第20話

 僕らはほとりの上の舗道に座った。川の流れは脈々と春らしい。僕はさっきまでの興奮を羽交締めのように懸命に抑え込んでいた。


「それで、家出ってどういうこと?」


「家出は家出。家から出て行ってもう帰らない。そのあいだ日本中を旅するの。最初はここから遠いところでそれから縦断なり横断なりする。きっと楽しいわ」


 彼女は濡れたパーカーをせかせかと絞りながら言った。今すぐにでも飛び出そうとした様子でジタバタした僕の興奮に薪をくべた。


「いや、僕が君についていくかは別として、いくつか聞かないといけない。まずは金だよ、金。僕は無一文で何もないんだ。そんな家出旅行に耐えられる経済基盤がないよ」


「へえ、あんなにカフェに通った割に無一文なのね」


 彼女は悪戯っぽく笑う。


「あれも高校のころ地道に貯めたものを切り崩してるだけなんだ。それも今じゃ二万ちょっと。とてもじゃないけど……」


「あのね、お金のことは心配ない。私の通帳見たらきっと驚くわ。百万円入ってるんだもの。それならね、贅沢しなければ何ヶ月も大丈夫でしょう」


 僕は唖然とした。「本当?」


「本当。ほら、見てみて」


 彼女は右のポケットからびしょ濡れになった通帳を取り出した。文字が歪んでいるが確かにゼロが六つ並んでいる。


「何だってこんな大金を」


「何だっていいじゃん。とにかくお金は沢山あって、それでも不安なら時々日雇いのバイトを二人ですればいい。そうすれば半年ぐらい持つかもしれない」


「……そうかもしれないけど、どちらかの親が捜索願を出すかもしれないよ。そうなると金云々の問題じゃない」


「別に良いじゃない、捜索願ぐらい。家出にそれは付きものでしょう。別に指名手配になる訳じゃないんだから、早めに県を越えればそれで終わり。それとも髪型でも変える? リーゼントにでもすればきっとバレないわ」


 「でも」と僕は呟いてその先に続く言葉がないことに気づいた。暫く沈黙して靄の中を手探る。


「でも、大変だよ。浪人生が二人だけで家出なんて。僕らはまだ子供で、何もないんだから」


「大変? 今より大変なことって何があるの? 私、君の状況はまだ知りきってないけれど、君が川に突っ立ってそのあと何をするつもりだったのかはどうしようもなく分かっているつもり。ねえ、今の君より大変なことって何なの?」


 僕はまた黙った。言葉に窮したというより心の深いところを揺らされてその反動で喉がつっかえた。


「それに、私たちは何もない訳じゃないわ。私たち、実は十八よ? 高校だって出ている。言ってしまえばいつ社会に出てもおかしくない無職なだけ。バイトもできるし大概の施設から断られることもない。それに若さもある。この旅がどういう方向に傾いたところできっと大丈夫」


 僕は川を眺めて何も言わなかった。川は上流に始まり下流を辿って海に出る。線路だってそうだ。始発からいくつもの駅を挟んで誤差なく終点だ。世界はそういうシステムで回っていて、与えられた役割をこなすことで世界は保たれる。けど僕は川でも線路でもない!


 僕は一度しっかり頷き立ち上がった。「行こう」。


「やった! そうね、いつ行こう!」


「勿論、今すぐ」


「そう、そうだわ! 今すぐ! それ以外信じられない!」


 びしょ濡れた二人の若者はこうして歩みを進めた。勇み足でそれでもひとつひとつ踏みしめた。コンクリートには濃い黒玉模様がふたつ続いて、僕は初めて僕という足跡を刻んだ気がした。

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