第26話

 心に傷というものが仮にもあって、そしてそれが癒合するということがあるのならば、きっといまこの瞬間のことを指すのだろう。さっきまであった無数のヒビ割れが段々と裂け目自体が融解していって、バラバラになりかけた気持ちの破片がピタリとくっつくのを感じた。それは透き通るほど晴れやかで、呼吸ひとつで身体の隅々までくすぐるようだった。

 この心地はきっと僕の一言で起こったものじゃない。僕の言葉はそれほど強い力を持たない。言葉はトロッコの最初のひと押しのようなもので、それからの清々しさに何の寄与ももたらしていない。

 彼女の微笑みが変わった。それが全てだった。諦念や祈りが夏の海のような光の絨毯になった。黒い夜を破り去り、あらゆる生命がエネルギーを放出する朝が来たのだ。

 

「いいの?」と彼女は玩具を買ってもらう子供のように言った。僕は心地良さに捉われて上手く返せず頷くのが限界だった。彼女は上体を乗り出し手を広げた。僕が神妙に細い両腕のあいだに身体を寄せると手は背中で結ばれ、彼女の頬が僕の頬に触れた。彼女は、ありがとう、と殆ど叫ぶように小さい声で囁いた。

 

 ほんの数秒のはずだけど、僕にはその抱擁が深く永いように感じた。まるで夢の最中にいるように。僕は出来立てのスポンジのような感覚に陥りながら、ある想いが確信となった。

 僕は彼女が好きなのだ。どういう好きかわからないけれど、でも好きなのは確かだった。根拠も論理も充てがうことは出来るけれど、それも要らない。この想いが彼女以外に起こるとは思えなかった。

 僕は今まで人を好きになったことがないといえば嘘になるけど、でも今までの好きはファッションに過ぎない気がした。彼女にこの微笑みを続けてほしいし、微笑みの先に僕がいたい、そう思った。

 触れ合った頬と背中から全てが流れ出る気がした。そして彼女の頬や掌から彼女の全てが入ってくる気がした。体温も感情も感覚も二人の間で一体となっていく。

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