旅① 絶望
ある朝、私は朝食のパンとコーヒーを用意していたら、寝ぼけていたのかマグカップを落としてしまい、カップは音を立てて割れてしまった。それはハコが以前にくれた、ドラえもんの絵が側面にプリントされたカップだった。
彼女がアパートに来た時、そのマグカップで彼女は紅茶を飲みながら、紅茶が大好きだという話をしていた。
「ダージリン、アールグレイ、アップル、オレンジペコ、、、紅茶には神経をリラックスさせる効果があるのよ。」
ハコはそうして紅茶の素晴らしさを話して聞かせた。
そのことを思い出したとき、言いようのない痛みが腹から頭にかけて走った。そして頭の中に大きな音が響いた。
「ピッキーン。」
それはあるいはただの耳鳴りだったのかもしれない。何かは分からないが、その瞬間に里中ゆうきの中で何かが弾けた。
まだ起きたばかりで、寝間着姿だったが、その上にコートを直接羽織り、ハコのくれた赤い手編みのマフラーをして、財布だけを持って、割れたマグカップもそのままにして家を出た。
私は10年前のあの丘の時と同じように、どこにいくあてもなくただ彷徨い歩いた。何も感じない。どの道を、どのように、どのくらいの時間で歩いているのかも分からず、本能の赴くままに歩き続けた。私の全ては思考力に注がれた。
私はハコのいないこの世界に独りで取り残されたことを、あのマグカップが割れた瞬間になって、やっと自覚した。森谷といたときも、彼女の葬儀の時でさえも私は泣かなかった。私は病院で彼女の遺体を目の前にして、冷たくなった彼女に触れていたのも関わらず、彼女が死んでしまったという事実すらきちんと理解してさえいなかった。
そんなことはあり得なかったからだ。私は、昨日も今日も明日も彼女と一緒に生きていくと信じきっていた。何があっても二人で力を合わせながら、少しずつ前に進んでいく。そのためならば、どんなことでも我慢する覚悟があった。当然、彼女が亡くなるなんて想定外の出来事で、死は祖父のような老人達から順番に訪れるもので、17歳の私たちには無縁のものだと思っていた。私は今、確かにこうして心臓も動いていて、生きている。なのに、私はこの世界に生きてはいなかった。あまりにも死に対して無防備過ぎた。
ハコと過ごしたこの僅かな時間の全てを私の脳は記憶している。まるで全てが昨日のことのように、はっきりりと鮮明に。だから泣く必要がなかった。彼女は少し遠目の旅行かなんかに出かけていて、しばらくの間だけ会えないくらいにしか感じていなかった。私はあちら側の世界に生きていた。
今になってようやく、森谷が危惧していたことの意味を理解できた。だけど、だからってどうしようもなかった。
現実世界にハコはもういない。そして、ハコのいない世界に私はいる。どうしてーーーーーー。
私はただ歩いた。足がだるくなるまで、ひたすら何時間も歩き続け、足が棒になると、どこか人目につかない公園のベンチの上に寝転んだ。1月の真冬の寒さは容赦なく体温を奪っていく。私はコンビニで酒を買い、酒で体を温めた。初めてタバコも買った。ただ咳き込むだけで、肺も苦しくなり、むせてしまったが、私はそれから毎日酒とタバコを摂取し続けた。食事は摂らなかった。
初めての野宿の夜、ハコがいなくなって初めて涙を流した。次から次へと涙が溢れる。時々嗚咽混じりになり呼吸が苦しい。それでも涙は止まらない。私は空っぽの胃から胃液だけを何度も何度も吐き出した。初めての嘔吐で、こんなにも辛いなんて思いもしなかった。吐いたら楽になるなんて、嘘っぱちだと思った。少し感情が落ち着いたかと思うと、目の前には彼女との思い出が現れては消え、一つの波が過ぎると、また次の波が押し寄せてくる。海の波のように、繰り返し、繰り返し。
夜の闇は確かに希望も夢も愛も全てを容赦なく奪っていく。ハコのいう通りだった。
凍てつく寒さと空っぽの身体が小刻みに震えている。カチカチと歯を鳴らす音が耳につく。
「一分が一時間の様」
そのハコの手紙の一文を、今、身をもって実感した。夜という時間はなんて長いのだろう。冬時間ということもあり、昼間よりも夜の方が長い。一日の半分以上、人々は愛を奪われている。その恐ろしい事実に人々は気がついていない。その事実に気がついてしまったハコの苦悩。夜が来ることがこんなにも恐ろしくて、こんなにも長くて辛いものだなんて知らなかった。この世界に心の繋がった人が居なくなってしまっただけで、夜空に浮かぶあの月でさえ恐ろしく感じてしまう。
月は黙って煌々と私を照らしている。いつも変わらずにそこにいる。私が幸せであろうが、不幸であろうが、変わりなく太陽の光を反射し続けている。愛を奪われた人間へのせめてもの慈悲なのだろうか。昼間には姿を消し、夜になると現れる。哀れな人間の、人々の不幸を、幾千億もの痛みや嘆きを、私たちの遥か頭上から何億年も前からずっと見続けてきたのだろう。静寂と傍観を守り続けているあの月が憎らしい。私はなるべく月の光の届かない闇へと逃げていく。
目にする全てのものがモノトーンに写る今、何を見ても虚脱感が全身を包む。楽しそうに笑い合う女子高生、乳母車を押す若い主婦、土産にケーキを買って帰るサラリーマン、自由を満喫している大学生のグループ。人々の往来を眺めていると、彼らの顔には私には失われてしまった幸福があった。私はその中でも特に高校生のカップルが手を繋いで歩いている姿を見たとき、胃のあたりがキリキリと音を上げていることに気がつく。もしそのまま視線を外さなけれなば、きっと胃に穴が空いていただろう。
「永遠に自分には訪れないであろう幸福」
をまざまざと見せつけられているようで、何の関係もない幸福な人々に醜く嫉妬した。
ハコ失った17歳で、里中ゆうきもまた死んだ。残りの人生なんて残りカスに等しい。ハコを失うということは、全てが終わったも同然だ。夢も目標も希望もない。私は初めて「絶望」というものを味わった。涙腺は緩みっ放しで、光あるものすべてに拒絶反応を起こし、自分の意思とは無関係に涙が流れる。
野宿一日目はほとんど眠ることができなかったが、日が経つに連れて徐々にこの寒空の下でも眠れるようになってきた。
ポケベルもPHSも持って来なかった。今日が何月何日何曜日なのかも思い出せない。今頃、家出人捜索願が出されているかもしれないだとか、学校の勉強や部活が遅れてしまうとか、皆が心配しているかもしれないだとかの現実世界のことはもう考えたくもなかった。家族とか友達とか全てが煩わしかった。
凍てつく寒さ、疲労感、筋肉痛、虚脱感、空腹感、どうしようもない胃のムカつき。そういった肉体的な苦痛は悔しいほど、自分が今生きているということを実感させた。
「彼女はもう苦しいと感じることさえ出来ない。思えば、彼女の人生は苦行だらけじゃないか。愛する人に先立たれて、厳しい親に監視され不自由で、楽しいこともできずに我慢ばかりして、苦しくて傷ついているのに、人には優しくて、いつも前向きに頑張って居た。これから少しずつ幸福を掴んでいくはずだったのに、どうして彼女が死ななければならなかったんだ。世の中には生きていても人を傷つけてばかりいる輩や、世の中の大半の人間がそうなように、命のありがたみや大切さを忘れて怠惰に生きている奴が大勢いるのに。そうして誰よりも命の尊さを知っていた彼女が、その大切な命を奪われなければならなかったのか。今年の初詣の時、私は神様とやらにあんなに真剣に祈りを捧げたのに、この世には神も仏もない。なんて理不尽で不条理な世の中なんだ!」
そうして私はやり場のない怒りに心を支配され続けた。夜の公園で獣のように泣き叫ぶ。もはや羞恥心などない。夜の闇に向けて何度のハコの名を叫ぶ。涙が頬を伝いマフラーに沁みていく。何度ハコの名前を叫んでも何も起こらない。起こるはずがない。私の口からはただ白い吐息が漏れている。
「音は空気の振動」それが音の正体だと科学の時間い教わったことを思い出す。空気の振動が、全ての活動を停止した者に届くわけがない。まして、その肉体すら今はなく、あるのはただの白いカルシウムの塊だけだ。ついこの前まで元気に活動を続けていた何兆もの細胞は、今はその活動を停止させ、有機物は高熱により変化し無機物となった。細胞が粉々になり形を変えた。
たったそれだけのことさ。なのになぜこんなに涙が流れるのだろう。
私の思考の波は衰えることを知らないかのようだった。やがてサイレントタイムが訪れる頃になって、私は夜の闇から解放される。一体、私はあと何度こうしてサイレントタイムを経験するのだろうか。彼女と共に過ごした、私のお気にりの時間、今は苦痛でしかなくなったこの時間を、ハコのいなくなったこの世界で、何度過ごせば赦されるのだろうか。それはとてつもなく長い時間なのだろう。
夜を迎えるのが怖かった。人間の動物的本能だろうか。闇は神秘的で曖昧な空気で、人の心を誘惑し狂わせる。人の三大欲求のうち夜に行われる行為が多い。闇は人々から愛を奪い、欲を与え、音まで奪っていく。静かになればなるほど、私の思考力は向上する。黒一色のその世界は、私の心まで染めていく。光ある時には考えもしなかったことまで闇は一緒に連れてくる。
もはや私には戻るべき場所などない。家にも学校にもどこにもない。それらは私とハコがいないというだけで、他のことは以前の何一つとして変わることなく存在し続けている。ハコがいないことが当たり前の世界に私はいられない。
私という個人がこの世界にいようといまいとこの世界には何の関係もない。どうでもいいことなのだ。誰も私のことなんか気にしない。現に、寝間着姿にコートというアンバランスな格好をした若い男が一人で真昼間から虚ろな表情で歩きながら酒とタバコを煽っていても誰一人として呼び止める者もいない。
私はもう一人の自分と話をする。
「なぜ彼女を守れなかったのだ。お前は彼女を守る、支える、幸せにすると誓ったはずだろう。なのに、彼女は不幸にも死んでしまった。辛い過去を引きずったまま。これから幸福の未来があったのに、お前と出会ったばかりに、彼女は不幸になった。最後の夜お前は彼女に何を言った。彼女は精神的に不安定で、自暴自棄になりかけ、衰弱していたのではないか。それをお前がさらに追い詰めた。お前のせいで彼女は死んだ。お前は人間のクズだ。カスだ。ゴミだ。嘘つきで、卑怯で、醜い心の獣。傲慢で強欲の精神異常者だ。お前に出会ってしまったことが彼女の人生の最大の不運だ。彼女の純粋でダイヤモンドのように光輝く魂は、醜いお前に陵辱され、汚された。堕落した精神、負の因子、それがお前の本質。お前の知的貧困、意志薄弱が、幼稚さがどれだけ彼女に迷惑だったことか。お前の言動、存在全てが無意味だ。彼女の存在を消してしまったお前がこうして生きていることが罪だとは思わないのか。」
私は少しずつ、確実に変容していく。見えないナイフで心を少しづつ削られていく。精神の袋小路を彷徨っていた。理性的思考は姿を現すとすぐに消えた。私にとって彼女のいない世界に一人取り残されたいうことは、この世の終わりに等しく、私の全人格、人間性、存在すらも否定されたも同然だった。
一週間も経つと私の五感は研ぎ澄まされて、非常に鋭利な刃物のようだった。食事をほとんど摂らず、酒とタバコだけの日々。コンビニでパンを一つ買って口に運ぶだけで一苦労だった。食べ物の匂いを嗅ぐだけで頭が痛くなり、いざ口にすると必ず吐いた。また、大型トラックの音、バイクの音、サイレンの音、大きな音がするとその場にうずくまり、耳を塞いで、音が止むのを待った。外界からの刺激に対して、身体が対応出来ずに、三半規管がいかれて立っていられないのだ。
意識は常に朦朧としていたが、ハコとの思い出だけはいつも鮮明だった。思い出さずにはいられなかった。もはや、私の思考回路はハコのことのみにしか接続されない。その他の記憶は全てシャットダウン。できることならこの頭から全て消去してしまいたい。わずか一ヶ月のハコとの思い出が次々と湧きだしては消えを繰り返す。私はそれを止める術はなかったし、その必要もなかった。
タマヤの前で交際をOKしてくれた時の彼女の笑顔。無邪気な顔で目を輝かせていた水族館。聖母のように抱きしめてくれた鎌倉の海。彼女の温もり。キスした後の赤く高揚した頬。部活中の彼女の汗、白い肌、バランスの良い脚線美、小さかった手、濡れた髪の毛、潤んだ瞳も、私の中でそれは鮮明な映像として、当時の空気や風、匂いに至るまで全てを記憶している。繰り返し、繰り返し同じムービーが私の頭の中で流され続けている。なのに、私はハコに触れることも、声を聞くことも、温もりを感じることもない。そんなはずはないのに。
「ハコ」
何度も何度も彼女の名前を口にする。何度サイレントタイムを超えても彼女は現れない。彼女に会いたい。
日増しに身体の中で云うことを利かない部分が増えてくることに腹が立つ。自分の身体のはずなのに、自分の身体ではない感覚。私は少し歩いては、立ち止まり、また少し歩いては立ち止まりを繰り返していた。そういえば、前にもこんなことがあった。一日で60kmを走ったとき、最後はこんな風だった。あの頃はただ肉体が辛いとしか思えなかったのに、今は前ほど辛くない。ゴールが見えているからだ。
やがて私は歩いても歩いても辿り着くことが出来ないことに苛立ちを覚え始めて、自らの肉体をコンビニで買ったカッターナイフで切りつけ始めた。縦に横に斜めに。致命傷にならない程度に、自殺は最も重い罪なのだから。
手が届く範囲の全てに傷をつけていく。全身から血が流れた。ヒリヒリとして、一歩足を前に出すだけで、その度に傷口と服が擦れて、やがて全身に熱を帯びるようになった。その夜から出始めた高熱は3日経っても4日経っても引かずに5日目にやっと動ける程度の熱まで下がった。動けるようになると、都会の公園のダンボールからネズミのように這い出てふらふらとした足取りで、私はコンビニに向かった。コンビニで酒を買う。レジの女の顔が曇る。おそらく私の体臭だろう。道行く人々が私を避けるようになった。汚い蛆虫を見るような白い目があちらこちらから向けられる。私はそんな視線に構うことなく繁華街の方へと歩いていく。街は私の心とは関係なく、冬の寒空のしたでも賑わっていた。肩を寄せて歩くカップルを見る度に、私はハコを探した。彼女を探し、彷徨い、いつの間にか路地裏を歩いていた。
どうしてそこに来たのかも無意識で覚えていない。そこで私は数人のチンピラ風の男たちに取り囲まれた。彼らの口はしきりに早口で動いている。何を言っているのか、何一つとして理解出来なかった。私が黙って彼らを見つめていると、その中の一人が大声で叫び、私の頬を打った。どうでもよかった。痛いからなんだと言うのだ。それに何の意味がある。今の私には探すべき人はいても、守るべきものなんて何一つとしてない。何もない。
「殺してください。」
私は小さな声で呟いた。次第に視界が暗くなり、僅かに開いた瞼の隙間からのぞく自分の手や服にこびりついた血、男たちに踏みつけられた、ハコの手編みの赤いマフラーを見て次第に私の声は次第に大きくなる。
「殺してください。殺してください。」
と男たちに縋り付いて懇願していた。彼らはそんな私の様子が気味悪かったのか、私の財布の現金だけを抜き去り、そそくさと街中に消えて行った。地面に這いつくばった私の耳には男たちの足音だけが響いていた。その時の混濁した意識の下で、ただただ死を渇望していた。
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