第9話

 僕と彼女において、これがはじめて彼女の内面に踏み込んだ瞬間なのかもしれない。これまで二人の会話は、僕についてのことばかりで、彼女のことを知る機会は殆どなかった。別に恋愛感情とかそういうものではなく、あと一年は付き合う友人としてもう少し彼女のことを知ってもいいだろう。

 しかし彼女は、もうさっきの話は終わったとばかりに最近公開された映画について語っている。僕は適当に相槌をうって画材屋を目の端で眺めた。画材屋はその日、シャッターがかかっていた。




 結局、映画の話で会話は終わった。僕は家に帰り、飯を食べ、風呂に入った。その間もテーブルの隅や、沸き立つ湯気をみつめながら彼女の姿を思い浮かべていた。そうやって頭に浮かぶ彼女は、だだっ広い水平線のような、現実的にも幻想にもなりうるような未知の求知心の象徴だった。

 風呂から出ると、僕は特別なことがない限り自室にこもる。別にやましいことがあるわけでもないけれど、家族の、なんとなく僕に対する視線が嫌いだった。


 部屋に入ると、弟の和明がいた。隠していた画材をわざわざ取り出して、まじまじと観察している。戻った僕を、まだ絵なんて描いていたんだと言わんばかりに一瞥しだと思ったら、今度は筆を取り出して左掌にぽんぽんとあてた。筆から、声にならない悲鳴が聞こえた気がする。


「ねえ、竹内秋って、知ってる?」


 和明は藪から棒に切り出した。筆から微かに前の絵の具の粉が舞っている。

 僕は「誰それ」とあしらって、和明の手から筆を取り上げ、画材入れにしまう。それでも和明はにやっとしただけで、話を続けた。


「ほら、茶髪で、くりっとした目で、肌が白くて———」


「知らない」


 さっさと出て行け。そういう言葉が喉元にまで迫っていた。僕は和明が家族で二番目に嫌いだ。地頭がいいのかしらないけど、見下して、人を馬鹿にしたような態度で、全てが自分の思い通りにいくような雰囲気で……そして現にそうなっていて。

 和明は僕のそういう思いをわかっているのかいないのか、くすくすと腹で笑ったような表情だ。次に何か画材に触れたら殴ってやろう、そう思った。


「いやぁ、どうかなぁ、知ってると思うんだけどなぁ。知らないかなぁ、ほら、一点を猫背になって見つめる癖のある」


 彼女のことが走馬灯のように蘇った。


「……よくわからないけど、そのひとがどうしたの」


「知ってるの? 知らないの?」


「……知っている、かも」


 和明はいよいよ腹の笑いを大きくしたように、整った顔立ちを僅かに歪めた。

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