第3部 日記①

退院すると、すぐ実家に戻った。いや、連れ戻されたという方が正しい。アパートは私がいない間に引き払われ、私の荷物は全て実家に戻ってきていた。当然だ。あれだけ周囲に心配、迷惑をかけてきたのだから。

実家に帰り、まず両親に謝罪した。母は黙って私の言葉を聞いてた。父は厳しい顔つきで私を睨みつけている。それでも声を荒げることなく

「これからは心を入れ替えるように。」

と一言告げた。意外だった。どんな叱責も厳しい罰も受ける覚悟だった。父の態度は私を一人の人間として扱うものだった。息子への失望も怒りも抑え、親として、息子を再び信じる姿。父の偉大さを知った。

私は何よりもまず、彼女の家に謝罪に行くべきだと考えていた。

まだ、身体のあちこちが痛み、不自由な生活を送っているが、一刻も早く謝罪に行きたかった。

私は、母にハコのお宅へ伺うつもりだと告げ、家をでた。

平日の昼間は人も少なくて、穏やかだった。皆は学校に行っている。私は学校を休み、こうして冬の穏やかな日差しの下を歩いている。それを非難する人のいるだろう。しかし、私にとって彼女の家に行くことの方が、学校に復帰するよりも優先順位が高い。これは私にとってけじめなのだ。

私はアポイントメントも取らずに彼女の家を訪問するつもりだった。門前払いを食らうであろうことが予想できたからだ。直接謝罪に応じてくれるまで何度でも訪問するつもりだった。

葬儀の時もハコのご両親は私を無視していた。ご両親の立場からすれば当然のことだ。ハコは死別を経験し、それだけでも両親の心配は相当のものだったはず。高校に進んで、やっと前に進み始めた途端に、悪い虫がついた。ご両親からすれば、もういい加減にしてくれと言いたいところだろう。ましてその付き合いは、コソコソと隠れて、嘘をつくと言ったものだったのだから尚更だ。そのことを知った翌日に、ハコは亡くなった。

ご両親の痛みは、私の痛みなどとは比べものにならない、我が身を削られる思いであったであろう。

ご両親にとって、理不尽な運命を呪い、怒りや憎しみをぶつける相手が私だったのかもしれない。

特に、母親の痛みは計りしれない。自らお腹を痛めて産んだ、愛する人との愛の結晶を亡くしたのだ。その愛娘は、以前にも深く傷ついていて、母は熱心に神に祈りを捧げた。娘の幸せを願い、傷ついた娘を支え、娘の将来を誰よりも真剣に考えてきたことは疑いようがない。その願いも虚しく、不幸な運命を辿ってしまったことに母は何を思ったのだろうか。神を呪いたいと気持ちにすらなっただろう。

そんな両親からすれば、私は現実逃避した、愚かな卑怯者だ。その事実はもはや覆しようのない事実だった。それでも、私はご両親に会わなければならない。謝罪したことろで何かが変わることはないのかもしれない。私の顔なんて見たくもないかもしれない。様々な非難の言葉を浴びるかもしれない。

何をしたところでハコはもう戻っては来ない。無駄にご両親に精神的負荷を与えるべきではないのかもしれない。

だけど、私はケジメをつけなければならない。責任を負わなければならない。謝ることがその責任の第一歩だ。これから一生をかけて私は自分の罪を償っていかなければならない。

彼女の家の前についても、緊張はしなかった。私には、覚悟があった。

「ピンポーン」

インターフォンが鳴ってすぐに応答があった。

「はい。」

「突然、大変失礼かと存じますが、私、里中ゆうきと申します。是非、お話しさせていただけないでしょうか。」

「少々お待ちください。」

どうやら門前払いは受けなくて済んだようだ。確か彼女の部屋は2階だ。私は2階の彼女の部屋をであろう部分を見つめていた。

「ガチャ」

ドアが開く音がして、中から彼女の母親が顔を出した。葬儀の時よりもさらに痩せているように見えた。酷く不健康で病的に見える。

ハコは間違いなくお母さん似だった。

「どうぞ。」

私は門をくぐって中に入った。

「どうぞ。上がってください。」

「お邪魔します。」

初めて入ったハコの家は、玄関は広く、吹き抜けのデザインで広々として気持ちがいい。何気なく飾られた花や絵画なども上品で、彼女のイメージによく合っていた。上流階級の家だ。私のうちでは玄関にまで洗濯物が置いてある。

ハコが育った環境を見ることができてよかった。

母親は私のコートを預かりましょうと言って、私のコートを手に待つと、私を居間へと案内した。今には本革の黒い大きな二人がけのソファがふた組、ガラス張りのテーブルを挟んで向かい合わせに配置されていた。他のどの家具も高級品に見える。

「どうぞ、お掛けになって。」

「失礼します。」

私は恐縮しながら、ふかふかのソファに腰を下ろした。どうにも落ち着かない。お尻のあたりがムズムズする。私は挙動不審な古代人のようになっていた。

「どうぞ。」

母親は、とても可愛らしくて上品な柄のティーカップを私の前に置いた。ティーカップからは紅茶のいい匂いがする。

「ありがとうございます。どうか私なんかに、お気を使わないでください。」

「・・・。あの子、紅茶が好きだったでしょ。」

母親は私の向かいのソファにゆっくりと腰掛けた。彼女のカップにも私と同じ液体が入っている。

「はい。」

「あの子の祖母、私の母がね。とても紅茶が好きだったのよ。そんな祖母のことがあの子も大好きで、夏に田舎に帰省した時は、必ず一緒になって紅茶を飲んで、祖母もそんなあの子のことをすごく可愛がってくれて、いつもお土産に紅茶をもたせてくれたのよ。」

「・・・。はい。」

言い終えた彼女は黙ってしまった。私たちが、室内には紅茶を飲む音以だけ。静かな時間が続く。ハコが以前に言っていた。「紅茶には人の心を鎮める作用があるのよ。」

母親の沈黙は、私に会話を促すためのものだ。私が口を開こうとした途端に母親が先に口を開く。

「里中君よね。」

「はい。里中ゆうきと申します。」

「葉子の母の白糸由美子と申します。生前は娘が大変お世話になりました。あなたが、あの日から今日まで、どうされていたかは、あなたのお母様から伺っていますわ。だ方、近々いらっしゃると思っていましたの。」

意外だった。母は私が家を出る際、一言もそんなことを言っていなかった。私は急に恥ずかしくなった。

「申し訳ございませんでした。この一ヶ月間のことは心より、後悔し、反省しております。今は、己の愚かさ、弱さを恥ずかしく思っております。自己中心的な行動で、周囲に迷惑をかけ、ご両親の気持ちを踏みにじり、故人の思いさえも裏切って参りました。謝って済む問題ではありませんが、どうしても謝罪したくて、本日は無礼を承知で伺いました。本当に申し訳ありません出した。」

「もういいのよ。頭を上げてください。もともと、あなたには、何も悪くなかったのだから。悪いのは、あの時、あなたに当たってしまった私たちの方なのよ。主人もあなたに暴力を振るってしまったことを謝罪したいと申しておりました。こちらこそ、あなたに謝らなければいけなかったのよ。ごめんなさいね。あの時の私たちは、余裕がなかったとはいえ、あまりにも大人気なく、あなたにも大変辛く当たっってしまい、本当に申し訳なく思っています。」

由美子さんはそういうと深々と頭を下げた。

「やめてください。ご両親が私を責めるのは当然です。隠れてコソコソ付き合ったり、その後も現実逃避したり、あの日の事故だって、私との喧嘩のあとで、彼女は情緒不安定になっていたかと思います。彼女の事故の一因は私にもあるんです。そんな私なんかに頭を下げたりなさらないでください。」

「本当に悪いのは、私なのよ。私があの子を殺したも同然よ。あの子が、あなたとの交際を打ち明けてくれた時に、どうして認めて上げなかったのかって、私、後悔しているの。あの子は変わろうとしていたのよ。頑張って、昔の自分から、立ち直り、やり直そうとしていたのよ。本来なら、母親としてその子の道を応援してあげるべきだったのに、私があの子の道を邪魔したのね。だから神様は私に罰をお与えになったのよ。私の行いが悪いがために、あの子は亡くなったのよ。

里中君、あの子はね、本当にあなたのことを信じていたわ。だから、あの子は私が交際に反対した時も、あの子は必死に抵抗して、言い返してきたの。昔から私のいうことよく聞きいてとってもいい子だったわ。小さい頃から、一度だって親に反抗した事がなかったの。そんなあの子が、初めて、泣いて叫んだの。

『ゆうちゃんとは絶対別れない!私には彼が必要なの!どうしてわかってくれないの!』って。あの時、私はただあの子に自分の価値観や倫理観を押し付けただけだった。そんな事よりも、あの子の気持ちをもっと考えてあげればよかったわ。そうすれば、あの子は死なずに済んだかもしれない。私のせいなのよ・・・。」

由美子さんは、涙を浮かべていた。その顔は、ハコに酷似していた。私はとても切ない気持ちでそんな由美子さんを見つめていた。

「私は、自分のことを責めています。後悔しています。一ヶ月間の旅でわかったことは、現実は、時間は容赦無く流れていくということです。ハコさんはお母さんに反抗したのかもしれません。でも、きっとそれは、お母さんのことも凄く大切で、お母さんに理解して欲しかっただけだと思います。ハコさんはよくお母さんのことを話していましたが、一度も悪口を言ったことはありません。お母さんがハコさんを想っていて気持ちを、ハコさんは感謝していました。その過去は決して変わらずに現在まで続いているのだと思います。」

「ありがとう。里中君は、あの子が言っていた通りの人ね。誠実で、純真で、優しくて。実はね。あの子が亡くなってから、あの子の日記を読んだの。日記には沢山あなたのことが書かれてあったわ。どうぞ、2階に上がって、あなたも読んでちょうだい。」

由美子さんは、2階のハコの部屋へと案内してくれた。初めて入るハコの部屋は、綺麗に片付けられており、私の部屋とは大違いだった。

今まで入った女の子の部屋で、一番女の子らしくない部屋だった。

ハーブのいい香りがするが、部屋全体が無機質で、可愛らしい小物も、レースのカーテンもなく、唯一、枕元に、私がプレゼントしたクマのぬいぐるみが置いてある。本棚には沢山の書籍が並んでいる。宮澤賢治、ヘルマンヘッセ、夏目漱石、英検2級問題集、公務員試験対策本、資格と仕事・・・

苦しかった。ハコの部屋には、私の想像する「余暇」に該当するようなもが一切ない。テレビ、ゲーム、漫画、MDコンポ、たまごっち・・・

勉強に必要のないものは、ほとんどない。毎日娯楽もないこの部屋の中で夜遅くまで一人勉強し、闇と戦い続けていたのだろう。未来を夢みて、誘惑にも負けずに。

いつか、ハコが話していたように、彼女の部屋の壁は、衛星写真からみる地球ののような深い緑をしていた。

「どうぞ。」

由美子さんは、机の引き出しから一冊の本を取り出して、手渡してくれた。

「Diary」と書かれたその本はとても厚く、B5版の大きさで、まるで辞書のように重かった。私はゆっくりとページをめくってみる。そこには、私に書いてくれたあの美しいハコの字が並んでいた。


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