第2部 別れ

私の鼓動は高まり、心臓の音がやけに耳に付く。今、この瞬間に新たに生まれてきたかのような心境だ。この世界は何度でも生まれてくる。昨日が今日になり、今日が明日になり、希望も絶望もある。そうして世界はこれからも続いていく。私の過去も未来もそうして繋がっていくのだ。

今隣に彼女がいなくても、この空の下、同じ時代に私たちは生きている。そう思えばこれからの苦難にだってきっと立ち向かうことができるはず。

私は徹夜したのにも関わらず、朝の田んぼ道を散歩した。結局一晩悩んでも具体的な解決策は浮かばなかった。私はただ赤いマフラーに顔をうずめて歩き続けるだけだった。

月曜日、いつもの朝。顔を洗い、朝食を済ませて、彼女のポケベルにメッセージを送る。

「オハヨウ。キョウモガンバロ」

ところがその返事はなかなか来なかった。いつも割とすぐに返信がくるのにと心配もあったが、彼女も戸惑いがあるかもしれないし、母親ともめてポケベルを取り上げられている可能性もある。彼女のクラスまで顔を出そうかとも思ったが野暮なことはやめておくことにした。

そうこうしているうちに一限目の授業が始まる。一限目は英語だ。私は2年生の英語については全て予習が終わっていた。全文の和訳も、新しい単語や文法も全て頭に入っていたので、なんとも退屈な時間だった。

私があくびをしていた時にポケベルのバイブがポケットの中で振動し、驚いた。私は教師に見つからないように、メッセージを確認した。


「ハコ、ジコニアウ ユリ」

ユリさんはハコの親友だ。「ジコ→じこ→事故」か!

急に身体中の体温が下がり、血の気が引いていく。一瞬、目の前が見えなくなりそうだった。私は飛び上がるように、席を立ち、廊下に飛び出して、一目散に彼女のクラスに向けて走り出す。

「里中君!」

英語の教師が大きな声で自分の名前を呼んでいるが、気にしてなどいられなかった。ハコのクラスは同じ学年にも関わらず、階が違う。私は4階の西の端、彼女は3階の東の端。一刻を争う場面ではこの僅かな距離ですらもどかしかった。

私は全速力で駆け抜けて、彼女のクラスの扉を勢いよく開けた。

「ガラガラガラ、ピシャ!」

あまりの勢いに扉のガラスが割れたかと思った。

「ハコが事故に遭ったって!」

息を切らしながら怒鳴るような大声が出てしまった。私の視線の先にはユリさんがいる。

授業中だったクラスの全員の視線が一気に私に向いた。

「なんだお前は!今は授業中だろう!自分のクラスに戻れ!」

40代前半の少し髪の薄くなったメガネをかけた数学の教師は毅然とした態度でそういった。

私は教師の言葉を完全に無視して、40人の白い目も気にせず、ユリさんの席にに一直線に駆け寄った。

「どこの病院に運ばれた?ハコは無事なのか?」

彼女は私の勢いに圧倒されながらもなんとか答える。

「し、知らない。」

クラスでも一際目立つ、バランスのとれた美人の顔は紅陽し、困惑した大きな瞳は僅かに潤んでいた。

「おい!聞いているのか!」

と数学の教師は教壇から降りてきて、私の左腕を鷲掴みする。私は、彼の手を振り払い、教室を飛び出して、そのまま彼女の家に向けて走り出した。授業中で静まり返った廊下には私の走る音だけが響いていた。


外に出ると、冬の太陽が燦々と私に降り注ぐ。駐輪場まで行ってから私は自転車の鍵を教室のバックの中にしまっていることに気がついた。鍵を取りに戻る時間も惜しくて私は彼女の家まで走るという状況判断をした。彼女の家は学校からおよそ6kmの位置にある。長距離の私はどれくらいの時間がかかるか瞬時に判断できた。

 無我夢中で走っている間、頭の中は「彼女の家まで走る」ということに集中して、他のことは一切考えなかった。きっとこの時のタイムを計測していたならば、自己ベストのタイムが出ていたことだろう。彼女の家についたとき、息も切れ切れで、制服のYシャツも大量の汗でびっしょりだった。以前に彼女が教えてくれたので、彼女の家はすぐに見つかった。「坂道を下った先の小さな公園の脇にある空色の屋根の家」彼女の説明は明確だった。ゆるい下り坂を下っていくと、小さな公園がある。ジャングルジムとブランコが一つずつ置いてあるだけで、滑り台も砂場もベンチすらない公園。

その公園の目の前の道を挟んで向かい側に空色の屋根の2階建ての家があった。外装は白を基調とした作りでさほど大きな家ではない。いみじくも彼女の家を見るのも今日が初めてだった。私は呼吸を整え、正面の玄関先に立つ。「白糸」の表札がある。間違いなく彼女の家だ。走ってきたせいか、緊張のためか、早る鼓動を何とか抑えながらインタフォーンを鳴らす。なんの反応もない。何度もインターフォンを鳴らすが中には人の気配がしない。当然といえば当然だった。今朝、登校中に事故に遭ったのならば、今頃ご家族も病院に向かっているに違いない。腕時計に目を落とすと時計は9時20分を示している。

私は今きた道を引き返し始めた。今度は、学校までの道を走りながら、彼女の無事をひたすら祈った。下駄箱から校舎に駆け込み、そのまま職員室のドアを勢いよく開けた。

「すみません。2年C組の白糸葉子さんが事故に遭ったそうなんですが。どなたか彼女の搬送先の病院をご存知の方はいませんか。」

私は大きな職員室の隅々にまで聞こえるような大きな声を出していた。授業中ということもあり、教師たちは驚いた表情で一斉に私をみた。一人の体育教師は鬼の形相で私の方へ近づいてきて、いきなり平手打ちを食らわせた。私は勢い余って、すぐ隣に積み上げて遭ったダンボールの箱に頭から突っ込んでしまった。体育教師は私の胸ぐらを掴み、無理やり私を起こし、

「今は授業中だろうが!お前は何をしているんだ!職員室に怒鳴り込んでいくなんて、何を考えとるんだ、お前は!何年何組の誰だ!職員室の入り方も知らんのか!しかもこんなに泥だけにしやがって!」

といい、今度は私を突き倒して、転んでいる私の足に蹴りを入れた。確かに床を見ると泥だらけだった。私は無我夢中で走るあまり、教室から彼女の家までの往復、職員室まですっと上履きのまま走っていたのだ。

「暴力はやめてください!」

見かねた他の教師が止めに入ってくれた。先ほど私のクラスで英語の授業をしていた初老の女性教師で、ハコの担任の教師でもある。

「里中君、よく聞いて。学校には詳しい連絡は何もきていないのよ。」

「彼女は無事なんですか。」

「大丈夫よ。きっと。それよりも里中君が慌ててもどうしようもないでしょ。とにかく、ちょっと落ち着きなさい。顔も身体も汗だらけじゃない。」

そう言って女性教師はハンカチを差し出した。その後、私は上履きを脱がされ、自分が汚した廊下や職員室をモップで清掃させられ、職員室で正座させられた。その間も私は彼女のことが心配で気が気じゃなくて、彼女の無事を祈り続け、学校に次の連絡が来るのを待ち続けた。先ほどの体育教師が「もういいぞ」と言っても私はその場を動こうとはしなかった。昼休みになっても動こうとしない私にハコの担任の英語教師は

「里中君。何か連絡が入ったら、すぐに知らせるから、もう戻りなさい。」

と言って職員室から退室させられた。自分のクラスに戻ると皆が白い目で私を見たが誰も私に話しかけてくる者はいなかった。午後の授業を受けていても、彼女のことが頭から離れずに上の空だった。心の中で彼女の名前を呼び続ける。ハコハコハコハコハコ。

午後になってもその後の連絡はなかったのか、結局放課後になって私は放送で職員室に来るように呼ばれた。

「コンコン。失礼します。2年D組の里中です。」

今度はしっかりと挨拶をしてから入室した。私はハコの担任の女教師のもとへと急いだ。

「先生、里中です。彼女の容態はいかがですか。」

女教師はパソコン画面から顔を上げて私を見た。私は女教師の表情を見て不安に陥らずにはいられなかった。

「里中君。落ち着いて聞いてね。つい、いましがた彼女のお母様から連絡が遭って、彼女、先ほど、搬送先の病院で息を引き取ったそうよ。」

頭が真っ白になった。気が遠くなって、意識を保てそうになかった。

「ーとなかくん。里中君!」

「あっ、はい。」

「大丈夫?」

「はい。だ、大丈夫です。それで、あの、搬送先の病院ってどこですか。」

「○△病院よ。」

「わかりました。ありがとうございます。」

「里中君!」

「はい?」

「変な気を起こしてはだめよ。いいわね。」

女教師は心配そうな顔でそういう。

「はい。失礼します。」

女教師はハンカチを片手に、がっくりと肩を落とし、うなだれた。私は背中に女教師の視線を感じながら、ゆっくりとした足取りで職員室を後にした。その後私は、部室に行き、部長に部活を欠席する旨を伝え、帰り支度を済ませると、自転車で病院へと向かった。ハコのいる病院は学校から3、4kmのところにある総合病院で、救急もやっている比較的まだ新しい病院だった。

 学校から病院までの道のりはそう遠くはない。急げば10分程度で着く距離だ。けれど何故か私はその時急ぐ気にはならなかった。初めて彼女と結ばれた時と同じように、今日のこの一日になんのリアリティも感じなかった。ゆっくりと田んぼ道を進む。自転車をこぐ足が異様に重い。冬の冷たい風が行く手を阻むように私に向かって吹き付ける。その度に私はよろけて、地面に足をつけてしまう。

 やがて、病院が見えてきた。病院の周囲は木々で囲まれ、遠くからは病院の全体像は確認できない。しかも病院の入り口はゆるい登り坂で、来訪者を拒むようなその作りに疑問符をつけられずにはいられなかった。

 たまに、友人たちとカラオケに行く時に、いつもこの病院の脇の小道を通り抜けるのだが、今日はいつもよりも建物が大きく不気味に見えた。

 私は病院に着くと、自転車を指定の駐輪場に置き、鍵をかけ、正面玄関から病院の中に入り、受付の看護婦さんに

「すみません。今朝方こちらに救急で運びこまれた、白糸葉子の身内の者ですが」

と言って彼女の元へと案内してもらった。

 病院は嫌いだった。好きな人はいないだろうが、私は病院独特の匂いが特に嫌いだった。陰気な空気が健康な人間まで病気にさせてしまいそうで。

 看護婦さんの案内で彼女のもとへと無事辿り着くことができた。部屋の前にはおそらく彼女の両親とおぼしき人影だ見える。部屋の入り口には「霊安室」という文字が確認できる。私は彼女の両親と思われる壮年の男女の方へ歩み寄り、挨拶する。

「初めまして。里中ゆうきと申します。失礼ですが、白糸葉子さんのご両親ですか。」

そう言った途端、彼女の父親らしき人物はいきなり私を殴りつけた。1発。さらにもう1発。

「お前のせいでーーーーーー」

私は抵抗しなかった。彼女の父の怒りは全く怖くない。むしろ好感が持てた。彼の怒りは次第にスカレートしていき、いつの間にか倒れた私に馬乗りになって私を殴り続けていた。右、左、右、左、右、左。一体どのくらい殴られただろう。

私を殴りつけるその音に気がついた病院の関係者が彼をとり押さえようとしたが、彼の力は思っていた以上に強かったのか、男性数名がかりでうやっと彼を私から引き剥がした。

「帰れ!貴様の顔なんぞ見たくない!消えろ!消えてしまえ!」

息を切らしながら必死の形相で叫ぶ彼の顔は父親の顔だった。彼女の母はその場で泣き崩れている。

 私は沈黙したまま立ち上がり、ご両親に向かって軽く会釈し、「霊安室」の中に入って行った。彼はそんな私を止めようともがいていたが、両腕を掴まれたまま身動きできずに、廊下の隅々まで届くような大声で何やら叫んに続けていた。

 中に入ると、線香を焚くために使うであろう細いテーブルが置いてあり、室内はとても冷えていた。その薄暗さ、陰湿さからは、たったお1%の生気すらも感じとることができなかった。テーブルのすぐ脇の台には白い大きな布をかけられた、おそらく彼女であろう人が横たわっていた。台のすぐ脇の丸椅子には一人の青年男性の姿がある。

「初めまして、里中ゆうきです。」

「・・・・。」

彼は無言だった。視線は彼女の方を向いたまま黙っている。

彼女の話に聞いていたお兄さんのイメージよりも実物の方が、柔らかくて、優しさそうな印象を受けた。頭の真ん中で綺麗に分けられた髪の毛や薄茶色のブレザー、よく磨かれている革靴、すらっと伸びた背筋、外見からは彼女に似た品のよさを感じた。

私はゆっくり彼女に近づく。室内は私の歩く音しかしない。彼女は何も身につけていないのだろうか、白いシーツから覗く彼女の首元は、シーツに負けないほどにとても白く美しい。彼女の顔を見ると、生々しいほどの事故の傷跡が後頭部にあることがわかった。今、こうして目の前に寝かされている女の子は、ついこの前会ったばかりの、私の知っている女の子だ。外から父親が何か騒いでいる声がした。けれど、この部屋自体は静寂を保ち続けていた。私はシーツを少しだけめくって彼女の手を握った。冷たかった。とても小さく、冷たい、彼女の手。サイレントタイムに私のコートのポケットに入ってきたあの手だ。その手は今にも動き出しそうだ。目の前にいる彼女は私の知っている彼女だ。顔、髪、唇、手。今日も昨日も彼女は彼女のままだ。

「悪いな。」

不意に聞こえた彼の声は、彼の容姿から受けるイメージよりもずっと重く、低い音だった。私はなぜ彼が突然そんなことを言い出すのか理解できなかった。私は彼の言葉には反応せず、彼女を見つめ続けた。ふと、握りしめていた彼女の手から温かいものを感じて手元を見ると、まだ新しい生々しい血液がついていた。

私は小さく、

「ハコ。」

と囁いた。なんの反応もない。私は今度はもっと大きな声で彼女の名を呼ぶ。やはり、なんの反応もない。再び視線を手元に移すと、手だけではなく、私の足元にもおびただしいほどの血液がついている。それは彼女のものではなかった。彼女の父親に殴られた私は鼻血を出し、口の中も相当切れていて、出血していた。制服にも血がついていた。彼女の兄が先ほど謝ってきたわけを今、理解した。

彼女の頬に触れようとした瞬間に、彼女の父親がものすごい勢いでは部屋に入ってきて、そのまま私を部屋の外へとつまみ出した。勢いよく放られた私は、病院の廊下を転がり、壁に後頭部を強く打ち付けた。私のすぐ脇には彼女の母親が半ば放心状態で地べたに座り込み、壁の一点をひたすら凝視し続けている。

私は無言で立ち上がり、彼女の両親に深く頭を下げて、その場を後にした。

一部始終を見ていた病院の関係者らしき人は私の姿を見るやすぐに治療するように勧めてくれたが、私は断って出口へと急いだ。病院内の人々の視線を浴びながら足早にその場を立ち去ろうそしていた私に、先ほど受付で私を彼女の元へ案内してくれた看護婦さんに呼び止められて、絆創膏の袋を手渡された。看護婦さんにお礼を行って外にでた私は、自転車にまたがり、ゆるい下り坂を下って帰路につく。

どこをどう通ったのかよく覚えていないが、私は気がつくとタマヤの前にいた。ほんの1ヶ月前、人生で一番幸せな時をここで迎えた。ここから私たちは始まった。夕暮れの時間、あの時とは違って、デブ猫もおばあさんもいないし、店も閉まっていた。もうすぐサイレントタイムだった。

今日のサイレントタイムはいつもと違って見えた。いつもはとても好きな時間、お気に入りの時間のはずなのに、今日の空、風、光、音、全ての物が私を飲み込もうとしていた。私の存在はこのブルーともグレーとも言えない不思議な色の中に溶け込まれて、細胞の一つ一つが分解されていく。そんな気がした。今日一日私が経験したことも、今この瞬間全てが溶けて一つに混ざり合っていく、光も色も時間も風景も人も何もかも。

いつか彼女と訪れた鎌倉の水平線のように、曖昧模糊とした境界線がそこにあるだけだった。

自転車のペダルが軽かった。自分が漕いでいるのか、自転車が勝手に進んでいるのかもよく分からなかった。けれど、その時のペダルの軽さだけはよく記憶している。後にも先にも、そんな感覚に陥ることはなかった。

私は寒さも感じずにただペダルを漕いでいた。思考力が凍結したのか、情報量の許容量が限界をむかえたか、私の小さな器からは様々なものが落ちていく。一つ、二つ、三つと。そうして落し物の王様になりながら家路につく。


やっと自分のアパートまでつくと私の部屋の前に誰かがいる。私と同じ学ラン。短い髪の毛。すぐ近くまできてそれが森谷だと気がついた。私の帰りを待っていた彼の表情には疲れの色が出ている。彼は無理に微笑んで見せて、

「大丈夫か。」

と尋ねた。

「ああ。」

「どうしたんだよ。その傷は。何があった。」

「森谷こそどうしたんだ。俺のところに来るなんて珍しいじゃんか。」

彼は心配して駆けつけてくれた。しかも今日は親の許可も得ているのでアパートに泊まるという。彼にしてみれば、「一人にしては置けない」らしい。

私がこんな時でも実家に帰らずに、一人暮らしのこのアパートに帰るであろうことを知っている彼に親しみを感じていたものの、私はなぜかそんな彼に対して多少の疎ましさも感じていた。

 部屋の鍵を開けて、アパートの中に入ったとき、妙に懐かしく感じた。今朝この部屋を出てまだ10時間程度しか経っていないはずなのに、何ヶ月も旅を続けて戻ってきた時のような安堵を疲労が私を突如襲った。20kgの重りをつけたように身体全体が重い。瞼も重い。森谷にキッチンやトイレの場所を説明して、私はソファに腰掛けた。彼は落ち着かない様子だった。

「森谷、少しは落ち着いたらどうだ。」

彼は、今日私の身に起こったことへの質問をしてきたが、私は曖昧な返事を繰り返すだけで精一杯だった。彼も察したようで、しばらくして質問を切り上げた。

彼は一生懸命に何かを喋っているが、私には彼の話の内容がなに一つとして頭に入っては来なかった。私たちはカップラーメンを食べて、順番に風呂に入り、早々に床に就くことにした。彼は猫のように丸くなって眠っていた。そう言えば彼がうちに泊まりにきたのはこれが初めてだった。

先ほどまでの急激な睡魔は今はもういなかった。体のあちこちが痛んだ。彼がいるせいもあるが、深夜になっても一向に眠気はやってはこなかった。こんなことは初めてだった。私はカーテンの隙間から差し込む弱い月の明かりを黙って眺めていた。すぐ隣では親友の彼がスースーと一定のリズムで寝息を立てている。彼の寝顔はまだ幼さが残っていた。

 やがてサイレントタイムが近づいてきた頃やっと眠気の神様が降りてきて私は眠りにつく。深い眠りだった。途中で目覚めることも、夢を見ることもない。暗闇が私を支配していた。

 次に目が覚めたときはもう日が傾き始めた夕方だった。かれこれ10時間以上眠った計算になる。寝ぼけていた私は夕焼けを朝焼けと勘違いした。それほど深い眠りだった。

「やっと起きたのか。気分はどうだ。何か食べるか。」

森谷がいた。彼は今日はわざわざ学校を休んでまで私が目覚めるのを待っていてくれた。彼はキッチンに行き、インスタントコーヒーを二つマグカップに入れて持ってきてくれた。

「ありがとう。」

寝ぼけた頭にはカフェインで覚醒するのが一番と思ったが、コーヒーをすすると口の中に痛みが走った。私は考えた。なぜこんなに身体があちこち痛いのか。私は鉛のように重い身体を起こして洗面所で顔を洗おうとした。鏡を見ると、そこにはまるで別人のように腫れ上がった顔の男が写っていた。

「大変だったな。」

私は返事をするのも億劫になり、黙って布団に上に戻ってその上に座臥した。

彼は学校にも連絡をしてくれて、今後のことを色々と調べてくれていた。

通夜や葬式、告別式に火葬などこれから様々な儀式が行われる。

私は他の同級生とともに、告別式に参列した。もちろん両親の同意が得られるはずもなく、私はただ遠くから行事を見つめることしかできなかった。同級生たちは皆それぞれに悲しみを表現していた。涙をこらえているものもいれば、堂々と泣きじゃくる生徒もいれば、退屈そうにあくびをしているものもいる。故人との関係において感情が違うのは当然のことだ。私だって見ず知らずの赤の他人が亡くなったとしても痛みを感じることはない。

どうやら私が両親に拒絶された原因は彼女の事故現場にあるようだった。彼女が事故に遭った交差点は、彼女の通学路ではなく、私のアパートに抜ける裏道でのことだった。彼女はあの朝何かしらの理由で通学路を変更していた。もしかしたら、朝一番で私に何かを伝えようとしていたのかもしれない。真相はわからないが、とにかく彼女の両親からしてみれば、男に会いに行って命を落とした。と判断されたようだった。

それも全て森谷が教えてくれた。彼は毎日私のアパートに泊まり続けた。私は四六時中彼に見張られている。森谷の積極性を評価するが、彼は家事をするでもなく、ただ私のそばにいるだけだった。たまに家に着替えを取りに帰ることもあったが、男二人の共同生活がいつまで続くのかと不安になった。幸いなことに彼の行儀はいいし、いびきもかかないし、清潔で手もかからない。むしろ困っているのは彼の方に見えた。夜、私が眠れずに起きていると、彼もそれに付き合おうとする。彼が眠そうにしているのが悪くて、私は眠くはなくても、遅くても0時には布団に入ることにして、彼が眠りについてからまた一人で起きて、物思いにふけっていた。

 彼は水泳部で、陸上部に負けないほど体力的にはきつい運動量を昼間はこなしている。さらにからは生徒会の役員も務めている。中学の頃もそうだった。真面目な彼らしく、人の役に立ちたいという志があるのだ。彼は彼なり色々と大変なのだ。

彼は朝にシャワーを浴びる習慣があることも初めて知った。純和風の彼には似合わないと思った。彼はだらしないことが嫌いなのだ。ご両親の躾の賜物だ。寝る前にはキチンと明日の用意をして、服も枕元に綺麗に畳んで寝る。まさに絵に書いたような優等生で、今時珍しいくらいの几帳面さと勤勉さが彼の愛される理由の一つだろう。その姿は一部彼女にも似ている部分があるが、彼は不器用だった。ルーティーンになってしまえばできるのだが、初めてのことには上手く対処できない。融通の利かないところもある。

 学校で授業を受けている間、部活に行っている間が彼から解放される時間だった。ハコの件の後からは私はバイトには行かなくなっていた。当然クビだ。

 学校では、クラスメイトも教師も部活の仲間も私に対する態度は以前のものとは違ってきていた。まるで腫れ物にでも触るような扱いだ。私は適当に相槌を打ち、適当に笑顔を浮かべ、彼らの輪の中にいるフリをしていたが、彼らにしてもそんな茶番に付き合うのは面白くないのだろう。私の日常は色を失い、冴えない日々が続いた。

 彼女に関する全ての社会的行事が終わると、やっと森谷は自分の家に帰って行った。やっと元の自分一人の暮らしが戻ってきた。私は今まで通りの生活を送る。朝は一人で起きて、顔を洗い、朝食を済ませて、学校に行き、授業を受けて、部活をやり、家に帰り、家事をして寝る。ただそれだけのことなのに、森谷は何かにつけて連絡を寄越した。

 TVも見ない、本も読まない、写真も撮らない、朝の散歩もしない、サイレントタイムに起きることもない。必要のないことは何もしない。

 学校に遅れない程度の時間に起きて、身支度をして登校する。早起きをしなくなったら、頭がボーとしてる。一日中ずっと。彼女のことを考えないのが自分でも不思議だった。つい最近までは、頭の中は彼女でいっぱいだったのに。

 授業中に教師に注意されることも多くなった。私は窓際の席で、授業中もよく外の風景を眺めていたから。冬は風景にも色がない。


ある日、4階の校舎のベランダで空を眺めていたら、隣に誰かが座る気配がした。

「何しているの。」

同じクラスの山下愛子だった。5人しかいない、うちのクラスの貴重な女子だ。

彼女は決して美人とは言えないが、前髪が眉毛の上で切り揃えられていて、身体も小さくふんわりとした雰囲気のある個性的な女子だった。歌手のAIKOに似ていることからクラスでは彼女は「アイコ」と呼ばれていた。その独特のオーラのせいか彼女は比較的男子にも人気があった。しかし、彼女は極度の人見知りで、男子とは話ができない。私とは彼女は席が隣同士だったためこの数ヶ月間でだんだんと話すようになっていたが、ここ最近は挨拶を交わす程度の会話しかした記憶はない。

「里中、聞いている。」

「うん。」

「何しているのかって聞いたの。大丈夫?」

彼女の話方には独特の癖がある。とてもゆっくりとした口調で話すし、それはまるで誰かに絵本を読んであげているかのようで、イントネーションが会話のそれではない。もっと積極的に男子と話すようになれば、もっと人気が出るだろう。

「空を見ている。」

「空?寒いのに?」

「そうだよ。」

「そうか。そら。そらか。そらね。」

一体何回「空」を連呼するのだろうか。彼女とは時折意思の疎通が困難な時がある。彼女はウンウンと頷いて納得したのか、私の隣に腰を落として座る。そして空を仰ぐ。彼女なりの思いやり、元気のない私を励まそうとしているのだろう。

正直、迷惑だった。私は自分一人で生活できているし、必要最低限のことはしているし、誰にも迷惑をかけていない。他人に必要以上に踏み込んで欲しくはない。もちろん、安っぽい同情もいらない。

そう思いながら空に浮かぶ白い雲を眺めていると

「ウチはもう戻るね。はい。」

そう言って彼女は私にチョコパンをくれた。彼女はたまに私にチョコパンを買ってくる。もともと何かの会話の中で私がそのパンを好きだと言ったからだろう。私ももらってばかりでは悪いので、学食の一番人気のエッグトーストをお返しに返す。彼女とはそんなパンの交換を何度かしたことがあった。

「いらないよ。」

私はそう言って彼女にチョコパンを返した。彼女はあからさまに不機嫌な表情を浮かべてふくれっ面になった。頬を膨らませるその幼い仕草は自然でな無垢な少女のようだった。


とにかく、私は毎日をただ漠然と過ごしていた。何かに頑張ろうとすること、何かに感動すること、誰かと一緒にいること、何もかも面倒臭くなっていた。平坦な毎日だった。


ハコの担任の女教師は時折声をかけてきた。

「里中君。あなたの輝く瞳はどこに行ったの。今のあなたからは覇気を感じない。何か力になれることがあれば遠慮なく言ってちょうだいね。」

と無責任な発言をしていたが、私には馬の耳に念仏だった。最近は勉強をする気にもなれず、家に帰ってから教科書を開いても30分と経たず集中力が切れてしまい、すぐに飽きてしまう。


そうして毎日が淡々と過ぎていく様は、日めくりカレンダーのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る