第25話
僕は彼女を見れなかった。いや、彼女だけではない。僕は視界に立ち並ぶ全ての事物を拒絶していた。広くとられた飾り窓も歯のように白いコーヒーカップも深緑の大人しい観葉植物も、そして勿論彼女も、それらが実体として実在していることを僕は直視していなかった。つまらないB級映画を閲覧している気分。
放った言葉は僕の体外でふわふわと浮かんでは踊った。これが僕の言葉とすら思えない。超自分的な何かが僕にこの言葉を吐き出させてしまうことのほうが信じられた。本当にそうであるならば言葉は僕に何の罪悪も与えやしないだろう。
身体が重いような軽いような不定な感覚が続く。物の遠近も触れる質感も全部ピンぼけしている。このままよくわからない感覚が半永久に継続して、ある時ふと判然と物を知覚できるようになって、その時はじめてあんなことがあったな、そう思えたら良いのに。
「そうね」
シャボン玉が割れたような声が聞こえた。小さくあっさりとした、けれども何かが致命的に失われた声だった。もう既にここには無いことを告げる声。
コーヒーミルクのように彼女の言葉がじわじわと染み渡るのを感じた。何が? 僕は訊きたい。彼女は何に同意したのだろう。何の話をしているのだろう。何でそんな声を出すのだろう。何故?
泣きじゃくる子供のような煩悶が僕をようやく彼女へ見つめさせた。彼女は目を薄く開けて、口を僅かに緩ませていた。それは微笑みのはずだった。
大らかな真鍮色が彼女を包んだ。それはどうしようもない罪人のために祈祷する聖女の、神々しく儚い色。苦しみと赦しを含んだ途方もなく優しい色。しかし絶対に手の届かない諦念の色。
やっと、僕は僕を取り戻した気がした。僕はいま叫び散らしてやりたい心地だ。僕は何をやって彼女にこんな顔をさせているんだろう。僕はどうしてこのままでいるのだろう。いや、問いてはいけない。問う時間は終わったはずだ。答えなければならない。「多分」とか「おそらく」とか「だろう」とかそういう言葉じゃなく。
「い、いや、やっぱり、違う。違うんだ。うん、違うよ」
「えっ?」
「うん、僕は、もう家に帰らない。いま決めた、うん。もう家に帰らないで、二人で日本を旅してやろう。いや、世界でもいい。その日暮らしででも楽しく過ごそう。それをずっと続けよう。僕らのユートピアを作ろうよ」
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