神ノ戯曲 VS 醜悪豚男<ピッグマン> MADONNA DEL PESCE

第29話 地下墓所で【神】は笑い、迷人は踊る

 同時刻――ラビュリントス最奥付近にて。

 もう一つの――この迷宮最大の戦いが始まろうとしていた。


「うめぇ……こんなにうめぇ話はそうそうないぞ……」


 俺は、豚マスクの籠った声で、舌なめずりをしながら鳴く。


 この業界に長くいると、時にすさまじく『おいしい』場面に出くわすことがある。


 業界最初のインフレーションは、動画配信だったと聞く。

 五十年くらい前、米国世界規模のテクノロジー会社が大手動画配信会社の運営を初め、条件を満たした動画投稿者に対して再生数に応じた金銭を支払った。


 それにより、ただの趣味や豆知識やらゲームの実況プレイなんかを披露していたマニアやらオタクといった連中は一躍スターとなり、持て囃され若くしてそこらの下手なタレントやら俳優なんかよりも稼ぎに稼いだ。


 そして、それ以降、この業界にはそんなおいしいものが現れる。


「奴はよくアバターデザインを変える。だが、胸に小さくあるイクソスのマーク――それが変わらない奴のシンボルだ」


 イクソスを持つそいつこそ、現在世界賞金獲得ランキング一位、前代未聞の四連覇を成し遂げたプロゲーマー『クライスト』。


 あらゆるジャンルのゲームの記録を更新し、ゲームならジャンル問わず何でもこなし、どこでも優勝する最強―—まさに現代の『奇跡』。


 だが、奴には『大会荒し』の異名もあり、アンチは大会運営者の中にもいる。


 そりゃそうだ。大きな金が動く大会では、その裏で必ず賭博も行われている。奴によって大損した奴もいれば、奴によって運営を邪魔された者も多い。


 そんな、奴に優勝されるのが面白くない連中は裏で結託し、クラウドファンディングを利用して『クライスト』に懸賞金をかけた。


『どんなゲームでも良い。クライストが惨めに負けるシーンを動画に収め、世界中にアップしてほしい』


 ようは、奴の強さを否定し、その鬱憤を晴らしたいのさ。奴の強さにケチを付けて、みんなでよってたかってイジメたいのさ。


 そしてその懸賞金は、奴が勝てば勝つほど膨れあがり、その額はついに、一千万ドル越え。


 おいしすぎる! あいつを倒して世界中に公開するだけであとは一生遊んで暮らせる。この大会の優勝賞金に比べれば『薄味』だが、こんな勝ち進めるかどうかもわからず、半年間も行われるものよりも遙かに吸収率こうりつが良い。


「さらに、公式大会で――しかも予選で落としたとなれば、ボーナスもつくかもしれない。こんなのうますぎんだろっ!」


 思わずこのブタ戦士のアバターも、俺に連動して舌なめずりをしてしまう。

 もちろんこんな醜いブタの恰好をしたキャラクターにしたのも、クライストスの人気を貶めるためだ。


 どこまでも惨めに、どこまでも凄惨に奴をキルする。

 そうすればそうするほど、俺と言う存在が際立つ。


「現実世界で誰かを殺したりすれば殺人鬼呼ばれSNSで全世界の晒し者になるが、この世界ゲームで殺せば大英雄――金と一緒に名声まで転がり込んでくる。それがこの腐りきって、狂ったこの業界の真の姿だ」


 俺は普段、違法なRTAで荒稼ぎをする無法者連中と徒党を組み、五連覇を狙うクライストが絶対に参加するであろうこの『セイグリッド・ウォー』の予選に参加した。


 しかも、今の俺達には、どのタイミングで奴が予選に参加するかもわかる。


「ほんと、『トレーサープログラム』はおいしい代物だぜ」


 突然宛先不明の匿名メールで送られてきたチートプログラム。フレンドになった相手の視覚情報を盗み見ることができるこのプログラムを使えば、何百、何千というプレイヤーから情報を受け取ることができる。


 今の時代はその膨大な情報処理も、AIに『イクソスのエンブレムを付けたプレイヤーを探せ』と命令すればいい。


 そして、俺達は徒党を組み、互いの目を使ってこの世界大会予選の初回に参加したことを知った。

 すぐに迷宮内でも集まり、遂に奴を見つけ、この迷宮の奥にまで追い込んだ。


 ならず者、無法者で各大会で問題を起こしたプロ崩れで構成した部隊。その数なんと総勢五十人。


 これだけの数に囲まれて、生き残れる奴なんて、この世界にはいるはずがねぇ!


「ひゃっひゃっひゃ! これで宅送配膳デリバリーで貯まっちまったカードの借金ツケも返せるし、メディアにも引っ張りダコだぁ!」


 おいしすぎる! こんなもん、やらねぇやつは馬鹿だ!


「奴はこの奥の空間で座っている。一人だ」


 先遣隊の映像を残った全員に知らせる。

 奴の武器はバトルアックス。何の酔狂かしらねぇが、銃が定番のこのゲームで、そんな武器を選択したお前のミスだ。


 せいぜい、クライアント様の溜飲が下がるように徹底的に嬲っていじめ抜いて無様な様を全世界に晒してやるぜ!


「ねぇ……早くおいでよ」


 俺達大隊が先遣隊に合流すると同時に、迷宮の最奥――大きなドームのような空間に、クライストは待っていた。


 赤い腰巻きに古代の戦士を思わせる『剣闘士』の格好だ。


「ここは迷宮の最奥――いや、きっとここが、彼にとっての安息だったのだろうね」


 この目ではっきり見える。胸には確かにイクソス(魚)のエンブレム。


 それにこの落ち着きように、しゃべり方――間違いない! 奴は正真正銘のクライストだ! 唾液がとまんねぇぇぇぇ!


「ラビュリントスとは、呪いによって生まれた醜い怪物――ミノタウロスを幽閉した脱出不可能な迷宮。だが、それは彼を閉じ込める場所ではなく、守るものだったのかもしれない。親の不義理によって生まれ、親に愛されず、怪物として扱われる彼を――迷宮の建造者にして偉大な発明家であり、嫉妬深い性格が災いして祖国から追放されたダイダロスは――同じく独りぼっちになったアステリオスを憐れみ、この部屋を作ったんだ。決して彼を、ミノタウロス(怪物)として、殺されないように願って……」


 迷宮とは思えない広い空を映し出す天窓と光。

 部屋の入り口からは風が吹く。


「そして、ここはその怪物が唯一、ダイダロスの愛情を感じた場所だったんだ」


 暗い迷宮とは不釣り合いの、明るい天の光が差し込む場所で、奴はそう言って微笑んだ。


 ……なんだそりゃ?


 こんなたかがゲームに何空想してんだこいつは?

 これが世界最強のプロゲーマー? とんだメルヘンやろうじゃねぇか。


「あの子にもみせたかったな――見てよ、アステリオスはここでずっと夢見ていたんだ。あの子が思った通り、怪物は寂しかったんだね」


 奴が指さす方向には、壁一面に、子供のラクガキがされていた。

 大きな大きな牛の頭をした大男の周りに、たくさんの小さな――おそらく人間が輪を囲んで踊っている。


「アステリオスに、もう少し勇気があったのなら、本当に彼はギリシア神話で怪物ではなく、英雄になれたのかもしれないね」


 さっきっから、何言ってんだこいつ?


「くだらねぇ……本当にくだらねぇなぁ……」


 俺は銃を構え、ゆっくりとそいつに近づく。


「たかがゲームに、たかが誰が作ったのかもわからねぇ他人の空想に、お前等はよく感動だのできるよなぁ。正直言って、そういう考察だのを聞くと、生臭さで反吐がでるぜ」


 制作者の作る物語が深いだの、再現度が凄いだの、設定が細かいだの――そんなもんただの『無味』じゃねぇか。その癖、生魚の腐った臭いだけがしやがる。


 俺はなぁ、そんなもんを欲してるんじゃねぇ。欲してるのは楽して手に入る『大金うまみ』だ。


 そして、それは今、テメェの命だ!


「やれええええええええええええええ!」


 俺の号令に、他の奴らが特攻をかける。


 奴を囲み、傷つけ、その骨にこびり付いた肉一片までしゃぶりついて、貪ってやる!


「……もう、この迷宮には怪物はいない。この迷宮は、主を永遠に失った戦乙女が言ったように地下墓地カタコンベだ。ならさ……こう考えたんだ」


 奴に狙いを定め、引き金を引く。

 銃弾が飛び出し、奴に向かって突き進む。



 奴の銃弾がまるで蠅でも叩くかのように、その斧に防がれる。

 だが、それよりも驚いたのはその動きじゃない。


 奴は払った斧の重量に振り回され、高速で横へとスライドする。


 突然の高速でかつ変則的な動きに、先頭の三人が呆気にとられていると、奴はコマのように回り出し、それは巨大な竜巻のように押し寄せ、その三人の足を切り落とす。


「ぎゃああああああああ!」


 まるで本当にやられたかのように三人が叫ぶ。


 更に奴はそのまま風のように滑り抜け、一人の兵士の腕を切る。その隙を突いて一人が撃つが、その頃には奴は再び斧の重量を使って上へと逃れる。


「なんだ……これ……」


 こんなの人間のできる動きじゃねぇ。

 こいつの動きには、普通じゃないなにかがある!


「うぎゃあああああああああああああ!」

「ひゃあああああああああああああ!」


 次々と仲間が倒れていく。囲んだと思っても、あの大きな斧が簡単にその有利を覆す。


 味方諸共吹き飛ばそうと手榴弾を投げた奴がいたが、奴はまるで爆発範囲がわかるかのようにギリギリで躱しては、息つく必要も無く仲間の腕や足をスプラッター映画の化け物よろしく、容赦なく非情に仲間の四肢を切り落とししまう。


「クソ! ふざけんな! ふざけるなぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!」


 錯乱した奴がとっておきの重機関銃ガトリングで撃ちまくる。何人かは巻き添えを喰らう。

 危なく俺にも当たりそうになったが、クライストには当たる気配がまるでない。


 奴は重機関銃ガトリングの射程が回るより早く、銃口の横へと滑り込むと、あろう事かその銃口を足で蹴り上げる。


 男が重心を失い倒れる。

 止めにその足と手を家畜の足でも取るように、簡単に切り落としてしまう。

 巻き添えを喰らって怯んだ奴らも、クライストは容赦なく丁寧に足と手を切り落とす。


 あの小さな奴のアバターが、まるで襲い来る小悪鬼のように――次々とハイエナ共の数を減らしていく。



――力の差が、違いすぎる!



 まるでワシがネズミを捕まえつように? 違う。これは捕食なんかじゃない。

 蜂の巣を守る雀蜂のように――違う、あれは蜜を守っているわけじゃない。


 だけど、知っている。あの衝動を。あの行動を。


「そうだ……あれは、子供が蟻を丁寧に捕まえ、触覚を契り、悶える姿を楽しんだ後で、親指でつぶすような……」


 そして奴は、そんな何人もの兵士の手足を切り落とし、泣き叫ぶ恐ろしい地獄のような光景を作り上げながら……


「あははははははははははは!!」


 クライストは嗤っていやがった!!


「そうだ……無邪気で……夢中で……それゆえに残酷な……」


 それは幼い子供の笑顔だ。

 罪も罰も、善も悪も知らない、無知故に何でもできる怪物だ!


 その頃には、俺の頭には賞金だの、名声だのというメハニーシロップよりも甘い考えは吹き飛んでしまった。


 俺が集めた、性格に問題こそあるが、それ故にスポーツマンシップだのと宣う馬鹿達よりも頼りになる兵士達のそのほとんどがやられちまった!


 みんな手足を切断されて、その辺に転がらされている。


「ちくしょう! ぶっ殺してやる!」


 俺はあんな惨めな『東洋の達磨おみやげひん』みたいになるつもりはねぇ!


 それに、俺にはすべてのやられた奴らの映像を見てわかったことがある。

 奴の強さの秘密はあの長重武器だ。


 あんな武器を使う奴がほとんどいねぇから、奴の次の動きがわからず、一薙ぎの広い攻撃範囲に戸惑いやられるんだ! 


 だけど、よく見れば隙はある――振り下ろした後の左わきがガラ空きおいしいじゃねぇか! 他の奴らはできなかったが、俺ならあの攻撃をギリギリ紙一重で躱して貪ることが出来る!


「うおおおおおおおおお!」


 俺は奴に突撃し、そのバトルアクスをスライディングで避ける。


 なんてやつだ! ギリギリの所で手首を捻って軌道を歪めやがった!

 人間にはできないような手首の柔らかさが、まっすぐ振り下ろされるはずの剣線を生き物のように歪ませる。避けたと思ったら、斧の刃が絡みついてくる。


 他の奴らは、この動きに対応できずにやられたんだ!


「だが、俺にはそれが見えていた! 紙一重で躱せた! 死にやがれぇ!」


 俺は銃を放つ寸前に――奴がこちらを見ているその目と目が合った。


 次の瞬間には俺の銃弾が飛び出すが、振り下ろされた斧の柄で数発弾き、さらに打ち付けた斧の衝撃と体の捻りを利用して、するりと銃口の横へと抜ける。


 まるで中華の雑伎団のような、体の柔らかさだ。人間業じゃねぇ!


 そして、その時になってようやくわかった。


 あの晒した隙は、おいしいものなんかじゃねぇ。

 アレは餌だ。しかもとびきり痛ぇ返し針のついた疑似餌ルアーだ! 


 躱して狙わせ、それを躱し――体勢を崩し、身動きできなくなった俺を――!


「豚さん……せめて誰よりも大きく、啼いてみてくださいな……」


 奴の斧がまず俺の足を切り落とし、間髪入れずに銃ごろ腕も切り落とす。


 その時――確かに俺は感じた。


「ぶひゃあああああんぎゃあああああああああああ!」


 この口から、信じられない家畜の声が飛び出す。


 足と腕を……やられたのか……なんだ今のは――、一瞬だけ……本当に腕足に感じたような……。


 額に脂汗が吹き出しているのを、はっきりと感じる。


 だが、今はなんの痛みもない。現実の手も足も、ちゃんとキーボードや床に触れている感触がある。


 なのに……本当に今、確かに、を感じた。


 傷口が焼けるような鋭い電気信号シグナルと、生暖かい血が噴き出す感触を、一瞬ではあるが、確かに感じた!


「ありえねぇ、これはゲームだぞ! そんなはずねぇ!」


 もはや心で思ったことが言葉に出るほど余裕がなくなる。

 集めた仲間全員がやられ、地に伏して呻き声を上げている。


 あいつらがやられたときに叫んでいたのは――俺と同じ痛みを感じたからか?


 そして中には恐怖からか、ログアウトしてしまう奴らまでいる。



 そして、この迷宮の最奥の部屋で立っているのは、この怪物だけになった。



「現代では、解明不可のファントムペインって言うらしいよ。学者って意外に馬鹿だよね。だって人間って、熱した鉄板に触れたと思えば、たとえそれが本当は冷たい鉄板でも冷たくても火傷をするんだよ。自分が出血し、その血が流れ落ちていると思えば、たとえ無傷でも衰弱するし、飛行機からパラシュートなしで飛び降りれば、迫りくる死の恐怖でショック死できる。つまりね、脳にとっては現実も真実も意味なんてない」


 なんだそりゃ? でも、そんなの――現実リアルの話だろ?


「そうだね。でもさ、例えゲームでも、感情だけは『現実』なんだよ。このゲームが精巧リアルであるほど、あなたが僕(私)に恐怖を感じれば感じるほどに――それはどんどん現実リアルになっていくの」


 手が震える。唇も震え、恐怖から寒くもねぇのに歯が振動し、音を出す。


「あ、ありえねぇ……ありえねぇ! これはゲームだ! 俺は、それを、そいつを誰よりも一番理解している!」


 そうだ。俺がその根本を理解しているはずだ。


 ゲームは娯楽だ。そして金を稼ぐ道具だ。現実じゃねぇ! 仮想現実フィクションだ! 現実なんかじゃねぇ! 


「ふーん。じゃあ、最後に貴方が現実を過ごしたのはいつ? 本物の人の手のぬくもりに触れたのは? あなたも私と同じように――現実よりずっとずっと、仮想現実フィクションのほうが長くなってるんじゃないの?」


 その言葉にヒヤリとする。


 確かに、俺はユニバーシティを中退してから、この作業部屋に引き籠もって、ずっとゲームをしていた。

 武器データ取引やらアカウント転売のために、寝る時間と飯を食う時間以外は、ほとんどこの部屋から出ていない。


 クライストの言うとおり、いつの間にか――現実リアルの世界を生きるより、このくだらない仮想現実フィクションにいる時間の方が、長くなってしまっていた。


 そして、恐怖した頭が一つの疑問を産み出す。

 俺はつい数分前に思った。


 この世界では人を殺しても罪にならない。むしろ英雄になれる。


「……ならどうなる……この状態で殺されたら――俺はどうなる!?」


 セイグリッド・ウォーの鐘の音が鳴る。

 その鐘を楽しむように聞いた後、そいつは地に伏した俺を見た。


「もう相手はいないみたいだし……僕の獲物は、キミでいいや」


 恐怖から言葉が胃の中へと戻っていく。

 それでも必死に、逆流する胃酸を吐き出しながら、必死に叫んだ。


「やべろ! やめべくれ! みどがじてぐれ! だずけて! ごろざないで! もっといぎていだい! じにだくない! じにだぐない! じにだぐない!」


 逆襲してきた胃酸で喉と舌、鼻の奥までが焼けて、痛みが走る。

 それでも俺は必死に命乞いをした。


 だが、最後まで奴は、そんな俺を見て笑った。

 まるで母親が、子供に言うくらい安らかな声で、穏やかで――そして安寧な言葉。


「おやすみなさい……」


 大峰の刃が振り上げられ、まるでギロチンのように落ちてくる。



「やべろおおおおおおおおおろおろおろろろ!!」



 冷たい刃が首を断ち、世界がごろりと転がった。

 ブタの首は固い地面に、腐った果実のように叩きつけられ、グシャリと弾ける。


 最後に見た風景は、首のない俺の胴体がボトリと力尽きて、俺の視界は血に染まる姿――ゆっくりと暗闇に、自分の意識を飲み込まれ始めた。



「うばあああああああああああああああああ!」



 俺はその意識がすべて飲み込まれる前に、VRゴーグルを両手で外した。


 震える汗ばんだ手で、落ちたはずの首をさすり、それがまだ現実では繋がっていることに安堵する。


「生きてる……あぁ……俺……生きてる……」


 涙が溢れてくる。


 モニターの灯りしかないこの暗い部屋で、俺は初めて生きていることに感謝した。

 暗くなったモニターにパンパンに膨れあがり、涎塗れの自分の顔がはっきりと映る。


「よかった……よかった……」


 垂れ流す脂汗が弛んだ腹に貯まっている。それは冷や水へと変わっていた。


 まだこの手にある生に安堵する最中――机から先ほどたたき落としたVRゴーグルが、床に向かって


 コトリ―—と落ちた。


「ひぃっ!」


 それを見て、先ほどのあの『死の恐怖』を思い出す。

 あれは確かに現実だった。俺の頭が落ち、脳が死を受け入れ始めていた。


 あんな恐怖の味を知ってしまったら――二度とゲームで、何かを味わいたいとは思えない。


 なぜなら、口に含んだその味が、あの死の味ではないということを、この舌で味わうまでは、決してその味はわかりはしないのだから。



 俺はその日から、二度と『ゲーム』をすることはなかった。

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