第5話

 あれからどういう訳か、少しずつ彼女は僕に話しかけるようになった。といっても気にかける程度の内容で、僕よりも他の人とよく話していたし、多分、高校生の時もそういうことをしていたんだと思う。何気ない暇つぶしだったり、いらぬ気遣いのつもりだろう。

 彼女は毎回、気が向いたように話を切り出す。そのどれもが脈絡のはっきりしないものだけれど、僕がそれになんらかの反応を示すと、それに応じて彼女は微笑んだり眉をひそめたり、素直な顔色をみせた。

 今思えば彼女の気まぐれで少し素直な性格によるものなのだけれど、当時の僕は複雑な心境だった。毎度変に緊張して、やはり早口で返しすと、また眉間のあたりで彼女の意図を探った。奇妙で、溶けきっていないわだかまりだけが鳩尾みぞおちあたりに沈澱していた。

 この頃、彼女への恋愛感情は全くといっていいほどなかった。あの光景から憧れに似た感情はあったけれど、異性としてみたことはなかった。しかしそれでもいちいち緊張してしまうのは、彼女の内に秘める魅力によるものなのかもしれない。憧れという本能をむりやり理性で蓋をしていたのだろう。


 

「何で浪人したの?」

 

 ある日の昼休み、降ったように声が聞こえた。彼女の声だった。左を向くと彼女は此方を向いていて、どうやら僕に話しかけたらしい。なんでもないようなことを聞いたようで、それでも少し気にかけている顔だった。

 失礼な話だが、その意図は何となくわかった。僕の出身校はいわゆる就職校で、手に職つける卒業生が多い。そうでなくても大概はよくわからない私立に入学する。だからこうして浪人した僕が不思議なのだと思う。

 僕は「現実逃避だよ」と言葉を放り出して、あえて眠そうに欠伸をした。眠気なんてないが、あまり触れてほしくない素振りをしたつもりだった。ぎこちなかったせいか、顎がガクッと小さく鳴った。

 浪人は父からの反対を押し切った決断だった。背伸びをして受けた国立に落ちてへこんでいた僕へ、父が語りかけたのは「私立でいいじゃないか」という一言だった。父は新聞を広げ煙草をくゆらせながら、馬鹿に一瞥もせずそう云った。僕は頭にきて私立には行かなかった。父が放った言葉よりも、面倒な判断を押し付けられたようなその態度が嫌だった。

 眠い素振りがうまくいったのか、彼女は尋問することはなかった。その代わり、「似たようなもんだね」とまた軽く笑った。蜜柑の皮を勢いよく剥いたような爽やかな笑みだった。なんでもないようなことを訊いて、なんでもないような返しをしたような振る舞いを彼女はした。はたから見た分にはそういう感じだったと思う。

 けれども僕は、その笑顔や仕草がおそろしいほど悲しみを帯びたものにみえた。目も口もえくぼだって微笑みを繕ってなんでもない昼下がりを演出しているのに、その瞳の奥から遠い、悲哀の底が顔を出していた。真夜中の深海のような深い感情だった。

 瞬間、再び色彩が僕を襲った。けれども今度は、暗い色ばかりの連なりだった。うすぼんやりしたブラックと、ざらついた藍色、深刻なブラウンらが僕のやせっぽっちな身体を掴んで、その奥の水溜りをバシャバシャとかき乱す。

 僕は直感的に、鳩尾あたりに溜め込んだ感情が溢れた。嫉妬の鍋蓋が開いて、彼女への憧れと、好意と、少しばかりの同情が胸をついた。ああ、そうか。彼女も一緒なのだ。僕と同じ、現実の檻に押さえ込まれた哀しい人間なのだと、根拠もない親近感が僕を訴えた。

 僕は阿呆のような反応になった。はっとして意識を戻したときには、彼女は別の人と話していて、僕は予告通りうつ伏せになって目を閉じた。胸の内は強く鼓動が跳ねていて、言い知れない多幸感が僕の呼吸を微かに乱していた。

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