第18話

 二階に上るともリビングに留まるともなく外に出たのは煙が気流の通りを抜けるのと同じ理屈だった。それなりに立派な一軒家のどの窓もひどく硬く閉じられている気がした。もしこの家でまともな呼吸をしたければ玄関の扉を開けるしかない。

 リビングを出て玄関を開けても誰も何も言わなかった。ただドアの取手に力を込めた瞬間、舌打ちのような音が聞こえた。それは裁判官が木槌を叩く音で僕はまたひとつ罪が課されたことを悟った。

 

 外は晴れて、しかし昼に溜まった湿気で粘っこい。少し動くだけで水を掻き分けるように身体の重さを感じる。それでも所在なく歩くと道は進み、日と影の明滅が僕を導いた。

 僕は白んだり暗がったりするコンクリートと目を合わせながら脳中にこびりつく音を引き剥がそうと必死だった。左右に首を振ったり、掌で頭を何度激しく叩いても、やはり音は消えない。それどころか音は段々と深刻な響きを伴うようにさえ感じられた。


 耳かきでも届かないような奥中に、低空歩行で踵の擦り切れる音と先の舌打ちがてんでランダムに奏でられる。


 ザッ、ザッ、ザッ、チッ、チッ、チッ。

 チッ、ザッ、ザッ。


 何故だか僕は無性に誰かと会いたくなった。相手は僕を知っている誰かでもいいし、僕を知らない誰かでもいい。別に話をしなくてもいいし、むしろ黙って僕が俯くのを放って欲しかった。傍らに誰もいない暗鬱は僕をとんでもない破滅に連れて行く気がした。

 

 いつのまにか太陽が落ちて、僕は名前も知らない川のほとりに腰を下ろした。

 浅く、深呼吸をしてみた。底の深い下流の境界は朧げでせせらぎぐらいしか距離がはかれない。もう舌打ちも消えて、寂しさや暗鬱さもない。ただ真空の思考と感情とが僕にはあった。


 落ち着いて一度止まった思考のネジをまた回してみる。ネジはゆっくりと動き始めた。考えるべきことは沢山あった。

 まず、家に帰るかどうか。でもこれは帰らないと仕方がない。僕はいま立場もなければ金もないのだから。仮にこのまま家出みたいなことをして、野垂れ死にできるかすら怪しい。母はきっと体裁のために僕を探し出して、和明はきっと蔑んだ目を向ける。父は……知らない。

 じゃあ帰ったらどうするか。これも昨日までと同じことを繰り返すだけだ。予備校に通い、できれば県外の大学を目指す。時々絵を描いて憂さ晴らしができればいい。たまに和明から嫌味口をたたかれ、母は憐れみのような視線を向け、父の判決を刻々と享受する。それがあとたった九ヶ月繰り返されるだけだ。

 大学に入った後は。それは多分、普通に授業受けたり、サークル活動をする。その時僕はきっと家庭からの縛りからは脱却しているはずだし、自由そのものだ。何をしようか。でも多分、何もしやしないだろう。そして時期が来たら就職活動に切り替えて……。


 思考を一巡りすると、どうやら僕にはある決まった線路しかない気がした。僕は多分、色んなものが怖くて、嫌いで、でも逃げるとか反発とかの道はなくて、なぜなら僕はまだ何も持ってなければ線路から外れた先の道すら描く覚悟がなくて、ならば僕に残されたルートは色んなものからの加圧を一程度受けながら、大人になるとともに圧力の4LDKから少しずつ遠ざかるしかない。そうやって泥だらけに逃げることなく、かといって猛然と反発することもなく、緩やかな抵抗と従属をこなしていくのだろうか。

 自分の予見された世界を考え終わると、その日一番の深い暗鬱がやってきた。いや、暗鬱と称するには遥かにはっきりとした硬いものがあった。しかしその感情に名をつけるほど僕には僕への度胸がない。

 

 立ち上がって片足を上げた。ほとりは坂になっていて重心を前に向けただけでずんずんと川へと近づく。転げ落ちそうなほどの力が背中を押して倒れないように足を交互に差し出すと、あっという間に冷水が足の甲にまで浸食した。

 坂の勾配はなくなって僕は川の端に佇む状態となった。まだ川は浅く、もしやるのなら、あと数歩は進まなければならない。あと数歩でこの情けない身体も頭もどっぷりと水に浸かるはずだ。そしてその数歩は、少なくともその数歩だけは、僕の意志の他ならないはずだ。

 今度は強く深呼吸をした。ほとりを下るより高く右足を上げる。細く弱々しい肉体のどこに核があるのか分かる気がした。そして僕はその核を徐々に傾けていく。


「何、してるの?」


 遠く後ろから声がした。僕はとっさに振り返った。彼女がいた。僕は泣きそうだった。

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