旅③ レイナ&ドラッグ

朦朧とした意識レベルから、きちんと意識を取り戻すと、私は自分が見知らぬ部屋で寝かされていることに気がついた。

そこはワンルームのアパートの一室の様で、女物の洗濯物があちこちに干してある。

「あら、やっとお目覚めね。」

「・・・。」

少ししゃがれた声の女性だった。

「あんた、三日間も目が覚めなかったのよ。よっぽど疲れていたんだね。」

20代後半から30代前半くらいのその女性は、不自然な愛想笑いを浮かべてこちらを見ていた。笑うとえくぼの浮かぶチャーミングな印象の女性だった。

「あたしの名前は、レイナ。仕事に行く途中にあんたを見つけて、家まで運んできてやったんだよ。あんた、名前は?どこから来たのさ。」

「・・・。」

私は喋れなかった。もう何年も人と話していない、言葉を忘れてしまった仙人のように口が動かなかった。事実、私は家を出てから誰とも話をしていない。困った様子の私を見て

「まぁ、いいわ。」

と彼女は言ってくれた。どうやら悪い人間ではなさそうだ。彼女は仕事に行くと言って、派手な化粧をし、露出の多い服を着て出掛けて行った。

一人になり、静まり返った部屋を見ると、何もない部屋であることに気がつく。ベットと衣装ケース。暖房器具もテレビすらなかった。全く、女性の部屋という感じがしなかった。

ベットから降りようとしたら、これまでに味わったことのない激しい痛みが脇腹からした。どうやら骨にまで達している様だ。私は慎重に身体を動かして、なんとか洗面所にたどり着いた。そこはバスとトイレが一体になっていた。私のアパートと広さはさほど変わらない。顔面の傷の具合を見ようと、鏡を探した。ところが、本来なら鏡があるはずの壁部分に鏡はなく、外されて壁の一部が色が変わっている後だけが残っていた。

私は蛇口をひねって手を洗い、一口だけ水を飲む。脇腹がまた悲鳴をあげた。私はベットに戻って再び眠りにつくことにした。久しぶりの柔らかい布団の感触に違和感を覚えるも、すぐに眠気は訪れた。どうか悪夢を見ませんように。

目を覚ますと、ベットには先ほどのレイナという女性がいた。ベットも布団も一組しかない様だから仕方ない。私は逃げ出す様にベットから出て、冷たいフローリングの床に腰を下ろした。考えてみれば、彼女のベットをずっと私が占領していたのだ、何も文句は言えない。むしろ、眠っていて、無意識とは言え、迷惑をかけて申し訳なく思った。

彼女が起きたのはそれからしばらくしてからだった。どうやら彼女は昼夜逆転生活を送っている様だった。彼女はベットから降りると、私の存在なんてないかの様に堂々と着替え始めた。着替え終わると、寝癖のついた頭もそのままにインスタントコーヒーを二つ入れ、一つを私に差し出した。

「ん。飲みな。」

ぶっきらぼうに言うと、彼女はベットに腰掛けた。

「27?」

突然彼女の口をついて出た数字の意味が理解できない。目を丸くしていた私の向かって彼女は続ける。

「25?23?」

二度目の質問でようやく、彼女が私の年齢を聞いているのだと気がついた。

「じゅ、17歳です。」

消えそうで、しゃがれた声が出た。自分の声とは思えない。

「17!未成年じゃない!じゃ、家出ね。それともどこからか抜け出して来たのかい。」

別にどっちでもいい。それよりも、私を10歳も年上に見たこの人の目を疑ってしまう。昔から童顔だった私は一度も年上になんか見られたことはなかった。

「何を黙り込んでいるんだい。ちゃんと事情を説明できないなら、追い出すよ。」

「か、構いません。」

「はっはっはっ。いい根性だね。じゃ、せめて名前くらい名乗ったていいんじゃないか。自分の名前くらい言えるだろ。それともポチとでも呼ぼうかい。」

「さ、里中ゆうきです。」

「ゆうき。女みたいな名前だね。」

彼女はそれ以上何も聞かなかった。静かな室内には彼女のすするコーヒーの音だけがした。

「ちょっと、出てくる。」

と言って、コートを羽織って何処かへ出かけて行った。ベットの脇には、私が着ていた服が洗濯されて置いてあった。今、私は彼女の部屋着を着ている。彼女が帰ってくるまでに、脇腹の痛みをこらえながらなんとか自分の服に着替えた。

そう言えば、風呂に入ってもいないのに、身体の悪臭も消えていた。

服の中には、ハコのくれた、あの手編みの赤いマフラーがなかった。

「ガチャ。」

戻ってきた彼女はコンビニの袋を提げていた。

彼女はそのままキッチンに向かう。私はひたすらハコのことを考える様に努めた。私のアパートで二人で料理をしたこと、あの時のオムライスの味を。

「おい!ゆうき!何が食べたい。」

「何も。」

「なんか食べないと、あんた死んじまうよ。」

「いいです。」

彼女は大きくため息をつくと再びキッチンへと向かった。

10分後に彼女が持ってきたのは、レトルトのカレーとラーメンだった。その匂いだけで私は気分が悪くなった。

「なんでもいいから、食べな。」

そう言うと彼女は「いただきます」も言わずにラーメンをすすり始めた。私がカレーに手をつけずにいると、

「早く食べな!冷めちまうだろ!食べ物を粗末にするんじゃない!」

と語気を荒げて見せた。仕方なく、カレーを一口、スプーンで口に運ぶ。途端に、私は気分が悪くなり、洗面所に食べたものと、胃液を吐き出した。私が戻ると彼女は宇宙人でも見たかの様な顔で言った。

「あんた病気なのかい。顔色も良くないし、食べても吐いちゃう見たいだし、困ったもんだね。」

彼女はそう言って、再びキッチンに戻っていき、今度は紅茶を私の前に差し出した。

「これなら食えるか。食うじゃないね。飲めるか。だね。」

私は、紅茶を口に運ぶ。今度は吐きそうになるの堪えることができた。暖かいものを口にするのは何日ぶりだろう。身体の芯から熱が伝わっていき、緊張状態だった筋肉が弛緩していくのを感じた。私は自分がまだいきていることを実感したと同時に再びハコの不在を感じ、自然と涙がこぼれた。

彼女は露骨に私の涙に気がつかないフリをしてくれた。黙々とラーメンをたいらげると、私が残したカレーに手をつけ始めた。私が紅茶を飲み終える頃にはすでに彼女はカレーも完食していた。満腹になったのか、彼女は食べ終わった容器もそのままに、ベットの上に寝そべって、ゴロゴロとし始めた。

私はやっとの思いで、紅茶を飲み干すと、一言呟く様に言った。

「ごちそうさまでした。」

「おや、礼が言えるのかい。感心。感心。」

食休みが終わったのか、彼女はベットから降りてきて、私の顔に自分の顔を近づけて言う。

「あんた、よく見ると、可愛い顔してるね。」

そう言うと彼女は唇を近づけてきた。私は力いっぱい彼女を突き飛ばした。突き飛ばされた彼女は壁に頭をぶつけた。

「何すんのよ!」

彼女は激怒した。私は急いで自分のコートを持ってアパートの外へと飛び出した。

外は寒かった。北風が容赦なく吹き付ける。私は久々に全力で走った。とにかく走りたかった。もう、何もかも忘れて忘却の彼方へと走り去ってしまいたかった。そんな私の気持ちとは裏腹に、身体は言うことを聞いてくれない。50mも走ると、膝が笑い、脇腹は痛み、歩くことしかできない。陸上部の長距離選手の面影は今はない。中島守と走っていたことが、遠い昔のことの様に思える。

「この世の中は醜い。57億の人間がいても、そこには57億の孤独があるだけだ。肉欲にまみれた強欲なババァなんぞ、くたばれ!」

私は涙を流しながらそうひとりごちた。


その夜、私は居酒屋の脇に置いてある段ボールを寝床にして休む。もう、何もかも面倒だ。ハコに会いたい。


ドスン!

「Hey, what are you doing?boy.」

私は自分の身に何が起きているのか、すぐには判断できなかった。目の前には、大きくてがっちりとした体格の黒人男性が数人。暗闇で見る彼らは目だけが、ギラギラと白く、不気味に写った。彼らは熱心に英語でまくし立ててくる。私はなかなか理解できない。

しばらくすると、彼らの一人だどこかに電話をかけ始めた。私は身の危険を感じて、大通りへと避難を始めたが、彼らの一人に行くてを遮られた。

「Stop!」

彼らの一人が私のコートの袖口を掴んできた。

「Don't touch me!Leave me alone. Fuck you.」

私は咄嗟に力の限りにそう叫んだ。気が動転していた私は、その後も

「Fuck you.」

と叫び続けたが、私の前には2mはあろうかという巨大な黒人が現れて、次の瞬間には後頭部に激しい痛みを感じ、目の前が真っ暗になった。


(ここはどこだ)(たのしいな)(いいきぶんだ)(おんがくがなっている)(みんながわらっている)


断片的に意識が戻る。視界はグラグラとして定まらない。なのに、妙に気分が良かった。今までのあの苦しみが嘘の様だ。家を出てからこんなに楽しく、愉快で、リラックスした気持ちになったことはない。ろれつが回らない。言葉が出ない。ここは天国?ついに私はハコの世界に導かれた。意識と無意識のはざまで私はまた涙を流していた。

(ハコ、ついに会えるね。)


「Wake up!」

私は平手うちで目が覚めた。

(ここはどこだ)

戸惑いながら辺りを見回すと、薄暗い、コンクリートむき出しの壁に囲まれた室内には何もない。白熱灯のランプが天井から一つ垂れ下がっているだけだ。どこかの地下なのか、生物が腐った様なひどい臭いが鼻をつく。

目の前にはまた、黒人、黒人、黒人。外からは音楽が聞こえる。彼らの英語は全くわからない。頭の中には、いつか授業で習った英単語が整理できずに転がっている。

「Give me abreak. I hate you. Fuck you. Get away!」

私は叫んだ。知っている単語を並べただけだが彼らには伝わった様だ。急に一人の黒人男性が近づいてきたと思ったら再び平手うちをしてきた。

彼ら黒人訛りの英語は全く理解できないがある単語だけは聞き取れた。

「Money」

なぜこいつらは金を要求する。ここはどこなんだ。ハコのいる天国に私は導かれたのではなかったのか。

「金なんかあるか。ふざけんな。」

私はそう日本語で叫んだ。すると、今度は部屋の奥の扉が開いて、スーツ姿のスリムな黒人がやってきた。他の奴らに比べると都会的で知的な感じがする。

「Are you Japanese?」

「Yes.」

答えながら、(ここは日本だよな)と不安に感じていた。

「オ、オマエニクスリシタ。クスリホシケレバ、マネーモッテコイ。」

彼は片言の日本語でそう言った。

「クスリ?」

私は慌てて、自分の服の袖をまくりあげた。腕に二つ、注射のあとらしきものがあった。

「うワアァァァ。」

私は咄嗟に落ちていた酒の空瓶を割り、その刃先を彼らに向けて、彼らがひるんだ隙をついて、外に出た。部屋の外には狭い通路といくつかの扉があり、迷路の様になっている。私は無我夢中に走りまわり、なんとか上へ登る階段を見つけて、地上へと出ることが出来た。

外は雪が降っていた。まだそんなに積もってはいない。今のうちならまだ逃げることができる。とにかく、奴らから逃げなくては。私は夜の街を狂った様に駆け出した。雪が降り続く中を、身体の中から最後の力を振り絞って。

「どうして、こんなことになってしまったんだ。奴らはなんなんだ。クスリってなんだ。どうして私がこんな目に遭わなくてはならない。私はただ彼女を探していただけなんだ。ただ、彼女に、ハコに会いたいだけなのに!」

容赦なく降り続く雪に何度も足を取られては、滑って転んだ。もう顔はべちゃべちゃで雪なのか汗なのか涙なのかもわからない。全身びしょ濡れだ。靴の中にも雪が入り込む。足先は、冷たさを通り超して、痛みが襲う。その痛みに耐えられなくなりそうになった時、私は大きな道の歩道を走っていた。歩道の向こう側には真っ暗な闇がどこまで続いていた。街灯すらない闇が。かすかに波の音が聞こえた気がした。

私はあの地下室を出て初めて振り返った。私の後ろには、白く化粧した町の明かりが遠くの方に見えた。一体どのくらい走ったのだろうか。1kmかそれとも10kmか。感覚は麻痺し、自分がなにから逃げているのかもはっきりしなかった。ひどく痛かったはずの脇腹のことや、凍える足先、肺の痛みも感じない。本能の赴くままにただ走っていた。

やがて、前方に小さく民家の光が見えた。

私はそこでついに力尽きた。雪の中に倒れ込んだ。最後にあれだけ走れたのは奇跡だった。火事場の馬鹿力。風前の灯火だった。

薄れゆく意識の中で、私は妙なことを思い出していた。国語の授業で「走れメロス」を勉強した時のこと。暖かい教室で勉強している頃、自分がこんなことになるなんて想像もしていなかった。確かメロスはセレヌンティウスの命の為に走ったのではなかったか。

今の私は一体誰のために走っているのだろう。

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