第19話

 彼女に話しかけられ僕は驚きと不思議と妙な感動でいっぱいになった。彼女はほとりの坂の上部に忽然と立って、道沿いの灯りの白線がいつもの水色のパーカーとジーンズのシルエットを強調している。


「何、してるの? こんなところで」


 彼女はもう一度訊いた。僕はミキサーで粉々に混ぜられた感情で思わず「見ればわかるだろ」と喉まで出かかったが、よく考えると意味不明な言動で、途端におかしくなって笑った。

 

「水浴びしてるのさ!」


 僕は数年ぶりのはしゃいだ声で叫んだ。彼女は一時きょとんとしたがすぐにふんわりと微笑み、そして返した。「面白そうね!」

 彼女がほとりを下ってくる。その勢いといったら多分僕の時よりも大胆で激しく、まるで内から溢れる衝動が身体のすみずみまで行き渡っているようだった。僕は籠に飼われている小鳥が空に飛び立つ瞬間を思った。


 疾風のようにほとりを駆け抜けた彼女は僕をすぐに追い抜いて、深底のあたりまで突入した。

 「危ない!」と僕が叫ぶのが早いか、彼女の身体はドボンという音と一緒に頭まで沈んだ。僕は必死に手を伸ばすがジタバタする彼女の両手と調子が合わず、朽ちた木片のように役に立たない。僕は意を決してあんなに躊躇した残りの数歩を進んだ。

 

 五歩目だっただろうか。世界に急な穴が穿かれたように肉体が落ちた。視界が淡いもので覆われた。それでもパニックにはならず僕は同じく穴に落とされた彼女の身体を探した。

 水が痛く目を閉じたものだから右手は空を切るばかりだった。左手はまだ浅い箇所を掴まえている。この左掌の土の感触が僕をなんとか冷静にさせていた。

 

 深底に入った時とはまた別の、強い引力が僕を襲った。それはTシャツの裾のほうからやってきて思わず左手を離した。目も開けてしまって混乱の水流が頭まで入り込む。何も見えなければ何も聞こえない。ああ、こうやって僕は死ぬんだなんて、微かに保った理性が呟いた。


 裾からの引力が消え、かわりに別の力が僕の肩を軽く跳ねた。そして力は形を変え、肩にへばりつき、僕を引き上げた。

 うつ伏せになった上体が浅瀬に打ち上げられ、ちょうどビート板で泳ぐような姿勢になった。外気に晒されるとようやく思考にしっかりとした温度が巡った。


 辺りを見回すと、隣に彼女がいた。彼女も僕と同じ体勢で、楽しそうに笑っている。


「びっくりした! 急に深くなるんだもの」


 彼女の両手はぱしゃぱしゃと興奮し、ただでさえ濡れきった彼女の上体にさらなる潤いを与えた。真っ暗なはずなのに、彼女はより白く輝いて見えた。


「やっぱり君だよ! 君しかいない。一人じゃやっぱり辛いもの。お金は余裕があるかもだけど、それでも寂しさはお金で埋めれない! ねえ、一緒にどう? きっと楽しい、私が保証するから!」


 僕はこんがらがって「何が?」としか返すことができない。


「何がって、家出よ! 一緒に家出するの。列車で日本を旅して、見たこともない夕日を見て、出逢ったことのない人たちに出逢うの。どう、面白いと思わない?」


 彼女を纏った水の宝石はそれぞれに異なる色彩を放ち華やいだ。それでも彼女自身の、目まぐるしく強烈なカラフルのパレードには及ばない。魅惑な色たちの行列が、僕を繋いだ全ての鎖をいとも簡単に引き裂いてくれるようだった。

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