日記⑨ 記憶

私の脳はまだ、はっきりと彼を記憶していた。

彼の仕草、表情、癖。目を閉じても、瞼の裏にははっきりと映し出さられる彼の姿。

目を開けると目頭が熱くなっていることに気がつく。

(ゆうちゃん。ゴメン)と心の中で謝る。

そんなことを、もう何度繰り返してきただろう。

ついさっきまで彼の温もりを感じていたのに。


彼のことをゆうちゃんは知らない。私も言わない。隠すつもりはない。聞かれば答えるけど、ゆうちゃんは決して触れない。

それがゆうちゃんの思いやり。

私だって自分の傷をひけらかすような真似はしない。

ゆうちゃんも私もよくわかっている、このことがどいうことかを。


いつもいつもゆうちゃんと会うと彼を思い出す。

彼はもういないのに。決して再び会うことはないのに。これから先、永遠に。

だけど、私の中に彼は、いる。確かに存在している。私の脳といういう器の中に隅にいつもいて、要所要所だけ顔をだす。顔をだすだけ。それだけ。

彼は何も言わない。ゆうちゃんに比べたら小さな瞳で、そっと見つめているだけ。

私は目の前に違う人の顔があるのに、ゆうちゃんとキスをしている。

ゆうちゃんに悪いと思う。自分勝手で、自分が嫌になる。でも、で追うしようもない。前に進むためには、乗り越えなくてはならない。でも、痛い。

きっと、何年経っても、私は彼を忘れないだろう。

じゃぁ、ゆうちゃんは、一体、なんなの。私にとってのゆうちゃんってなに?


将来私は自分がどうするかなんてわかんない。目の前のことにはとりあえず一生懸命になれるけど、将来なんて想像もできない。

ゆうちゃんと一緒にいるかどうかも分からない。

だけど、もし、明日、この命が尽きるのなら、ゆうちゃんと一緒にいることを選ぶ。


ゆうちゃんと恋に落ちて、考えるようになった。過去のこと。未来のこと。現在のこと。


今までは、目の前にあることに全力で取り組んでいれさえすればよあった。自分の向上にのみ力を注いでいれば、時間は勝手に過ぎていった。自分を保っていられた。

ゆうちゃんが私のの中に入ってきてからは、私は私を見つめるようになった、


事故、病気、天災。生命の命なんて、容易く奪われる。

小さい頃、テレビでアフリカの大地を駆け回るシマウマが、チーターに捕食される場面を見て、恐ろしくて、母に尋ねた。

「わたしは、いつ死ぬの。お母さんも死んじゃうの。死ぬって何?死んだらどうなるの?」

母は「神様だけだ全部知っていらっしゃるのよ。でもね、生きている限り、ハコちゃんはお利口さんでいようね。」

という。母の説明を受け入れるしかなかった。

だけど、私はそのあとから「闇」が怖くなった。暗くして目を閉じると、もうこのまま目が覚めないんじゃないかという不安に苛まれた。


彼と永遠のお別れをしたとき、初めて「死」というものに触れた。

人の「死」は、自分の「死」ではなかった。闇が私を連れていくことはなかった。

けれど、好きな人の「死」は、私の中に「闇」を置いていった。

あの時流した涙は、本当に彼のためのものだったのか、自分のための涙だったのか疑問に思う。きっと後者なのだと思う。


彼と私。ゆうちゃんと私。どちらも同じ「私」なのに。今の私は何?


今、もしゆうちゃんを失ったら私は絶対に自殺する。

「死」よりも辛い「生」があることを、闇は私に教えた。

ゆうちゃんは「生」の歓びを再び私に教えてくれた。

ゆうちゃんには死別の経験なんてない。だから、ゆうちゃんは人生を謳歌している。

普通の人が気にしないようなことでも、彼には感謝の対象になる。

彼は、一つ一つのことに正面からきちんと向かい合い、決して逃げない。

「誠実」って言葉がよく似合う。


ゆうちゃんが教えてくれたことば

ケ・シ・ゴ・ム

ケ=「継続は力なり」

シ=「初心忘れべからず」

ゴ=「ごめんなさいを素直に言おう」

ム=「無理はしない」

私なんかよりゆうちゃんの方がずっと教育者に向いている。

私には何もない。ゆうちゃんに与えられるものが何もない。


ゆうちゃん、どうして私なの?同情?憐れみ?

ゆうちゃんの中の私の聖女像ってどうにかならないの?

私そんなに立派な人間じゃないよ。


「死」を知らない人には、「生」だって分からないでしょ。

ゆうちゃんが言う「生」は、「死を知らない」ことが前提の「生」なの。

ゆうちゃんには、私のことなんて理解できない。頭にくる。

だけど、ゆうちゃんがから離れれないよ。

ゆうちゃんの想像力の翼に魅せられ、ゆうちゃんの言う真理に近づきたい。


ゆうちゃんは大人っぽい考え方もするけど、基本は少年。

正しいことを言えることは立派だけど、本気でそれを信じている人を大人とは言えない。だって、現実は綺麗事だけじゃない。収入がなくてはならないし、倫理的な間違えがあっても、許せない人がいても、それでもなんとかうまくやって、生きていくしかない。ゆうちゃんわかってる?

真っ直ぐな人間ほど、危うい人間はいない。不器用な人が多いから。ゆうちゃんがそうとは限らないけど。もし、自分の価値観が全て否定されるような事態が起こったら、ゆうちゃんは臨機応変に対処できるのかな。


ゆうちゃんは、他にない「純水」だから。


風が吹いている。びゅうびゅうと、音を立てて。

雨が降っている。しとしとと、音を鳴らして。

太陽は見えない。あつい雲が。空を覆っている。

夜の闇は、全てを奪う。時間も感覚も。

私は、目が見えない、耳も聞こえない。何も言えない。何も感じない。

虚無と静寂に包まれた世界。


風は止んだ。

雨も止んだ。

空には光が、色が戻り始める。

朝の光は全てを与える。時間も感覚も。

私は目が見えない。耳の聞こえない。何も言えない。何も感じない。

朝靄と雫の世界。

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