第8話

 予備校は午前の八時から始まる。最初は諸連絡と、その後短い自習。僕はその諸連絡と自習の間の小休憩にそそくさと教室を出て、館内におかれた自販機から百二十円のコーヒーを買うのが日課だった。短期間で仕立てたルーティンではあるけども、僕はなかなか気に入っていた。

 百二十円のコーヒーは甘ったるくて、雑な味だ。僕はそれを休憩ごとにちびちびと飲んで、一日かけて空にする。そうすると甘ったるさも雑味もすべからく緩和され、ちょうどいい糖分を摂取できるのだ。

 ある日、僕がそのルーティンのはじめの一口をつけると、彼女が注視しているのを感じた。また前のめりになって、獲物を狙う猫のような体勢だった。

 あれから、僕と彼女の間に妙な習慣が生まれた。あの時と同じ金曜の夜に、あの時と同じ喫茶店で、あの時と同じ画材屋を眺める席で、一時間くらい話をするのだ。べつにきちっとした約束をしたわけじゃない。けれども日を跨いでいくつかのたまたまが重なって、自然と金曜の夜にあの喫茶店のあの席で彼女を待つことが当たり前になった。

 そういう習慣があってわかったことなんだけれど、彼女はこういう前のめりの姿勢になる癖がある。目を開いて、背を丸めて、そして大概、そういうときは口数が少なくなる。彼女が猫だったらラグドールだろうな、なんて考えながら僕はいつもより多めにコーヒーを飲んだ。コーヒーの微弱な香りと、適当に作られたキャンディみたいな甘味が奥歯のあたりを包み込む。



「癖って?」


 その日が金曜だったので、僕は思い切って彼女に癖のことを尋ねた。店内で流れているジャズの軽妙さが僕の背中を押したのかもしれない。しかし彼女はきょとんとして、つけあわせのガトーショコラをほおばっている。


「今日もしてたよ、僕が今朝、自販機のコーヒー飲んでいる時に。前傾姿勢で、何も言わずにじっと見つめているんだ」


 彼女はふーん、とだけ呟いてまたガトーショコラを食べた。雪のような粉砂糖が淡いピンクの唇の右端にやわくくっついている。


「多分、色を見ているんだと思う」


「色?」と僕は聞き返した。


「うん。変に思われるかもしれないけど、人には色があって、私にはそれが見えるの。例えば、同じクラスの松原は生っぽい黄色、猪飼さんは渋い紫、あそこの部活帰りの女子高生は明るい紺色……みたいな」


 今度は僕がふーん、と呟いた。けれども内心は穏やかじゃない。運命と表したら大袈裟だけど、偶然と済ませられない気持ちの昂りを感じた。心臓がうるさく喚いて、僕の口を震えさせる。気を紛らわせようと飲んだアメリカンコーヒーは名一杯に苦くて、僕はミルクを存分に注いだ。


「そういう人、いるらしいね、時々。なんか少し羨ましいけど」


 僕はミルクをかき混ぜながらそう返した。僕も同じだ、なんてわざとらしいことは言えない。慎重に、言葉を選んで、他人事のように。


「へぇ。そうなんだ。珍しいかも、とは思ってたけど」


 彼女は素っ気なく言った。照れ隠しのようでもなく、本当にそう思っている感じだった。

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