無限階廊

伊島糸雨

 

 私たちの生は、くすんだ段差に彩られている。

 立ち止まってもいいのは、子供と、妊婦、そして罪を犯したやつだけだ。

 棟を移動するには、必ず階段を伴う。上に行くにも下へ行くにも、よそへ行くにも必ずだ。足を踏み出し段差を跨ぐ。次の段に足を乗せる。踏み出す。跨ぐ。乗せる。繰り返し。

 すべての棟は灰色をしている。心象の無秩序な生起の抑制──つまり感情や思考を抑制する効果があるそうだが、本当のところはわからない。棟の合間に浮かぶ空はいつも青く澄み渡って、私たちを見下ろしている。

 各階には身体を休める部屋ポッドがある。所定の移動を完了し廊下に並んだ細長いカプセルに入ると、やわらかなジェルに包まれて、各種生命管理機器が接続される。目まで覆うヘッドギアが被せられ、私たちは休息に入る。

 仮想空間の部屋は情報資料から選ぶことができるので、私は今のところ、西暦二〇二〇年頃の一人暮らしの大学生の一室を再現している。複数パターンある中で一番シンプルなのを選んだ。自由に改造できるのは喜ばしいと最初は喜び、一時は相応に物を置いたり飾り立てもしたが、結局長続きせずにすべて消してしまった。今ではデフォルトのベッドと机があるのみだ。

 棟のつくりはかつてのマンションというものによく似ている。住居の扉があった箇所にはポッドが埋まり、あちこちの棟と階が複雑に絡み合っているという違いはあるものの、階を移動する途中で他の棟を見ると、やっぱり似ているような気がする。

 階段は迷宮を形づくる。歩いていると、私は時々、情報資料で見た“ペンローズの階段”というものを思い出す。ぐるぐる回り、終わらない階段。私は階段のない日々を知らない。上らず下りず移動しない日々を知らない。だからどことなく、重ねてしまう部分があるのだと思う。

 私は今日も階段に足をかける。経路は頭の中にあって、予定どおり計画どおり、私たちを導いていく。時々、人とすれ違う。挨拶はするが、それきりだ。深い仲になることもない。友人もない。配偶子だけが存在している。

 配偶子とは遺伝上のつがいのことだ。同じ人間と関わる機会はほとんどないのが普通だが、階段を巡る旅の中で、繰り返しすれ違うことになる人間は一定数存在する。それが遺伝的に好ましい組み合わせ、つまり配偶子だ。配偶子との関係は、子孫を残すためだけに交錯する。すれ違いの頻度が多いほど、生物的な相性が良いということらしい。もちろん、顔なんて覚えていない。何度も会っていたとわかるのは、たいてい後になってからだ。

 配偶子が決定すると、その回の休息で一方は一方の仮想空間に転送され、しばらくの時間を共に過ごすことになる。共同生活における制約は特に定められていない。他者と交流できるわずかな時間を大切にしても構わないし、何もしなくてもペナルティはない。こう言った不合理な状況の生成は、旧世界の習慣の残滓なのだそうだ。例えば、出産までの配偶子との生活は“結婚”というシステムが元になっているのだと、私の最初の配偶子は言った。

 最初の配偶子は男だった。彼は私たちをとりまく一連のシステムについて詳しく、階段をのぼり始めたばかりで無知な私に色々なことを教えた。今思えば、男にとってはあれがささやかな楽しみだったのだろう。出会う先々で無知な人間を啓蒙する。確かに、その在り方はこの世界と相性がいい。

 思考の余地は私たちにもあるが、行動の自由はほとんど残されていない。行き先は自明に決定され、選択に迷いはありえない。閉塞した灰色に私たちは溺れている。しかし、私たちは自分たちの肺が水で満たされていることに鈍感になって、やがて存在を忘れることがうまくなる。そういうふうに、誕生から死に至るまではデザインされている。

 私たちは巡り合うためにつくられている。種の存続という一点のためだけに、階段をのぼり、おりて、複雑な線を描きながら絡まり合うものを探している。他の生き方を知らないからだ。

 しかし、仮に他があったところでそれを選ぶ気がないということも、私はよく知っていた。

 そんな毎日の中で、知らぬ間に迎えた九番目の配偶子は、女だった。

 女の表情は険しかったが、私を見た瞬間力の抜けた安堵に変わり、思わず口の端が緩む。自分が間抜けな笑みを浮かべることを自覚する。その顔を知っている。こびりついた痕が、私の記憶から離れないからだ。

 両手で首筋を撫ぜる。

 私を殺そうとするやつの顔だ、と私は思う。



 四番目の配偶子だった女の表情を、私は同性ゆえの安心だと考えた。

 たいていの場合は異性が配偶子となるが、時たま同性になることがある。同性と接触する機会は根本的に少ない。私の方も、女は初めてだったこともあって、不思議な心地で彼女を見つめていた。

 男同士であれば妊娠の可否の問題で即解除だが、女同士であれば互いの細胞から受精卵を作成可能であるため、両者ともに妊娠することになる。私たちが言葉を交わすようになったのは、それまでの男とのやりとりよりずいぶんと早かった。名前もない私たちには開示できるほどの自己もなかったが、仮想空間でのオブジェクトの種類や、部屋から見える景色に関する話でも私には十分だった。

 当時の私の部屋は殺風景そのものだったが、彼女とコンセプトやレイアウトを考え、オブジェクトを配置していくうちに何やらそれらしいものへと変化していった。私は楽しかったのだ。初めて楽というものを実感し、激しく戸惑い、それでも一時の夢ならば、と自分を許していた。

「女の人と話すの初めてだからさ、緊張しちゃって」

 恥じ入る色で私を染め上げ、

「ね、これはどこに置こっか?」

 笑顔で私を惑わせて、

「もう直ぐお別れだけど、愛着湧いちゃうよ。困ったなぁ」

 悲しげに、私を絡めとった。

 月が満ちるまでのおよそ二週間、彼女は着実に私を侵していった。私の首をなぞるふりをして、蜘蛛の糸で巻きとって、耳元で甘言を囁き、私の愚かさを、私の渇望を利用した。

 最後の夜、息苦しさで目を覚ました。隣にいたはずの彼女は私に跨り、暗闇に顔を隠して、私の首を絞めあげていた。

 何一つとして理解できなかった。「ずっと迷ってたけど今しかないんだ。この時を逃せないの。あなたしか可能性がないの。最後のチャンスなの。だからごめん、ごめんね……」そう、悔悛するように、ぶつぶつと呟いていた。

 仮想世界での感覚はポッドの中で還元される。私の生命反応が閾値を下回ったことで安全装置が作動し、彼女は私の部屋から排出された。接続された生命管理機器は私を元の状態に戻すべく稼働し、私の意識は闇に落ちた。

 彼女は私を裏切った。私はフラットであるために彼女の痕跡をすべて消し去った。現実に戻ってみれば一面の灰色に変化はなく、私は間も無く平静を取り戻した。

 己の身勝手な選択のために私を犠牲にしようとしたあの女は、私の生から姿を消した。私は四度目の出産のためポッドに入ったまま専用の棟に移送され、何事もなく元の日々に戻っていった。生まれた子は皆、階段をのぼり始めるまでを成長促進用のポッドで過ごす。私は自分の子供の顔も知らないし、過去に一度だって見たいとも思ったこともない。なぜなら、私たちはそのようにデザインされているからだ。

 不要な枝を伸ばせば剪定される。それを承知の上で、固着したルールからの逸脱を自由と定義しようとしたのなら、彼女はやはりいかれていたのだと思う。

 以降、彼女の姿は見ていない。

 一度だって何かを愛そうとした自分が、憎くてたまらなかった。



 九番目の女が、私の上に跨っている。

 ギリギリと押しつぶされる気道が掠れた悲鳴をあげる。私は酸素を求めて喘ぎ、舌を突き出して必死にもがく。蓋をされた血液が熱を持ってわだかまり、頭頂部から爆ぜそうになる。頬の皮膚が突っ張って痙攣し、眼球はごろごろと霞むままに回転する。

 この感覚を私は覚えている。息が詰まり、溺れて行くようなこの苦痛。力で叶わない男ではなく、脆弱性を滲ませる女であると理解しているがゆえの切実な暴力。ああ、こいつらはみんなそうだ。灰と階段で構成される閉塞した日々に一人で勝手に倦んで、そこから脱却するために私を利用する。悪意ではなく渇望からくる殺意によってこの手に力は込められている。強いられた選択から逸脱するため、犠牲者を選別していたのだ。

 私は、格好の的だったわけだ。この、抑制できない不適合者にとっては。

「ひっ、ひ」

 喉を逸らし引きつらせて私は笑う。最大限の嘲りを込めて、その無駄な足掻きに唾をかける。

 女は一瞬たじろいだように力を緩めかけたが、すぐに持ち直し私の首を握りしめた。名前も知らない九番目、お前は賢いよ。迷わず、躊躇わず、懺悔せず、自分の願いに忠実だった。

 やはり、四番目はどこまでも愚かだったのだ。迷い躊躇い懺悔して自分の願いを迂回した。あんな無駄な時間などかけなければよかった。あの恥じらいも微笑みも哀愁も、すべては嘘だったのだろうか? 

 仮想世界の時間の経過にあわせて、月明かりがかすかに差し込んだ。九番目の女の頬を、涙が伝った。階段の迷宮で迷子になって、その果てがそれなのかと私は思う。馬鹿どもめ、お前たちは、どうしてそうなんだ。私のように漫然といればいいものを、どうして我慢ができない?

 仮想世界が、遠い。現実世界からも、私は遠ざかっているだろうか。それはこの終わらない歩みとの別離を意味するだろうか。果たして、私は真に殺されることができるのだろうか。

 被害者の生命は守られるのがこの世界だ。私はそれを一度実感している。消えるのは、攻撃性によって不適合の烙印を押され廃棄される加害者だ。私は死なない。女は死ぬだろう。たった一度の、この程度の自由を代償にして。

 死にたがりめ、と私は思う。

 落ちてきた雫が眼球の上で弾け、痛みに瞼を閉じる。

 脈打つ暗闇で響いた嗚咽は、不意に止んだ。



 私は九番目の子供を産んだ。そしてまた、階段へと戻っていく。

 足を踏み出し段差を跨ぐ。次の段に足を乗せる。踏み出す。跨ぐ。乗せる。向かう場所は決まっている。私が踏みしめる段差の数も、進む速度も。

 選択の余地はない。そういう世界で、そういうものだからだ。

 十番目、十一番目、十二番目、十三番目……。男が続いた。色んなやつがいたが、皆まともに振舞っていた。あの中のどれくらいが本当にまともだったのか、私にはわからなかった。

 ある時、途中でふと足を止めた。首筋を撫でるが、痕はもう残っていない。力を込めると、気道が狭まり、すぐに呼吸が乱れ始めた。周りの男も女も、一瞥してから、何事もなかったように追い越し、すれ違っていく。頭の中で警告が響く。修正不可になるまで後何秒。カウントダウン。十、九……。

 手を離し、酸素を取り込む。再び歩き始めると、警告は止んだ。


 その日、二十七番目の配偶子が決まった。女だった。

 両手で、自分の首筋を撫でる。

「大丈夫、安心して。別に、バグじゃないのよ」

 初めてらしく、戸惑う様に私は微笑みを向ける。女はしばし逡巡してから、ぎこちなく笑った。


 溺れる感覚は、私の首に刻まれている。忘れていたはずの痛みが、どうしてか記憶に残っている。

 色褪せた日々を巡っていく。感情は、正しく抑制されている。

 息苦しさを忘れる恐怖が、沈黙したまま身じろぎをした。

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無限階廊 伊島糸雨 @shiu_itoh

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