旅④ 終焉
目が覚めた。瞼を開き、光を感じた瞬間、私は絶望した。
「まだ、生きているのか!」
そこは病院のベットの上だった。枕元には色鮮やかな花が飾ってある。
白いシーツに、クリーム色の壁。静かな病室には私一人だけ。どうやら個室の様だ。
窓からは柔らかな光が差し込み、室内はエアコンが効いているらしく、暖かかった。私の左腕には点滴の管が繋がっている。
「ガチャ。」
ドアが開いて、中年の女性が入ってきた。母だった。どれくらいぶりだろう。ひどく懐かしかった。気のせいか、久しぶりに見る母は一回り小さくなっている様な気がする。
「目が覚めたのね。」
母の声は今まで聞いたこともないほど穏やかで優しい響きだった。
「あなたが突然いなくなって、みんなとても心配していたのよ。」
「・・・・。」
「葉子ちゃんのこと、どうして話してくれなかったの。」
「・・・・。」
私はハコとの交際も死別も母には話していなかった。
「学校からうちに無断欠席が続いていると連絡があったのが、あなたがいなくなってから3日後、それからすぐにあなたのアパートに行って、森谷くんや担任の先生に初めて葉子ちゃんのことを聞かされて、すぐに捜索願を出して。それからあなたが発見されるまで約一ヶ月。覚えている?」
「い、いまは何日?」
肺が痛くて、声がかすれていた。声を出すのもやっとだ。
「2月17日」
アパートを出てからというもの、時間の感覚がなかった。驚いた。もう半年か一年くらい旅をしていたと感じていたからだ。苦しんだこの時間がそんなに短いものだとは。
「発見されたとき、あなた愛知県にいたのよ。そんなところで何をしていたの。」
それにも驚いた。愛知県は、私が住んでいるところから300kmも離れていた。
「とにかく、無事でよかったわ。」
母はそういうと遠慮がちに私の髪を撫でた。どれくらいぶりだろう。母に触れられるのは。思春期の頃にはもう母に甘えることなどなかった。それよりもずっと前の小学校低学年まで遡るだろう。私はそっと瞳を閉じた。母の手から温もりが伝わってくる。その瞬間、私は母の手を勢いよく降り払った。左腕の点滴が抜け、点滴は音を立てて揺れていた。室内には金属のぶつかり合う音が響いていた。母は涙を溜めた目で、肩を落として、ため息をついた。
「と、トイレに行ってくる。」
逃げ出す様に私は部屋を出た。体がふわふわとして、力が入らない。トイレに入って用を足すと洗面所で鏡をみて、一瞬目を疑った。鏡の中にいる男は、私の知っている男の姿ではなかった。髪の毛の大半が白髪になり、頬はこけ、目の下には深いくぼみが出来ていた。血の気はうせ、生気を感じない。これでは、とても現役高校生には見えない。実年齢よりも上の30代に見間違えられても仕方ない。たった一ヶ月でここまで人相が変わってしまうものなのか。よく、発見されて身元がわかったものだ。
病室に戻ると母は私の容態について語り始めた。肋骨にヒビが入り、はが3本抜けていて、栄養失調、自律神経の異常、軽い胃潰瘍。体重は46kg。8kgも痩せてしまった計算になる。
衰弱が激しかったが、意識さえ戻れば、2、3日の入院で退院していいそうだ。その後はしばらく自宅療養して、通院ということになる。と先ほどとは打って変わって冷静に淡々と説明してくれた。
私は黙って母の話に耳を傾けた。母は自分がどれだけ心配したか、周囲にどれだけ迷惑をかけたかなどを延々と話した。やがて、どれだけ話しても私の反応がないことに気がつくと
「また来るわね。」
といって病院を後にした。
全てが腹立たしかった。静まり返った病室。温かな室内。柔らかなベット。自身の心臓の鼓動でさえ私を苛立たせた。
たとえ居場所を確保されていたとしても、私の孤独は変わらない。母であろと、誰であろうがその孤独は癒せない。
私は病院のベットの上で考えた。身体の回復に合わせて思考力も回復する。今まで以上にハコのことを考える。
やがて、私は「ハコに会う方法」について試行錯誤する。
その方法が「罪」であろうが、もはやそんなことは関係ない。自分の価値観、ハコの気持ち?私は確信犯だった。
生きているからこそ「罪」なのだ。死んでしまったら、罪もへったくれもない。死んでしまった人に誰が文句を言える。誰が罰することができる。現にハコは死んでしまった。私を残して。
ハコは誰かに責めれられたか。私が同じことをして、一体世の中になんの不都合があるというのか。
私はその考えに支配される。起きている間は、ずっとそのことを考える。
屋上から飛び降りる。電車に飛び込む、手首を切る、首の頸動脈を切る、心臓にペンを突き刺す、木炭で一酸化炭素中毒死、睡眠薬の過剰摂取、ガソリンを被って焼身自殺。なるべく、手早く、確実にハコの元へと行ける方法を考えていた。不思議と恐怖はなかった。恐怖よりも、「ハコに会える」という期待の方が勝っていたからだ。
そんなことばかり考えていた私は見舞いにきた家族や、森谷、中島守、兼本賢也、ハコの担任の女教師の話など全く耳に入らなかった。彼らは一様に、私の変わり様に戸惑いを隠せない様子だった。ハコの担任は言葉を詰まらせて、今にも泣き出しそうになりながら、無責任にも
「頑張るのよ。」
などという言葉を吐いていった。
見舞客の中でも兼本の反応はいささか過剰であった。
「見損なったぜ。」
彼は眉間に皺を寄せた険しい表情で怒鳴った。私は無言で彼を見つめる。
「どれだけ心配したと思っているんだ。」
私はその時、心底彼の好意が疎ましかった。
「偽善はやめろよ。」
彼はみるみる激昂していく。私は彼をたしなめる様に、落ち着いた語り口で続けた。
「お前の姉のことを俺にダブらせるのは止めてくれ。俺はお前の姉さんとは違う種類の人間なんだ。俺とお前もな。同じ基準で、杓子定規にかけて、自分勝手な価値観を俺に押し付けるのはどうなんだ。結局は、誰かの心配をしているという自分に酔っているだけなんじゃないかな。そうして、自分がいい人間であると認識して、自己満足したいだけじゃないか。お前の倫理観で正しいと思うのは勝手だけど、俺がそれに必ずしも同意しなければならない道義はない。」
兼本は何も言い返せずに、ただ悔しそうな顔で私の顔を睨みつけた。そのまま彼は無言で病室を出て行った。彼の両拳は強く握られていた。
あとで聞いた話では、彼は自慢の人脈を使って、私を探した。先輩、後輩、同級生、マイケルやその友人まで、延べ人数は100人を優に超えた。彼の姉のことを知っていた、唯一であろう友人の私が彼女の後を追うと考えたのだろう。その兼本の辛さや、やり切れなさを考えてやるだけの器が私にはなかった。
私には罪悪感などなかった。誰も彼もが煩わしく、疎ましかった。
どうして、皆、ハコと私との間を引き裂こうとするのか。全く理解できない。
全てが敵に思えた。「心配する」という名目で、正論を盾に。私からハコを奪おうとしている。両親も友人の教師も。
そんな彼らを拒絶するには無言でいるほかなかった。彼らには何も期待していない。彼らの言葉など一切聞かない。記憶の片隅にさえ残さない。そう決めていた。
一日中無言で過ごすことは、もはや何の苦痛でもなかった。一ヶ月間もほとんど人と会話せずに過ごした私は、それは常に移動しているか、一箇所に留まっているかの違いに過ぎなかった。
いよいよ退院を明日に控えた日、私は夢を見た。毎晩、悪夢でうなされていた私にとって、夢は現実以上に残酷で恐ろしかった。
夢の中ではハコがいた。夢の中の彼女は、相変わらず美しい。
「ハコ。会いたかったよ。」
「・・・・。」
彼女は無言で私を見つめている。その表情は怒っている様に見える。
「あなた、何をしているの。」
彼女の声には怒気が含まれている。
「何って、君を探していたんだよ。」
「私はそんなこと頼んでない!」
今度は明らかな敵対心をぶつけられた。すぐ目の前にいるはずの彼女の声が、まるで長距離の電話をしているみたいに遠くから聞こえる。
「な、何を言っているんだ。君が勝手に一人でいなくなったからじゃないか。だから僕は君を探していたんだ。当然だろ。君に会えないことがどれだけ、苦しかったか君に分かる?何が『ずっと一緒にいたい』だよ。」
私は烈しく彼女に詰め寄った。
「そんなことあなたに頼んだ覚えもないし、今も望んでなんかいない!」
「どうして?僕はただ君と一緒に居たかっただけなのに!」
「バカじゃないの。あなた頭がおかしくなったんじゃない!」
そこで現実世界に引き戻された。
今のを夢と認識した上で、今のやりとりを頭の中でリプレイした。
その場にうずくまった。身体が震えた。強く握った拳の中で爪が掌に食い込み、血が流れた。奥歯を強く噛み締め、全身の筋肉が硬くなる。頭には血管が浮いて出る。
今、彼女にこの一ヶ月間の全て、私の全てを否定された。
心の底から「悔しさ」がこみ上げてきた。
その瞬間に、気がついた。
「生きている。」
私はハコがいなくなってから今日まで、心が動くことはなかった。
辛い、悲しい、苦しい。そうした負の感情に支配されて、心は頑なに固まってしまっていた。もはや、どんな力もその硬くなった私の心を柔らかくすることは出来ない。
でも、違った。自尊心なんて捨てたはずだった。でも、私は今、確かに「悔しい」と思った。強く。
他でもない、彼女の言葉が私の心を動かしたのだ。一筋の光を与えてくれた。私を覆っていたぶ厚い氷は、ハコの言葉で、みるみるうちに溶け始めた。
鎌倉の海で、私を抱き締めてくれた彼女の温もりが私の中に蘇ってきた。
彼女は死しても尚、私を救ってくれた。
私は懺悔した。初めて真の後悔をした。それはきっと私の生涯で最も大きな後悔となるであろう。私は決心した。
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