餌? こんなもんで釣れるのか?」
カリーが手に取ったのは、柔らかい素材で造られた魚の疑似餌。
今まではミミズや赤虫と呼ばれる小さな生き餌を使っていたが、折角だからこの疑似餌を試してみる事にする。
疑似餌の大きさから見るに、多分ターゲットはかなり大型の魚と予想できた。
それであれば、これまでの様に入れ食いにはならないだろう。
そう考えたカリーは、しばらくの間、その疑似餌を湖に投げ込み続けるが……。
「……全く釣れねぇ。」
さっきまでが嘘のように、カリーが持つ竿はピクリとも反応しなくなった。
いつの間にか日は昇り、朝日が水面を照らし始めると、今まで見えなかった魚影が湖水に見え始める。
これが海であれば潮の流れが邪魔をして、ここまで魚が綺麗に見えることはないだろう。
しかし、ここは海でも無ければ川でも無い。
穏やかな湖上には、優しい風に誘われてできた小さなさざなみが立っているだけだ。
魚は全く釣れなくなったが、その景色を見ているだけで心が落ち着いてくる。
そこからは時の流れがとてもゆっくりと感じ、カリーはぼんやりと昔の事を思い出していた。
(ここには、クロもあいつもいないんだな……。)
いつも釣りをしていた時、一緒に傍にいてくれた真っ黒な猫。
そしていつの間にか城を抜け出してカリーに会いに来ていたローズ姫。
あの頃は、幸せだった。
温かくモフモフなクロに、いつも自分を幸せにしてくれるローズの笑顔。
魚なんか釣れなくても、二人がいればそれだけで十分だった。
そんな当たり前だった日常が、今ではとても愛おしい。
別に今が不幸せと思っている訳ではないが、それでもあの緩やかな時間はカリーにとって宝物だった。
だが、もうクロもローズもいない。
二人は自分を置いて、先に逝ってしまった。
既にその事は自分の中で整理がついているが、それでも思い出せば瞳から小さな雫がこぼれ落ちてしまう。
そして悄然とした顔つきになったカリーは、ぼ~っと湖を眺めていた。
するとその時、突然竿が強く引っ張られる!
あまりの引きの強さに、油断していたカリーは体ごともっていかれそうになった。
その引きの強さは、まるで自分を現実に戻すようにすら感じる。
「なんだこの引きは!? マグロより強いぞ!」
あまりに強すぎる魚のパワー。
このままでは竿が持っていかれる……いや、耐えきれずに折れると感じたカリーは、竿に氷属性を付与して強度を上げた。
そして遠くに見える巨大な魚影。
それは体長3メートルはくだらない巨大魚だった。
「ぐぐぐ……これはまじで凄いな。この湖の主か?」
カリーの予想は当たっていた。
現在カリーが戦っている魚は【クエール】と呼ばれる塩野湖の主。
それは滅多に姿を見せることはない魚であるが、その味は幻の珍味とされるほど美味い。
そしてカリーが使っていた疑似餌は、正にこの魚専用に作られたものだった。
そこからカリーと巨大魚による、一進一退の攻防が始まる。
※ ※ ※
「中々いい勝負だったぜ。でも、俺の勝ちだ!」
カリーはそう高らかに声を上げると、持っている竿を大きく引き上げた。
すると、大きな水飛沫をあげて巨大なクエールがその姿を現すと、そのまま引き上げられて宙を舞う。
「でっけぇ! って、しまった!」
今まで無我夢中で魚と戦っていたカリーは、大切な事を失念していた。
この巨大な魚をどこに下ろすかという……。
しかし幸運な事に、この桟橋は幅が広い。
そのため魚を落とす事は可能だが、それではせっかく釣り上げた魚が傷ついてしまう。
だがもう遅い。
魚は後数秒もしたらカリーの後方に落下する。
ーーその時だった。
「すっごぉぉぉーーい! おっきぃぃーー!」
突然後方から上がる驚嘆の声。
それはまさにあの時と同じ……。
昔、カリーが大きなマスを釣り上げた時、そっと近づいてきたローズと同じ声と反応である。
咄嗟に振り返ったカリーの目に映るは、あの時と同じ光景。
驚いて目を大きく開いたローズの姿……いや、ロゼッタの姿。
だがあの時とは違う意味でカリーは焦っていた。
なぜならば、このままだとロゼッタが巨大魚の下敷きになってしまうからである。
しかし、ロゼッタは驚きながらも瞬時に魔法を唱えていた。
ーーすると、桟橋上に大きな水の玉が現れる。
「何っ!?」
カリーがそれを見て驚くと、巨大魚はその水の塊の中にザブンっと着水した。
「何とか間に合いましたね。水妖さん、ありがとうございます。」
ロゼが咄嗟に使った魔法は、陰陽師が使える妖術。
水辺にいる妖(あやかし)の力を借りる魔法である。
それは、この町に訪れるまでにローズが身に着けた力だった。
「ロ、ロゼッタちゃん? 凄いな。こんな事までできるようになったのか?」
「はい。これもシロマちゃんとセイメイさんのお蔭です。それにしても、凄い大きな魚ですね。こんなの見た事がありません。」
「あぁ、俺もこのサイズは初めてだ。それよりどうしてここに?」
「御爺様から様子を見てくるように言われたのです。お邪魔でしたか?」
不安げな表情で尋ねるロゼッタ。
それに対し、カリーは笑顔で答える。
「いや、助かった。ロゼッタちゃんが来なかったら、せっかく釣った魚がダメになるところだった。ありがとう。それよりも、この水の塊はどのくらい持つんだ?」
「このサイズですと……三分くらいかと思います。すみません。」
「そんな事ない。十分だ。ちょっと待っててくれ。」
カリーはそういうと、近くの竹林の竹をいくつか切り倒し、それを纏めて凍らせる事で巨大な氷桶を作った。
「凄い! そんな事までできるんですね!?」
「あぁ、普通は戦闘以外では使わないんだけどな。とりあえず移し替えるぞ。」
カリーはそのまま氷桶を水塊の中に差し入れると、水が消えた時にクエールが氷桶に収まった。
「ふう。なんとかなったな。だけど氷が解けるとまずいから、一度宿に戻るか。」
「は、はい。それでしたら私が旅館の者を呼びに……。」
どこか緊張した面持ちのロゼッタは、直ぐに宿に戻ろうとするが、それをカリーが引き留める。
「大丈夫。俺が走っていった方が早いから俺が行く。ロゼッタちゃんはどうする?」
「えっと……待ってます。ここで。」
「待つのか? まぁちょっと急いで行ってくる。」
カリーは、なぜロゼッタがここで待つと言ったのかよくわからなかったが、とりあえず旅館に急いだ。
そして旅館の者が巨大な荷車を引いて辿り着くと、案の定クエールを見て驚愕を露わにする。
その者が言うには、クエールが前に釣れたのは十年以上前らしく、これ一匹で百万円はくだらないそうだ。
しかしカリー達はお金に困っていない。
その為、これは今晩の夕食にしてもらい、残った物は旅館に寄付する旨伝えると、旅館の者は大喜びで戻っていった。
「それにしても、カリーさんは釣りが上手なんですね。」
「ん、まぁな。ロゼッタちゃんは……。わりぃ、何でもない。それよりもせっかく来たんだし、やってみるか?」
ロゼッタに釣りをしたことがあるか聞こうとしたカリーだが、直前で言葉を止める。
ちょっと前まで呪いによって体が弱く、碌に外に出れなかったのだから聞くのが失礼だと気付いたからだ。
そんなカリーの様子を見て、ロゼッタは笑みを浮かべる。
「カリーさんは優しいですね。もし、迷惑でないなら教えてもらってもいいですか?」
「あぁ、いいぜ。だけど、俺から聞いておいて何だけど、そろそろ朝食じゃないのか?」
「そうですね。でも平気です。いつも朝は食べませんから。」
「……わかった。じゃあ食べれる魚を釣ったら、近くで焼いて食べるか?」
「やったーー! それ凄くワクワクしますね!」
カリーの言葉に目を輝かせるロゼッタ。
その素の反応が、カリーにはローズと被って見えた。
しかし、直ぐに首を横に振って思い直す。
ロゼッタはローズじゃない。
そう心に言い聞かせると、それを見たロゼッタが不思議そうに首を傾げた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもないさ。それよりも、シルクに何か言われて来たんじゃないのか?」
その質問を受けて、ロゼッタは数瞬の間をおいて答える。
「すいません。忘れちゃいました。」
そう言って舌を出すロゼッタ。
その仕草もまた、ローズと寸分変わらぬものだった。
そんなロゼッタを見て、カリーは少しだけドキっとしてしまうが、それは完璧に隠す。
「まぁいいか。それじゃ早速釣りを教える。だけど覚悟してくれ。俺は釣りには厳しいからな。」
「はい! 頑張ります!」
こうしてロゼッタとカリーの二人は、昼過ぎまで釣りを楽しむのであった。
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