旅② ヨーコ

18歳の春。高校3年生に進級し、僕たちはやっと同じクラスになることが出来た。そのクラスは学校一の進学クラスで、学年トップにヒトカラ順に入ることができる。選ばれたもののみが入るクラスだった。僕は2年生後半からの頑張りが評価され、そのクラスに入ることが出来た。

部活動も順調にタイムを伸ばし、春の大会では学校で一番速いタイムで自己ベストを更新し、引退に花を添えられた。その後は受験勉強まっしぐらで、少しずつではあるが確実に学校内の順位を伸ばして行った。夏頃には学年でトップ10に名前を連ねるまでになっていた。

 そんな風に迎えた高校3年生の夏休みにクラスの男女で気分転換にカラオケに行こうということになった。そこには僕も彼女も呼ばれていた。私たちは同じように付き合っていた。なのに、僕の彼女を呼ぶ名は「ハコ」から「ヨーコ」に変わっていた。

 彼女は暫く見ないうちに髪の毛を茶色に染め、昨年までは肩ぐらいまでだった髪の毛も今はふくよかな胸くらいまで伸びていた。

 その日は皆で数時間楽しく騒いで解散した。僕が家に帰るとヨーコからPHSに連絡が入る。

「今から行っていい?」

それからヨーコはワインを片手にやってきた。

「私の力じゃ開かないから。」

という口実で部屋に上がり込んだ。その晩、僕たちはベットインした。

ヨーコの両親は離婚していた。母子家庭となり、母親も働きに出ている。今や娘がしょっちゅう家を開けることについて気にかけている様子もない。

 僕は相変わらず、ヨーコを守り、支え、幸せにしようと思って日夜研鑽を重ねていた。未成年の飲酒だって、別に家飲みでバレなければ、たまには飲んだっていい。誰にも迷惑をかけている訳でもないのだから。

 ヨーコはその頃すでに経済的な理由から大学進学を諦めざるを得ない状況だった。だから今のクラスには僕しか居場所がなかった。

彼女は飢えていた、貪欲に、愛情を欲していた。今までの反動なのか、彼女は我儘を言って私を困らせることも多々あった。僕は彼女を否定しなかった。甘やかした。今までの彼女の環境の変化を鑑みれば、少しぐらい甘えたって別に構わない。

 ところが、それから日増しにヨーコが僕の部屋に泊まりに来る回数が多くなった。同時に、僕の今まで貯蓄していたお金もどんどん少なくなり、勉強時間も減り、成績も落ち始めていった。

 徐々にヨーコは変容していく。清冽な佇まいは息を潜め、徐々にベールを脱ぎ始める。

 秋になると、僕とヨーコは完全にクラスから孤立した。二人だけの世界へとどっぷりとハマっていく。二人揃って遅れて登校するようになり、前の晩、あまりにも張り切りすぎてしまった時は4限目から登校することもあり、周囲からは冷ややかな目で見られていた。

 高校卒常時には、半同棲の生活が始まった。僕は学力の低下の影響もあり、4年生の大学を諦めて、2年間の専門学校に行くことを選択していた。ヨーコは高校卒業後の進路は決まらず、僕に嫉妬し、「親の金で2年間も遊ぶなんて許せない」と激怒した。

 そんな僕への当てつけなのか、高校3年生の2月。卒業を目前にして、ヨーコは僕に何の断りもなしにホステスになった。

それぞれの環境にいる僕たちは、徐々にすれ違いが多くなって行く。

 僕は昼間は学校に通い、夕方からバイトに出かける。ヨーコは夕方から出かけて、深夜に酒の匂いを漂わせて帰宅する。そのまま次の日の昼ごろまで寝ている。

 僕は週に5日、18時から0時までアルバイトをして、一旦帰宅して、深夜に繁華街にあるヨーコの店まで自転車を走らせて迎えに行っていた。自転車で二人乗りして、セックスをしてから眠る。ほぼ毎日がそんな生活だった。

 ヨーコは仕事柄か、次第にブランドもののバックや、靴、服などを買うようになり、着飾って仕事にいくようになる。僕のバイト代もほぼヨーコのために使っていたが、ヨーコとの付き合いには今のバイトだけではとても足りなくて、僕は学校よりもバイトを優先するようになった。

毎日朝9時に起床して、ヨーコの食事を作って、朝10時から夕方5時まではスーパーで働き、夕方6時から深夜0時まではコンビニで働き、土日の空いた時間は肉体労働の日雇いバイトで働き、それでも1ヶ月の収入は新卒の初任給の平均を少し上回るくらいだった。その中から家賃等の生活費を出して、あとは全てヨーコとの交際費に消えて貯蓄はゼロだった。ヨーコはお金は一切払わない。

 二人の生活は僕が思い描いていたような明るく前向きな生活ではなくなっていた。僕はただ彼女を信じたかった。客から携帯に電話が入り、甘えた声で同伴出勤に出かける彼女を横目に、嫉妬していた。

 ヨーコは他人の悪口や自分を卑下し蔑んだとしても、僕は彼女を肯定し続けた。彼女は本当は誰よりも心の美しい人間だと自分に言い聞かせていた。

 

ヨーコは浮気した。 

僕はヨーコの携帯を盗み見ようなんて気は全くなかった。だから気がつかなかった。ヨーコは浮気がバレると、泣いて謝り、僕に赦しを懇願した。僕は赦した。


それから。さらにヨーコは変容して行く。

まず、自分の我儘が通らないと、よく別れ話をするようになった。その理由は「あんたが嫌になった。」の一点張りで、また2、3日経つと元の鞘に収まるといった具合だ。

さらに、ヨーコは攻撃的になった。小さいことにも癇癪を起こして、キレる。そこらへんにあるものを投げつける。拳で殴る。飛び蹴りを食らわす。飲みかけの水をかける、時には熱湯のままのマグカップごと。また、汚い言葉で僕を罵倒する。

「この変態野郎。」「チンカス!」「お前はセックスが下手なんだよ!」

そうかと思えば、子猫のような甘えた声で

「ゆうたん。エッチしよ。」

と体を擦り寄せて来ることもある。


9月11日。衝撃的な事件が起きた。ニューヨークの同時爆破テロではない。

僕はその日はバイトが休みで昼寝をしていた。毎日の労働と睡眠不足で身体が悲鳴をあげていた。それでも、僕は決して安眠出来ない。いつも一時間おきに目が醒める。いつも不安で、心配を抱えていた。

浮気発覚後から、決して口には出さないもののヨーコへの疑念は払拭されない。身体を重ねて、裸のヨーコをが僕の腕の中にいる時だけが唯一安心できる時間だった。

その日はまだ夏の暑さが残っていて、尚更に寝苦しい日だった。遠くで電話のなる音がする。

僕は徐々に覚醒し、枕元の携帯電話に手を伸ばす。

「もしもし。」

荒い息遣いが電話口から聞こえる。僕は瞬間的に、胸にどす黒い闇が蠢くのを感じた。

「もしもし。」

僕は繰り返す。声が震える。裏返る。

「ゆうたん。」

聞き慣れたヨーコの声。寝起きの頭でもはっきりと分かる。私の愛しい声。声のトーンで僕には彼女の言いたいことは即時に分かる。

「ゆうたん。」

電話口でヨーコが僕を呼んでいる。相変わらず息が荒い。僕は恐怖で声が出ない。緊張と絶望で喉がカラカラだ。闇は完全に僕を支配している。

「イマ、○○クントエッチシテルノ。」

電話口から低い男の唸る声、彼女の喘ぎ声が一定のリズムで繰り返される。

「う、嘘だ。止めろ。やめてくれぇぇぇぇぇ。」

僕は叫ぶ。そんな僕にはおかまいなしに、電話先で声は途切れることなく続く。やがて彼女がオルガスムに達する声をあげた。

僕は恐怖で携帯を壁に叩きつけた。携帯は音を立ててバラバラに砕けた。

「ウワァァ。これは夢だ。こんなことは有り得ない。夢だ。悪い夢なんだ。覚めろ。覚めてくれぇ。」

壁を思い切り殴った。痛みはない。拳から血が流れる。僕は狂ったように部屋を飛び出す。初めて身体を重ねた相手、自分の愛した相手に、陵辱される。そんなこと僕の人生にあってはならないことだった。そんな現実は認められない。

「たすけてくれ!誰か!タスケテ!気が狂う。頭がおかしくなる。タスケテ。タスケテ。タスケテ。」

気がついたら、僕はヨーコのアパートの前にいた。ヨーコはもう僕の部屋には戻ってこないだろう。ヨーコのアパートには灯りはついていない。インターフォンを鳴らすが誰もいない。

僕は待ち続けた。ひたすら。日が沈み、夜がきて、サイレントタイムがすぎ、朝になっても私はその場を動かず、ただ一点を凝視し続けた。闇に支配された僕は、終始膝が笑い、歯がカタカタと音を立てていた。今更、ヨーコに会ってどうなる訳でもない。自分でも自分が何をすべきなのか分からない。ただ、僕には助けを求める相手も、他に行く場所も思いつかなかった。

待っている間、ずっとヨーコのことを考えていた。なぜあんなことをしたのか。彼女の立場になって考えてみる。

「ヨーコは本当は心の優しい女だ。人を平気で傷つける人間ではない。人を傷つければ、自分の良心も傷つく。人を殴れば、殴った自分の手も痛いのだ。ヨーコは自らを忌み嫌っている。傷つきながらも努力を重ねて頑張ってきたのに、家庭

環境の変化により、その全てが無と化した。ヨーコが築き上げたものが音を立てて一瞬にして崩れた。理不尽にも。全てに投げやりになり、自分を墜としていく。今回のこともその延長に過ぎない。単なる甘えなのだ。リストカットや自殺未遂をしないのがその証拠だ。死にたい訳じゃない。幸福になりたい。救いを求めている。どんな悪いことをしても許して欲しい。絶対的な愛情に包まれたい。枯渇した心を潤して欲しい。それだけだ。」

ヨーコの思考回路はそんなところだろう。

僕はこの「圧倒的な悪意」を前に為す術もなかった。僕は弱かった。ヨーコの真意がどうであれ、僕は現実に打ちのめされていた。

今回のことは浮気じゃない。こそこそ隠れていた訳じゃない。浮気の現場を偶然目撃した訳でもない。明らかな確信犯で、明確に相手を傷つける意図があった。

ヨーコは知っていたのだ。僕が内心ではヨーコを疑っていたことを。彼女の信じる「愛」の中には、僅かな嫉妬も猜疑心もあってはならない。だから、彼女は直接的な手段を持って僕にそのことを分からせようとした。悪いのは僕だ。


 朝6時、彼女の家の前に国産の黒いスポーツカーが止まり、中からヨーコと見たこともない男性が出てきた。年齢は25、6歳に見える。全身黒ずくめで、僕とそう体格は変わらないように見える。男は僕を見つけるとヨーコに言う。

「こいつか?」

彼女は黙って頷く。

「おい、てめぇ。ちょっとツラ貸せよ。」

僕たちは黙って近所のグラウンドに行く。工事の資材が積んで有り、誰も通らない。死角。

「テメェが俺の女に手つけたガキか。うざったらしく女のケツ追っかけてんじゃねぇよ。」

「俺は高校生の頃からヨーコと付き合っている。今もまだ彼氏だ。」

「ボコっ。」

いきなり左頬に痛みが走る。殴られたのだ。

「ヨーコはテメェに付きまとわれて困って俺んとこに来たんだよ。テメェがいつまでも別れてやらねぇからだろ。」

「ボコっ。」

また左頬に痛みが走る。僕はよろけながらはっきりとした声で言う。

「俺は彼女に対していつでも誠実でいた。彼女にあんなことをさせるお前の方がはるか腐った豚野郎だ。そんな不誠実な野郎に彼女の男を名乗る資格なんてないんだよ。」

僕がそう言った直後、腹に前蹴りが入り、うずくまったところに顔面へのストレートが入り、稲妻が走る。鼻血がでた。男はさらに僕の胸ぐらを掴み、脅す。

「何の経済力もねぇ、力もないガキが一丁前の口叩くんじゃねぇ。金の切れ目が縁の切れ目って知ってっか。ガキが俺に文句たれんのなんか100年早いんだよ。」

また顔面に痛みが走る。僕は大の字になって後方へ倒れこんだ。

空があった。青い青い空が。

一体どれくらいぶりなんだろう。空を眺めたことなんてここ最近なかった。いつも下を向いて生きて来た気がする。たった半年前は、それなりの高校生活を送っていたはずなのに。付き合ったばかりの頃はあんなに幸せだったのに。あぁ、あの頃に戻りたい。幸せの絶頂だったあの頃に。

青い空を眺めていたら、自然と涙がこぼれた。僕はつぶやいた。

「あぁ。なにやってんだろ。」

私は気だるさを乗り越えて立ち上がり、この場から去ろうとしていた男女に向かって言った。

「僕はヨーコと結婚する。お前の出る幕はない。去れ!」

男の表情はみるみるうちに鬼の形相に変わり、僕に渾身の右フックを食らわせた。先ほどまでとは明らかに違うパンチだ。脅迫の腰の入ってないストレートではない。ノックアウトさせる、腰の入ったパンチだ。

僕は何とか踏ん張って、歯を食いしばり、倒れることを全力で拒否した。なおも男の攻撃は続く。僕は両腕を顔の前で構えてガードする。男は回し蹴りを使う。私は耐えきれずに、膝が折れる。

「クソガキが!」

男はそう言って、僕の顔に唾を吐きかけ、再びヨーコの方へと歩き始めた。

僕は震える膝を押さえつけ、何とか立ち上がり音の背中に向けて言う。

「おい!くそったれの大人。よく聞け。その女から手を引け。これ以上、ヨーコに関わるな。」

僕はヨーコを見た。目が合う。心の中で問いかける。

「いいよな。」

僕は元来、人と争うのは苦手だ。植物のように静かに穏やかに暮らしたいと願って来た。幼い頃から暴力は悪いことだと教わって来た。たとえ自分の身を守るためでさえそれは良くないことだと。テレビのヒーローのように力は弱い者を守るため、自分の大切な人を守るためだけに使われなければならない。決して一時の怒りや憎しみ、欲望のために人を傷つけてはならない。

でも、もうどうでもよかった。自分の信念や倫理なんて糞食らえだ。

男は再び殴りかかって来た。僕は男の右フックをスウェーでかわして左のボディフックをカウンターで放つ。男がひるんだ隙をついて、男の股間をけりあげる。男の腰が折れたところに、渾身の右アッパーを放つ。男は後ろに倒れる。倒れた男の左脇腹に、全体重をかけた右膝を落とす。鈍い音がする。

ボクシングは高校時代に約一年間続けていた。素人のパンチなどよけるのも、耐えるのも訳はなかった。

男の呻き声が妙に耳に残る。脳の一部が熱い。

男の右腕をとり、関節の可動限界以上にねじり上げる。また、鈍い音がする。

何かに取り憑かれたように頭の一部分が完全に麻痺していた。

男の顔面めがけて、全体重をかけた右足を叩きつける。鈍い音。

二度、三度と男の顔面を踏みつける。足の裏で男の顔が潰れていく確かな感触があった。男の顔は今や血だらけで原型をとどめていない。どんな顔だったっけ?

次の僕の攻撃目標は、「首」だ。以前に見たアメリカのハリウッド映画で、首を踏みつけられた男が即死している場面があったからだ。

今の攻撃本能を後に、

「殺意はあったか。」

と聞かれれば、

「殺意はあった。」

と答えるだろう。僕は相手がどうなってしまうかを冷静に認識した上で次の攻撃目標を定めていたのだ。

熱い。熱い。まるで噴火する火山のように、身体の中からマグマがドロドロと流れ出す。18年間の負の感情の全てが、この一瞬に凝縮されている。身体の中で熱を帯びていない部分がない。頭の先から足の先まで、細胞の一つ一つにまで「憎しみ」と言う熱が伝わっていく。全てを解き放ちたいと言う強い衝動にかられる。血の匂いに、口の中に広がる鉄の味に、太古の昔より伝えられて来た遺伝子内の狩猟本能が覚醒される。

「行け!殺れ!畏れるな!」

背中を押すDNAの声が聞こえる。私は一歩、また一歩と男との距離を縮めていく。

突然、右腕を掴まれ、私はふっと我に帰る。彼女の手はとても冷たかった。

「殺んの?殺んのだけはやめて、お願い。」

急激に体温が下がっていく。水をかけられたタバコの火みたいに。気持ちが急速に萎えていく。

彼女は男に近づき、耳元で囁いた。

「なめんなよ。あたしに近づいたら、今度こそコイツがあんたのこと、殺るからね。リベンジとか考えんなよ。」

ヨーコはそのセリフが、僕には聞こえないだろうと思っていたのだろう。僕の方を向いた時はいつものヨーコの顔になっていた。

「いこっ!」

彼女は腕を絡めて、早足でその場を後にした。ヨーコは歩きながら、ブランド物のバックから携帯を取り出して119番に電話して救急車を手配していた。僕は一度も男の方を振り向かなかった。

ヨーコのアパートに着くと、彼女は鍵を放り投げ、部屋にいざなう。部屋の中は暗い。

玄関は、ブーツや靴で溢れていて、僕の靴を置くスペースもない。仕方がないので、サンダルの上に自分の靴を重ねて置いた。アパートは六畳二間にダイニングキッチン。母子家庭ならこの広さで十分なのだろう。まして親も子もしょっちゅう男のところに泊まり歩いていてほとんど家にはいないのだから。乱雑に散らかった部屋は実際にはもっと狭く感じる。物が多すぎるのだ。この部屋には必要ない物で溢れている。まだ9月なのに、こたつがあるし、ピカチュウのぬいぐるみや敷きっぱなしの布団、布団の脇には数え切れない洋服の山、山、山。僕がプレゼントしたプラダのバックもその山の中にあった。

ヨーコは僕に布団で横になれと言う。風呂場から、濡れたタオルを熱い湯で絞ってきて、僕の血だらけの顔や身体を丁寧に拭いてくれた。

ようやく、自分の身体の痛みに気がつく。大量に分泌されていたアドレナリンの効果が収まったのだろう。顔面が特に痛んだが、男の痛みはこんなものではないはずだ、関節も外したし、骨も最低2本は折ったのだから。

遠くでサイレンの音がする。救急車が到着したのだろう。

ヨーコは言う

「あいつ、ヨーコの全てが欲しいとか言って、アナルにぶち込んだんだのよ。ヴァギナにはバイブを突っ込んで、本当死ぬかと思った。」

ヨーコは僕の股間に手を伸ばし、ジーンズを剥ぎ取るかのように脱がし、下着も脱がせ、私の性器を口に含んだ。

もうされるがままだった。こんな状況下でも僕の性器はきちんと機能している。脳内では快感を感じさせる脳内物質が分泌され始めている。自分も獣なのだ。

目を閉じて、快感の波に神経を埋めているうちにヨーコは生まれたままの姿になっていた。そのまま、しっかりと硬くなった僕の性器を、自らの性器で包み込む。驚くことに、なんの前戯もしていないのに、彼女の内部は今までにない以上に潤っていた。

僕はその光景を見ながら思った。つい何時間か前には別の男の性器が入っていたのだと言うこと。僕にはアナルもバイブも別世界の話だった。僕は日頃の彼女の罵倒により、すっかりセックスに自信を失っていて、劣等感すら持っていた。

もはや自尊心すらどうでもよくなっていた僕は、彼女の好きなようにさせた。

彼女は騎乗位のまま、激しく僕の上で上下、前後に動いて、互いの性器が擦り切れそうになるほど腰を振った。僕は耐えきれず、初めて女の中に射精した。

僕が果ててもヨーコは動きを止めようとはしない。

「もう一回。もっと、もっと。」

彼女は僕の耳元で囁く。

「このまま、あたしの中で、もう一回硬くして。大丈夫でしょ。若いんだから。」

僕の下半身は熱かったが、頭の一部分は冷静だった。

彼女は自らが果てるまで腰を振り続けた。自らが果てても、彼女は身体を離そうとはせず、熱い吐息で抱きついたままだ。僕の耳元は彼女の吐く息の音しか聞こえない。首筋に彼女の髪の毛が触れてくすぐったい。互いの胸が重なった部分は汗で濡れている。まだ僕たちは繋がったままだ。

しばらくして、呼吸が整うと、彼女は身体を重たそうに起こし、再びゆっくりと腰を振り始める。僕と彼女の接合部は互いの精液でビショビショだ。そんなことはおかまいなしと言わんばかりに、むしろ彼女はより興奮して、彼女の腰使いは激しさを増す。さっき果てたはずの僕の性器も再び血液が循環し硬くなっている。

彼女は、果てては休み、また腰を振る、また果てては休みを永遠と繰り返す。

僕は何度も何度も彼女の中に射精させられた。

一体、何時間くらい繋がったままだったのだろうか。もうだいぶ日が高くなった頃、彼女は最後の絶頂を迎え、やっと僕の上から降りた。

僕たちは今まで経験したことのない長い長い性交を終えた。もう空っぽだった。


あの男を半殺しにして、ヨーコの中に射精したあの日から、私の中で何かが少しづつ音を立てて崩れ始めた。

あの日、世間の話題はニューヨーク同時爆破テロの話題で持ちきりだった。世界中の報道機関がその報道をした。僕も映像を見た。とても違和感があった。なんの現実感もなかった。ハリウッド映画の方が迫力があって、何倍もリアリティがあった。ニューヨーーク貿易センタービルに旅客機が突っ込む映像は、その下で何千人もの人の尊い命が失われているとは思えない程、淡々として流され続けた。僕はそのことになんの興味も湧かなかった。


彼女に対しての情熱が日を追うごとに衰えていくのを感じていた。彼女の為に生きることを放棄した瞬間、もう全てがどうでもよく思えた。容姿なんて気にしない。髭が伸び、寝癖頭で目の下にクマを作って、腫れた顔でバイトに行った。


僕は急に学校に行く気になった。バイトもクビになったし、ヨーコの送り迎えもやめた僕には時間があった。専門学校には電車で通っていた。駅に行き、電車に乗るためにホームで電車を待っている間中考えていた。

「今ここで電車に飛び込んだら、楽かなぁ。」

久しぶりの電車は心地よかった。全てを放棄したら、時間がゆっくりと流れていた。結局、学校には行かず、そのまま山手線を何周かして家に帰った。


彼女はあれからも何度も僕の部屋に泊まりにきたが、変わり始めた僕の心情を敏感に察したようで、僕の機嫌をとるようになった。僕は今まで通り、彼女に何も文句も言わず、束縛もしない。どんどんと彼女への興味を失って行く。彼女の方は危機感からなのか、よく連絡を寄越すようになった。外泊もしなくなった。ほぼ毎日僕の部屋に帰ってくるようになった。簡単な食事も作るようになった。


ある日、彼女は車の免許を取ったので、夜中のドライブに僕を連れていくという。どこから調達したのか、軽の黒いワゴン車を借りてきて、気が進まない私を無理やり助手席の載せて出発した。夜中に起こされて、身体を求められるよりは楽だからと自分に言い聞かせて、我慢した。あの日以来僕たちの性交はない。僕が一方的に断っていたからだ。

車が動き始めると、どこか違和感を感じた、夜の街をあまり見慣れていないからだろうか、助手席からの眺めだからだろうか。10分ほど走ってやっと気がついた。

「あれ?日本て、右車線だったっけ?」

「ヤダ!」

彼女は慌ててハンドルを切り、左車線に入った。田舎の夜道で対向車が来なかったため、事故を起こさなくてすんだ。僕は至って冷静だった。彼女がこのまま僕と無理心中するつもりなら、それはそれでいいとすら思っていた。

「どうしたの。大丈夫?」

「ね、眠くて、間違えちゃった。」

僕たちはお互いに少しだけ、微笑んだ。それが二人で笑い合えた最後だった。


ヨーコは、その後順調に車を走らせ、友人の家に僕を連れて行った。現在時は夜中の2時。友人の名は「アイ」僕らと同じ高校の同級生だったらしいが、興味はなかった。アイの家も母子家庭のようだが、経済的には恵まれているのか、二階だての一軒家に住んでいた。アイの部屋に通されると、そこには彼氏の姿。地味なトレーナーに短パン姿で、長い髪はボサボサ、目は細く、気が弱そうな男で歳は上に見えた。自己紹介されたが、興味が湧かず名前すら覚えなかった。アイの部屋でタバコと酒をあおり、そのまま寝る。

ベットにはアイと彼氏。布団に僕とヨーコ。僕はずっと眠かった。最近、熟睡できず、毎日悪夢で目が醒める。闇が体を蝕み、心を重たくさせる。僕はずっと闇の中を彷徨い歩いている。

 やがて、脳が眠りにつこうとした頃、ベットの軋む音で目が覚めた。ベットの上には二匹の獣がいた。ヨーコと目があった。彼女も起きてしまったのだろう。彼女はぴったりと身体を僕に擦り寄せ、僕の下着の中へと手を滑りこませて、僕の手を自分の股間へと導いた。僕は拒否した。

「こいつら、それしか頭にないのか。」

もう、うんざりだった。肉欲にまみれた雌豚の相手はこれ以上していられない。

彼女と別れることを決めた。翌朝、アイの家から僕の部屋に戻ってきた時点で、僕の方から別れを告げた。彼女は憤り、嘆き、抵抗したが、僕は無視して部屋を出た。

 翌週、僕は部屋を引き払い、実家に戻った。彼女は別れてからも何度も連絡してきたが僕は取り合わなかった。復縁などない。彼女がどれだけ懇願し、必死に謝ろうとも、甘え声で誘惑してきても、僕は断固拒否し続けた。彼女を守ることを一度放棄した無責任な僕が、もう一度やり直すなんてより無責任なことはしない。その頃は、それくらいの意思や理性は持ち直していた。もし、完全に理性が失われていたら、僕はきっとあの男とともにヨーコを殺していたかもしれない。命が助かっただけでもありがたく思って欲しい。

 その年の冬のことだった。またヨーコから連絡がきた。いつもの復縁話だろう。僕がうんざりして電話を切ろうとしたら、彼女の口からとんでもない言葉が飛び出した。

「赤ちゃんができたの。」

頭が真っ白になった。僕は今すぐ彼女に会わなければならない。僕は徐々に闇から解き放たれ始めていて、そこそこの社会生活を送れるまで精神的に落ち着いてきていたのだ。

彼女は子供を堕すという。彼女の一言で、再びドス黒い闇が胸の辺りで蠢き始めた。僕はとにかく会って話をしようと説得を試みたが、彼女は頑なに受け入れない。電話先で彼女の泣く声が聞こえる。

「二人の命のことを一人で勝手に決めないでくれ。そんな簡単なことじゃない。」

彼女には何を言っても無駄だった。もう堕胎手術する病院も手術日も決まっており、費用も工面できているという。僕は焦って毎日彼女に連絡するがラチがあかないので、直接彼女のアパートにも行ったが、彼女はどこかに雲隠れしており、母親も行き先は知らないという。

結局、彼女とは連絡がつかないまま、手術日を迎えた。堕胎手術の行われる日、僕は僕を責め続けた。あの日の愚かな行為も、その後の彼女を見捨てたことも、妊娠の事実を知っても何もできなかった無力な自分にも。

僕は彼女のアパートに向かうために家を出て5分も歩かないうちに、貧血で倒れて、救急車で運ばれた。この一週間何も食べてなかったからだ。

点滴を打って、病院を出ると、すぐに彼女の携帯に電話した。

「プルル。」

やっと呼び出し音がなった。

「もしもし。何?何か用?」

何も言えなかった。なんて声をかければいいのか分からない。

「手術どうだった。」

「・・・・。」

「堕したんだろう。」

「・・・・。」

よほど辛い出来事だったのだろう。しばらくの沈黙が続いた。

「嘘だよ。」

「はぁ?」

彼女はもう一度、僕に自分の方を向いてほしくて、追いかけてほしくて、だから嘘をついた。妊娠していないのは会ったらすぐにバレてしまう。

だいたい、4ヶ月、5ヶ月になれば、お腹は大きくなっているし、堕胎手術ができる月齢も過ぎているので、本気にするとは思わなかったという。

よくよく考えてみれば、僕は彼女の言葉を全て真に受けていた。何の証拠もないことなのに。

「もういい加減にしてくれ!お前の何を信じたらいい!そんなんでよく復縁してくれなんて言えるな!フザケンナ!」

今日まで一度も僕は彼女に対して、声を荒げたことはなかった。9・11のあの日でさえ僕は一言も彼女を責めなかったし、別れるときも口論になる前に姿を消した。


静かで暗い、なのに、確かな憤怒が私の身体を、細胞の一つ一つまでも熱くさせていた。それは、あの男を潰した時とは異質の怒りだった。

あの時は、僕を裏切る圧倒的な悪意の裏切り。

今回の嘘は、人間の尊厳を踏みにじる行為だ。

だからこそ、僕はこの怒りに何の意味がないことに気がついた。全ては無意味で、ここにあるのはただの虚無だ。

僕は勉強机の引き出しからカッターナイフを取り出して、自らの左手首に刃先を向け、電話先のヨーコに向けて言った。

「もう、終わりにしよう。」



そこでやっと夢から覚めることができた。目の前はアスファルトを歩く人々の往来がある。私はまだ、地面に横たわっていた。

長い夢だった。しかし、今、見ていた夢が本当に夢なのか。非現実と言い切れるのか。あの生々しさ、絶望感、肉欲に溺れた陰鬱な情景。私は判断能力を欠いてしまっていた。欲に溺れる人間の愚かさを見つめる。

私の頭の中で、何度も何度も繰り返し、理性は強姦された。圧倒的な悪意で。力に任せて、無理矢理に、何度も。私は精神のバランスを保ち続けられない。

何かの本で読んだことを思い出す。

「人間は一定期間極度の重圧の中で過ごすと悪夢を見るが、それは、不安定になっている精神の均衡を保とうとする防衛本能だ。」

と。私にはそうは思えなかった。この先もずっと私は悪夢に苛まれることだろう。精神が安定することなど二度と来ない。

私には何が真実で、何が現実なのか分からない。今、こうして感じているアスファルトの冷たさが現実であると誰が断言できるのだろうか。夢の中だって、寒さも感じれば、痛みを感じる。

それからは昼夜を問わず、ハコを思い出す際にヨーコの記憶も蘇るようになった。


一体、誰がわかるのだろうか。現実と非現実の世界。なぜ、このあやふやな世界に対して、誰も疑問に思わないのだろうか。この世界に住むほとんどの人が、自分が棲む世界のことしか見えていない。けれど、あちら側の世界だって必ず存在している。誰もがみなその存在に気がつきながら、気がつかないフリをしている。

一体、何が正常で、何が異常だというのか。それ自体が不確かなはずだ。ほんの50年前まで、殺し合いをするのが当たり前の世界だった。それが今は平和を叫んでいる。同じように、一個人においても、理性と欲望は紙一重。表も裏も簡単にひっくり返すことができる。環境が違えば、人は人を平気で傷つけられる。世界は危うい関係にある。現に、正義も悪もこの世界には確かなものなど何一つとして存在しない。自分たちが気がつかないようにしているだけで、表層に現れていない深層意識下では皆が相変わらず、動物的欲求を抱えている。皆はそこに向き合わない。都合の悪いことには目を向けない。そうしなければ、生きていくことが困難だからだ。

理性の光が強ければ強いほど、欲望という影ははっきとコントラストがつき、浮かび上がってくる。私は生前のハコを天使のように思っていた。なのに、今は彼女を悪魔にまで見立ててしまう。

ユングだかフロイトだかが言っていた。人間は極度のストレスでは、たった5秒で胃に穴があく。確かにそうなのだろう。心と身体は繋がっている。精神のバランスを崩して健康でいられるわけがない。

私の脳は、理性と欲望の海を彷徨っていた。脳のネットワークはすぐに彼女との思い出に接続される。丁度、小学校で九九を暗記させられた時のように、繰り返し同じことを考えていると、考え易くなる。問題は、何をどう考え、どこまで深く考えるかということだ。

孤独な人間は自分の殻に閉じこもる。人の言うことに耳を傾けようとはせずに被害者意識に支配される。「他人に自分の痛みは分からない。」と自分で境界線を引く。それは当たり前のことなのに。「相手を理解している。」なんて言うのは傲慢な誤解に過ぎない。それは、夜の闇が毎日勝手に訪れるのと同じように、地球が丸いのと同じくらいに当たり前のことなのだ。極論を言えば、「愛している」こと自体が思い込みの範疇なのだ。

思い込む、思考する、誰かを想う、想像する。言葉は違うが、それはあちら側の世界として人々の傍にいつもある。それがなくては、人は生きていけない。言い換えれば、人間として生きている意味がない。

「表裏一体」というこの事実はもはや曲げよのない事実だった。

「言葉」という手段で表される、コミニュケーションを必要としない、今のこの環境において、私はいくらでもあちら側の世界に身を置くことができた。

責任だとか、将来だとか、そんな心配は皆無であった。非現実世界、精神世界。自分の内面世界。なんと読んだらいいのかすら分からないが。とにかく私は、おはやこちら側の現実世界を感じることが困難になりつつあった。

いつか彼女が言っていた言葉を思い出す。

「深い海の底で閉じ込められた貝の様」

深い暗闇の中では、光は完全に遮断される。常時が暗闇の世界に私はいる。

闇の中でハコの姿を探す。深い深い暗闇へと潜っていく。闇の底でもがいているヨーコも、光輝くタイヨウの下のハコも私は救えない。

光とも影とも付き合えない。どんな矛盾や、不条理、理不尽さよりも、無力で愚かな自分自身が何よりも憎い。

光も影もない世界でしか、私は生きられない。

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