第6話

 その日、僕は早めに自習を切り上げて駅近くのデパートにいった。理由はなんとなくだった。なんとなく、田舎の雑多なデパートにこの身体を任せたかったのだ。こういう欲望は普段からあったのだろうけれど、その日に限って僕はデパートにいった。ふとした欲に委ねるほどの精神的なかろやかさがこの日にはあった。

 浪人という身分のためかデパートはやたら華やかにみえた。心なしか明かりは強く、ロゴのピンクやらレッドやらの派手な色遣いはとびきりに話しかけてきて、僕の世界との違いをまざまざとさせた。見かける人たちもここ数日とは違う人ばかりだった。清潔で、洒落てて、どこか人の目を気にする余裕があった。

 そんな異界を僕はあえて堂々と歩いた。肩を横に伸ばし、目線を少し上に向けた。自分の置かれた立場を忘れて、ハリウッドのように化粧品売り場をくぐり抜ける。ああいう環境に浸るとどうしてもあの老人のように背がくるまってしまう。彼がどういう歩き方をするのかは知らないけれど。

 目線を上げると、いろいろなものがみえた。服の陳列とショーウィンドウ。それをみて話すカップルと、二人に目をやる店員。全てが連鎖的に作用していて、人も空間もしっかりとしたかたちに保たれていた。当たり前だけれど、彼らもこの場所も存在していた。しかも、それまで僕の頭のうちでぐるぐるとしていた思考や概念とは全く独立したものとして。

 ここにいると僕の周りの鬱蒼とした世界が萎むように縮小されて、それがなんとも心地良かった。浪人のことも、家のこともすべてちっぽけな事情で、それらを投げ出しても世界はまわっているのだと思った。だとしたら、僕を囲む「現実」は意外と穴だらけで、隙間があって———

 僕がそうやって僕の世界をひとつひとつ壊している間、二階の隅っこにちょうどいいカフェをみつけたためそこでコーヒーを頼んだ。一番安いコーヒーを一番窓側の四人席で飲んでいると昔通った画材屋が目に入った。僕は吸い込まれるように感慨もなくそこをただただ眺めてしまった。

 画材屋は相変わらずの様相だった。ぼやけた硝子とこげ茶まじりの白壁、やや傾いた看板。たてつけの悪い扉を開くと売れない画材が所狭しとならんでいるはずだ。屋内は一日中ジャズが流れていて、カウンターの店長はいつもサイダーばかり飲んでいる。昔ながらといえるぐらいには古くて、レトロといえるぐらいには洒落ていた。高校のときはそれが溜め息を浮かべるほどかっこよく感じていた。


 コーヒー一杯分は画材屋を眺めた。一つの場所をずっと眺めると連続写真のように捉えられて、それぞれが違う国の、違う時刻の出来事のように思えた。僕はそういう刹那の連続に、あれはパープル、あれはイエローなんて適当な色をあてては楽しんでいた。大概は若者が通ると暖色になって、大人が通ると寒色になった。明らかに自分と同じような浪人が通ると、自然と灰色混じりの色をあてた。

 暫くすると、徐々に暗い色ばかりあてるようになっていて、気づけば空はすっかり夜だった。コーヒーもちょうどなくなっていた。画材屋はもうあんまりみえない。

 そろそろ帰ろう、そう思い顔を正面に据えると、ビクッと心臓が震えた。正面の相席に彼女がいた。

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