再生⑥ 奔流

オーストラリアで、私はハコとともに生きる決意をした。


いつの時代でも変わらない。残されたものは、失ってしまった人への思いと後悔を背負って生きていく。

想っても、想っても、満たされることはない。注いでも、注いでも、満たされることのない、桶に水を一生注ぎ続ける。地獄の河原で餓鬼を考えた、昔の人の思考も変わらない。

人間の業は変わらない。私は、醜くて、愚かで、自分のエゴで生きている。己を捨て去るなんてしない。

キリストやブッタにはなれない。

宮沢賢治は最後に「そういうものに私はなりたい」と残している。

神は、人間に自我を与えた。発達した脳が、喜怒哀楽、快楽、欲望、理性を生み出した。苦しみのもととなるものを人間は与えられた。それは人間だけに与えられたのかもしれない。地球を我がもの顏で歩く人間たちへの罰なのかもしれない。

ハコは知っていた。私は知ろうともしていなかった。真の幸福というものを。

ハコは私を買いかぶりすぎていた。私は何も考えていない。

ハコは、私の過去を知っていた。

そう、私は、ハコの日記を読んでから、幼い頃の記憶を取り戻していた。

その時、私の中では記憶の奔流が起きた。

ハコの指摘の通りだった。私は、自分のことにしか興味がなかった。

私は小学校に上がる前に、すでに、自分の心の中の闇の存在、欲望の存在に気がついていた。

私は幼い頃、すでに周囲に自分がどう見えるか意識していた。大人たちがどうしたら自分を受け入れてくれるかを知っていた。同時に大人の欲望も見透かしていた。

兄を含めた周囲の子供たちは、楽しそうだった。

彼らに私と同じ思考がないことは、幼い私にも、一目瞭然だった。

私はずっと孤独だった。真に私を理解してくれる人は誰もいない。私と同じ悩みを共有する子供も。私は、自我と戦いつづけていた。365日が葛藤の日々だった。

自分を含めた、この世の中の人間というものの存在意義があるかどうか、なぜ自分の中にこれほどまで暗く、ドス黒いものが有るのか、答えのない疑問が、小さな少年の体の中で渦巻いていた。

私は、そうした醜い部分を永遠に葬り去りたかった。だから、無意識に自分の記憶に鍵をかけた。ハコはその封印していた、記憶の鍵を開けた。


小さい頃、誰もがしたいたずら。親に頼まれた買い物お釣りをごまかす。そんな些細な悪でさえ、私には欲望の一部だった。

女性を女性として意識したのは、5歳だった。まだ何の性の知識もない頃から、私は異性を意識していた。母と銭湯で女湯になんか入りたくない。大人の女性に抱っこされることも。目の前で授乳されることも。私にとっては、見てはいけないものを見ているという悪事だった。なのに、気がつくと、私は異性を目で追っているのだ。触れてはいけないもの、傷つけてはならないものに惹かれる。そんな子供の興味ですら、私には欲望という闇だった。

幼い私は、大人の欲望を理解していた。それが恐ろしかった。だからあえて飛び込んだ。大半の子供たちは、兄たちもそうだが、大人たちを遠ざける。子供には子供の世界があり、そこに大人は入れないし、大人の世界にも子供は入れない。

なのに、私は、積極的に大人の世界に入っていく。

私は自分の身を守ろうとした。自分よりも強大で、具体的な欲望を抱えた大人たちの中にいることでしか、自分の欲望を隠す術がなかったからだ。

人間が作った大きな建物や、自然界ではありえない高速移動する乗り物や、工事の大きな音は私を怯えさせた。

人間の増悪の、悪意の塊である、戦争や、原爆を知った時は、恐怖した。そんな恐ろしい兵器や人工物を作り出す人間の科学力や、想像力、技術力よりも、人間の業の深さ、圧倒的な悪意の存在が、その事実が私には恐ろしくて仕方なかった。飛行機が飛ぶ音を聞くだけで私は恐ろしさのあまり、身を屈めて怯えていた。

幼い頃に、初めて死を意識した日を覚えている。私はただただ、恐怖した。普通なら、子供は親と別れたくないって泣くのだろう。私は違った。自分が生きている。確かにそこに存在している。肉体や精神がなくなり、真っ暗な闇になり、無に還る。そのことが何よりも恐ろしくて、他者との別れではなく、自己の永続的な存在を熱望し、死の恐怖に、3日間泣き続けた。

大きな病気も、怪我もしなかった。高いところや、危なそうな乗り物には乗らなかった。いつも、自分の足でいけるところしか行かなかった。

自然の中にいるのが好きなのは、そこには、人間の悪意がないからだ。幼い頃の私は、ハコと同じように、自然と対話していた。植物でも動物でも、話しかけていた。一人で森に出かけて、大きな木に登り、遠くに沈む太陽を眺めては涙した。星座なんて知らなくても、星空を眺めていた。

圧倒的な自然は、個々の人間の欲望なんて関係なく、ただそこに存在している。そのことが幼い私には唯一と言っても過言ではないほどの救いだった。

人間によって侵食され続ける自然が、文句も言わずに存在するその姿は、神そのものだった。芽がでたばかりの新緑や生まれたばかりにの子猫は、私に希望を与え、僅かな癒しの時間を与えてくれた。

「死への恐怖が人間を動かす原動力」という彼女の理論は正しかった。

10年間の記憶を取り戻した私は、本来の私は、人間として生きるには、あまりにも弱い個体であることを知った。

ハコは死を知り、自らの欲望を知り、私の弱さを知った。それでも、私と一緒に生きるつもりだった。圧倒的な強さで守られるべきハコが、なぜ私のような愚かで弱い人間を選んだのだろう。

私は、ハコに無理をしないように言葉を尽くしてきた。私の弱さを知っていた彼女は、その言葉を聞いてどう思ったのだろう。私が彼女に向けた言葉は、本来自分自身に向けての言葉でなかったか。

「無理するな」「本当の自分を出せ」「もっと甘えろ」「過去に囚われるな」

不幸な影を背負っているハコに惹かれたのも、無意識に自分と重ねたからではなかったか。抑圧されている自らの精神の解放を望んでのことではなかったか。彼女の解放を、自分の解放と擬似的に重ね合わせていたに過ぎない。そんなエゴじゃなかったのか。

彼女を失い、彼女を理解し、自分を取戻し、ようやくハコのいう「真の幸福」というものについて考える土台に立ったに過ぎない。

ハコと付き合っていた当時、私にはそんな概念すらなかった。ただその刹那しか、己のことしか見えていなかった。

「他人の幸福の中にのみ存在する」なんてことが、私たちにできただろうか。

彼女はそれを知っていて、それを実行しようとしていた。私は?

私たちは互いに迷いながら、そこにたどり着こうと必死にもがいていた。

弱いから。私たちは弱い。

岩肌から滲み出た地下水のように、刹那に、儚く、頼りない水の流れ。

大雨が降れば、跡形も無くなってしまう。やがては大きな川へと流れて、海へと流されていく。高いところから低いところへと流れていく。私たちは、そんな拙い水の流れだった。何も特別なものなんかなく、ただの一つの命だった。

でも、そんな小さな水の流れですら、この世界を構成する一つの要素なんだ。小さな小さな一つ一つの集合体が、この世界なんだ。自然界に無駄なものなんて一つもない。

彼女が推奨する「真の幸福」という意味は、きっと私には永遠に得ることができない類のものであろうろ私は確信している。

私には自我を捨て去ることはできない。

私にできることは、好きな人とともに生きることに、喜びを感じること。好きな人の幸福を祈ること。そんなこと位だ。

弱く、無力な私にできることなんて、本来、人間にできることなんてその程度だし、そのことだけだって本当は大変なことなんだ。

私は、ガンジーやマザーテレサにはなれない。すべての人間の幸福を願う聖人にはなりたくない。

目の前にいる愛しい人の幸福を全力で守りたい。そのことだけに、自分の全精力を、命の限りを尽くして、生きたい。

愛する人間に、自分の子を産んで欲しい。そして、生まれてきてくれた子供を自分以上に愛したい。

彼女が幸せならば、他の男性と一緒になって、他の男性の子を宿し、産み落とすなんて考えたくもない。

彼女にとっての唯一無二の存在になりたい。それがエゴでも欲望でもいい。私にはそれが全てで、それが叶わないなら、私の人生に意味などないとすら思う。

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