1月17日

朝から一面の銀世界だった。珍しい。近年こんなに雪が積もった記憶はない。

今日は土曜日で学校も午前中に終わる。部活もこの様子では行われない。

私たちは午後から水族館に出かけた。

電車の中は普段に比べて混んでいたが、しばらくすると二人座って腰掛けることができた。

彼女は腰を下ろすとまた眠りについた。

目的の駅に着くと彼女を起こすと彼女はしっかり覚醒できずに目をこすっている。

その姿はなんとも言えず可愛らしく写った。人目も憚らずにこのまま抱きしめてやりたいくらいだった。

 水族館に着くと彼女の瞳は輝き始めた。

幸いなことに雪のせいで足元が悪く、人も少ない。

おかげで、彼女はいつものように先輩たちにご挨拶に伺っていた。

マンボウ、イルカ、エビ、クラゲ、カニ。どんな生物にも彼女は話しかけた。

「熱帯魚さん。あなたはどこの出身なの?」

「イルカさん。初めまして。あなたは泳ぐのが上手で羨ましわ。」

といった具合に。もちろん、私のにも気を配ってくれて、人に聞こえないような声のトーンで、人が近づいてきたら一旦話すのを中断したりもしてくれた。

私は目の前の魚たちよりも、その魚を見つめる彼女の青い瞳ばかり見ていた。

彼女は特にイルカの水槽の前で長い時間を費やしていた。イルカの泳ぐ様をずっと目で追っている。

ブルーに染まる彼女の横顔は神秘的で控えめに言っても、とても美しかった。

普段こんなに長い時間彼女を見つめることはない。

彼女はきっと自分が以前言っていたように海に対する憧れを胸に抱いてイルカを眺めているに違いない。

心のときめく女性ほど美しいものを私は他に知らない。

いつのまにかイルカの水槽の前で40分近くも時間が経っていた。

「ハコ」

「ん?」

「大丈夫?」

彼女の瞳は潤んでいた。

「ええ。平気よ。彼女があまりにも美しくって、感動していたの。」

「彼女って、女の子だって見分けがつくの?」

「いいえ。ただなんとなくそう感じただけ。」

あとで水族館の人に聞いたら確かにメスだった。半分の確率なのだから別に驚くことでもない。

「そろそろ行こうか。」

「もう少しだけ。お願い。」

そう言って彼女たちはまた二人のおしゃべりを始めた。一体彼女たちはどんなことを話しているのだろうか。

ガラス1枚で区切られた世界で、違う種族の生き物同士、意思の疎通が可能なのだろうか。

その後10分経っても20分経っても彼女はその場を動こうとはしなかった。

彼女はずっと額を水槽に当てて瞳をとsじて、静かに語りかけていた。

その言動は珍しかった。いつも彼女とは違う。

私はいい加減にしびれを切らして

「ハコ。もうそろそろ行こうよ。帰るのが遅くなるよ。」

と優しく声をかけた。

「・・・うん。」

振り向いた彼女の頬には涙が流れた跡があった。


「今日は楽しくおしゃべりできたかい?」

「うん。ごめんね。ゆうちゃん一人でつまらなかったでしょ。せっかくデートに来ているのに違う娘とばかり話して。」

「イルカさんとは滅多に会えないからいいんじゃない。僕は毎日会えるし。」

「そう。ありがと。」

水族館の閉館時間が迫っていたので、私たちは急いで外に出た。

外はもう日が暮れそうだった。雪があるせいで、いつもより明るく感じたし、暖かくも感じたが、とにかく歩きにくい。

彼女はそんな寒さの中でもまだ水族館の余韻に浸っている様子だった。私たちはたまらず、近くのカフェに入った。


「さっきは何を話していたの。」

「いろんなことよ。出身とか。泳ぐこつとか。幸福かどうかとか。」

「彼女はなんて。」

「内緒。あまり女子の会話に男子が首をつっこむべきじゃないわよ。」

「そうかな。」

「そうよ。ゆうちゃんこそ彼女を見て何を感じたの。」

「あまり見ていないんだよ。実は。ハコのことばかり見ていたから。」

「もう。相変わらずね。ゆうちゃんもちょっとはは私以外のことにも目を向けなさい。」

「そうだね。なら敢えてあのイルカの水槽の感想を言わせてもらえれば、天井から入る柔らかな光に水中の波やプランクトンか排泄物かは知らないけれど、白いものが反射して、キラキラと輝いていて、その中を白い彼女がスーと気持ち良さそうに泳いでいく姿は本当に美しいと感じた。彼女の無駄のない滑らかな曲線、フォルムも、時折見せる愛らしい表情や、くるくると水中を回る仕草を見て、『あぁ、この子は海の生物なんだ』と感じたし、僕は逆に陸の生物なんだと改めて実感した。僕は水泳を6年間やっていたから、あんな風に泳げたらいいなあとも思った。人間の体には構造上、速く泳ぐのには限界があるからね。」

「ごめんね。失礼は発言を謝るわ。ゆうちゃんはカメラマン的な視覚表現がとても上手ね。」

彼女はそういうと、自分のバックからプレセントを差し出した。今日は付き合って一ヶ月の記念日だった。

「ごめん。僕は何も用意してない。」

「いいの。私が勝手にしたことだから。それよりも中を開けて見て。」

袋の中をからプレゼントを取り出すとそれは赤いマフラーだった、しかも手編みの。

「すごい!わざわざ編んでくれたの!すごい嬉しい。ありがとう!!」

「よかった喜んでもらえて。途中何度か失敗して全部ほどいてやろうかと何度も挫折しかけたの。でも、今日に間に合ってよかったわ。」

私は彼女が忙しい勉強の合間をぬってせっせと編み物をしている姿を想像した。きっと夜なべして作ったのだろう。私はその心のこもったプレゼントに心底感激し、このマフラーは何があっても一生使おうと決意した。手紙も手作りのプレゼントもそうだが、その時間は相手のことを考えている時間なのだ。離れている間も相手を思って行動している。その事実が何よりも嬉しいのだ。同時に何も用意して来なかった自分の愚かさを呪った。

 今、目の前の彼女が食事をする時に、髪を押さえて食事する姿も愛おしい。何もかもが愛おしかった。

 カフェを出て、私たちは最後に小さな公園に立ち寄った。雪のせいもあり、公園に人の姿はない。冬の公園には緑もなく、小さな池があった。私たちは降り積もった雪の感触を足の裏で確かめるようにして、ゆっくりと池のふちに立ってそのまま黙って暗い池の方を眺めていた。夜の水面は暗く、時折木の上の雪が落ちて、大きな波紋が水面に広がった。

 どれくらいの間だろう。長い沈黙の時間が私たちを包んでいた。まるで周囲の草木と同様に私たちはただそこに存在していた。私は瞳を閉じて、肺に一杯夜の空気を吸い込んだ。湿気を含んだ冬の空気は体温を奪っていく。私は彼女がプレゼントしてくれたマフラーをしている。彼女は紺のバーバリーのマフラーだ。

次第に私はこの不自然な沈黙に疑問を抱く。今日一日、彼女の口数はいつもよりも少なかった。電車の中でも、水族館でも、カフェでも、そして今もだ。あまりよくない想像が私の頭をよぎる。大きく深呼吸したのち、彼女に尋ねる。

「ハコ。今日がどうしたの。何かあったの。僕、何かまずいことしたかな。今日はあまり元気がないみたいだけど、、、。」

それでも、彼女は黙っていた。彼女の顔を私の方を向きかけたが、彼女の口からは何も発せられず、言葉を忘れてしまったかのように、しかし何かを伝えなけばという意思が瞳には現れていた。

「どうしたの。なんでも言って。僕にできることならばなんでもするから。」

彼女はまだ沈黙を続けていた。彼女の口からは白い吐息が吐き出されるだけだ。1分、2分、3分とまるで時が止まってしまったかのようだった。周囲の木々が風で揺れてドサっという音と共に雪が落ちる。どこか遠くで車の走る音がしてなんとなく懐かしく聞こえる。夜空には月が輝き私たちを照らしていた。

「実はね。」

彼女はやっと重い口を開いた。

「実は、うちのお母さんにゆうちゃんのことを話したの。」

「お母さんに!!」

驚いた。彼女は以前、自分自身で母親には絶対内緒にして付き合っていくと宣言していた体。もちろん私はその大きな壁をいつかは乗り越えなくてはならないと思ってはいたが、それがこんなにも早く訪れるとは思ってもみなかった。

「それで、お母さんはなんて?」

「ゆうちゃんとは別れさいって。」

「・・・・・。」

「私は、お母さんに、ゆうちゃんのことを理解して欲しかったの。最初こそお母さんに内緒で付き合えばいいて思っていた。でも、だんだん時が経つにつれて、どんどんゆうちゃんのことが好きになって、会う時間もどんどん増えて、その分お母さんにつく嘘も増えていったわ。私、だんだんと嘘をつくのに疲れちゃって、、、。それで、思い切って、お母さんに打ち明けたの。彼氏がいるって。予想はしていたんだけど、お母さんには大反対されて、それで、、、。」

「ごめんよ。気がついてあげられなくて。」

「ゆうちゃんは悪くない!」

「がんばろう。二人で。いつかお母さんに認めてもらえるように。」

「、、、。お母さんは私をまH大学に入れたいらしいの。」

「H大学!」

驚いた。それは東京の名門私立大学だ。知らないものはいないだろう。私の高校からこのランクの大学に受かったものがいるだろうか。先輩たちは、大半はスポーツ推薦で有名大学に入るようだが、このランクは聞かない。県立の高校で、偏差値も中の中といった我が高校でこのランクの大学を目指す人がいるなんて。改めてハコの家庭のレヴェルの高さを感じた。

「その為には今、男の子と付き合っている場合じゃないだろうって。」

「ハコはどう思っているの。」

「確かにお母さんの言う通りよ。大学受験は甘くないだろうし。でも、だからと言ってゆうちゃんと別れるなんて絶対に無理!」

「じゃあさ、今よりも少し会う時間を少し減らしてみてはどうかな。」

「そんなことできない。」

「どうして。」

「もう嘘はいや。」

「なら。別れるの?」

「それも無理だから悩んでいるんでしょ!」

ハコは明らかに感情的になっていた。耳は真っ赤で、瞳は濡れていた。堰を切ったように彼女の口からは言葉が吐き出される。

「私は、時々、ゆうちゃんと一緒にいるときも、心の中で昔の彼のことを思い出したりして、あろうことかその彼とゆうちゃんを比べたり、ゆうちゃんの中に彼の面影を探していたりしていたのよ。私って最低じゃない。いい加減じゃない。でも私の中には確かに彼が残っているのよ。ゆうちゃんはいつもいつもひたむきで一生懸命で、こんなにも優しくて、誠実なのに、私はそんなゆうちゃんを心の中で何度も裏切っていたのよ。ゆうちゃんとのキスの後に、彼とのキスを思い返していたりもしたわ。私なんかよりもっともっと可愛くて、あなたに上手に甘えられて、普通の環境で育っている純真なこはきっと沢山いるわ。面倒な母親もいなくて、二人の交際を暖かく祝福してくれるような家庭だって沢山あると思う。私といるとゆうちゃんは苦しんでばかり。ゆうちゃんだったたハコよりももっと素敵な女の子と付き合える。だってゆうちゃんは人気者だもの。ポケベルの番号聞かれたり、プリクラ交換しに来られたりしてたでしょ。私なんかといるよりもそう言う子と一緒にいる方がゆうちゃんにとってもいいに決まってる。」

「どうしてかな。俺、頭悪いからよくわからないけれど、そんな勝手な理屈は聞きたくないな。俺は自分の意志でハコと一緒にいるんだよ。昔の人が残っているのも当然でしょ。過去にそう言う辛い経験があれば、なかなか忘れられないのは当たり前。誰だってそうなるはず。じゃあ逆に簡単に忘れられたらどう。そんなに冷たい薄情な人間でいいの?ハコは何も悪くはない。」

「ゆうちゃんは全然わかっていない!」

「そりゃわからないよ。俺は過去にそう言う経験ないし、俺は俺で、ハコじゃない。100%ハコの考えを理解するなんてできる訳じゃない。俺は甘やかされた環境にいるし、ダサくて、気は利かないし、配慮も足りない、人生経験も浅いガキだと思う。でも、ハコの痛みや傷を想像することぐらいはできる。俺はハコのそう言う痛みや辛さも一緒に分かち合いたい。君が辛い時はそばにいるし、泣きたい時は一緒に泣けばいい。俺が苦しんでばかりだって。勝手に決めないでくれる。俺はハコといるだけで十分幸せだよ。他には何もいらない。君との時間。それだけでいい。世界中の人に叫んで聞かせたいくらいだよ。俺の彼女は最高だって。たとえ世界中の人が二人の交際を反対しても、敵に回ったとしても、俺はいつでも君の味方でいる。客観的に、君がどんなにわがままで悪い子でも。君の幸せのためならばどんな辛さにも耐えてみせる。こんな気持ちは初めてなんだよ。君の幸せ以上に私が望むことはない。そのためにどんな犠牲を払っても構わない。俺がそばにいることで君が不幸なら別れてもいい。待てと言われれば、1年だって10年だってまつ。死ねと言われれば死んでもいい。こんなこと思い込みの激しい、感情的で暑苦しいガキのたわごとかもしれない。でもそれが俺の今の正直な気持ち。ハコは一体どうしたいの。別れたいの。このマフラーの意味はなに。俺のために良いとか悪いとかそんな理屈じゃなくて、ハコがハコ自身がどうしたいのかをを俺は知りたい。」

私は自らの新しい一面に驚いていた。自分に酔っていたのかもしれない。自分を俺と呼び、はっきりと自分の意志を口にする姿は、今まで年上の彼女に別れを告げられても無抵抗であった時の自分ではなかった。彼女の熱に呼応したのか、ストレートな感情表現がそこにはあった。

私はそっとハコの肩に手を回した。

「私、この間一緒に行った海で、ゆうちゃんがおじいさんの話をしていて、その時、私はこの人とずーと一緒にいようって思った。私、あの時のゆうちゃんを見て、昔の自分を思い出したわ。彼がいなくなったあの日のことを。とても辛かった今日までの日々も。」

彼女はもう言葉にできず、ただ泣きじゃくっていた。こんなにも彼女が感情的になるなんて。

「ハコ。ハコの心は今、寒い寒い冬の時期かもしれない。だけど、冬の後には必ず春がくる。僕は春も夏も秋も冬も君と共に過ごしたい。どんな時も君と一緒にいたい。だから共に春を目指して頑張ろう。」

「ゆうちゃん。」

私は彼女が泣き止むまで、ずっと細くて小さなか弱い彼女を抱きしめていた。今日の最低気温はマイナス2度だ。その日、私たちはいったん感情を落ち着けるためにも2、3日はお互いに距離を開けて考えよう言う結論に至った。本当はこのまま彼女とどこかに逃げてしまいたかった。誰にも見つからないどこかに。


帰り道も二人の間にはずっと重苦しい空気が流れていた。彼女は

「もう今日はここまででいい。」

と行って急に走り出した。私はすぐに追いかけたが、運悪く足元の雪に足を滑らせてしまい、彼女に追いつくことは叶わなかった。

アパートに帰ると、シンとして冷たい空気が部屋の中に張り詰めているようだった。私はすぐにPHSから彼女にポケベルにメッセージを送る。

「ブジカエリマシタ」

しばらくすると彼女から返信があった

「カエリマシタ オコラレタ」

とりあえず彼女が無事帰宅したことに安堵はしたものの、今日の出来事を自分なりに整理して明日からどうすべきなのかを真剣に考えた。そして久しぶりに森谷に相談した。

「僕は、女性と交際したことがないから参考にはならないとは思うけど、君が正しいと思うことをすればいいんじゃないかな。彼女さんには彼女さんの。お母さんにはお母さんのそれぞれの立場で言い分もあるだろうし、君が思う彼女のためにできることを一つ一つ実践していけば、おのずといい結果がついて来そうな気がするけど。」

『彼女のためにできること』

私はその晩ずっとそのことについて頭をフル稼働させていた。一体今の自分に何ができるのだろうか。私はその晩、神経が高ぶっていて、眠ることができなかった。

 やがてサイレントタイムがきて、私は朝日を見た。真っ赤に燃え上がるような朝焼けだった。真夏の台風一過の後に似るような凄まじく朱い、紅い空だった。生まれたばかりのような太陽の光が私の顔を照らしていた。

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