第17話

 粗雑なドレッシングのように混濁したこの空間で、僕はただ消えたように存在していた。母のヒステリーな泣き声も、父の舌打ちも、二階で物が壊れる音も、全て耳にしながら全てを聴かないようにしていた。

 ただ音を音とだけ認識するように努めて、身体の輪郭を少しだけぼかしていく。すると意識は身体から抜けて、五感と感情の鎖を切り離す。あとは残った思考でできる限り愉快な妄想に費やした。

 予備校の成績が伸びて、ひょっとしたらとんでもない大学に行くんじゃないか、という妄想。画材屋の店長がサービスして飛びっきりの油絵具をくれる、という妄想。……彼女の見せたあの色彩の洪水がいつしか僕のものになっている、という妄想。

 妄想に妄想を重ね、けれども目の前の世界の、どうしようもない鈍化だけは止められなかった。鎖を切っても切ってもその核の鎖は、僕の意識を感情の黒波に連れていく。

 憂鬱が僕の右手を引く。怖い。冷めた両手が僕の首を掴まえる。怖い。顔が近づき、黄ばんだ歯群が僕の耳たぶを噛み尽くす。怖い。

 なにもかもが怖い。この世界そのものが、全勢力を挙げて僕を奈落に堕とそうとする。真っ暗な洞穴から、幾万の眼が僕を覗き込む。そうして長い舌を伸ばし、僕を舐めて味見する。老婆が近寄り、僕の価値を述べる。1ドルと20セント。いつかの悪夢。僕は憂鬱の奴隷になる。

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