彼女との時間

ある夜、私は夜中に目を覚ました。どう言う訳か、寝付くことができずに、私は朝が来るのぼんやりと待っていた。夜明けが近づくと、コートを着て、手袋、マフラーを防寒対策をしてカメラ片手に家を出て、何かに導かれるように薄暗い道を歩き始めた。

真っ黒だった空が徐々にブルーに染まり、やがて真紅の朝焼けと変わる。サイレントタイムのブルーは今日と昨日の境目であり、それはまるで生と死のようにいつもそばにありながら対極であった。サイレントタイムのブルーはそんな対極の中の中庸であり過程であった。それは生まれて来る胎児のように静かな鼓動を刻んでいる。私はいつもこの時間を神妙な面持ちで過ごす。

私は夜が明けきらないうちにパシャパシャとシャッターを切る。夜が明け、太陽が完全に上り切ると、反比例したように私の撮影意欲は下がっていく。手袋をしていても冬の寒さは私の手の機能を低下させ、息を白くさせ、ファインダーを白く曇らせた。大地には霜柱が立っている。

私はこの寒さごとこの時間を愉しんでいる。ゆっくりとした歩調で歩いて散策する。あたりはまだ鳥の声すらせずに静まり返っている。人も一人もいない。夏ならば、農作業の準備を始める人がいるかもしれないが、今は誰もいない。静寂の世界。こんな中で一人で写真を撮って歩く高校生なんて私くらいだろう。

 春には延々と咲き誇る桜並木。その下で私は自販機で買った日本茶を飲んでいた。目を閉じると、とても静かで、自分の体温と冬の寒さが皮膚一枚で分離されていることを不思議に思った。まぶたの裏の世界は、淡いブルー一色に染まっていた。

 遥かな海から生まれた人間はきっとブルーの色に特別な感情を持っている。深いブルーに懐かしさや憧れ、慈愛など様々な感情が沸き起こる。

 毎日様々な事件や出来事のある世界、それも確かな現実だが、毎日訪れるこのブルーの世界もまた現実だった。

ゆっくりと瞼を開くと、先ほどよりもずっとブルーの色が薄くなっていた。

「寒いわね。」

突然、すぐ後ろで女の声がして飛び上がりそうになった。驚いてすぐに声のした方へ振り向くとそこにはハコがいた。

「どうして、、、」

私が戸惑っていると、彼女は

「おはよ。」

と満面の笑みで返してくれた。彼女は真っ赤なほっぺに私に近づいて来る。私はまだそれが現実なのか夢なのか判断しかねていたが、コートの中にそっと彼女の手が入って、彼女の冷たい手を握ってやっとこれが現実であると認識できた。彼女は紺のスラックスをはき、可愛いPコートを羽織り、朝からキチンをオシャレをしていた。なのに、彼女は素手だった。私は彼女の手を握りしめた。

「ありがと。」

見るからに寒がっていた彼女の声はか細く、消え入りそうだった。丸まった彼女の背中はいつも以上に彼女を小さく可愛らしく見せた。

「今朝はとても早く目が覚めてしまったの。そうしたら、なぜかいつだかゆうちゃんが話してくれたことを思い出してた。サイレントタイムのこと。お母さんに見つからないように急いで家を出てきたから、しっかりと防寒して来るのを忘れちゃった。まさかこんなに寒いなんて思わなかった。ダメね。私って。もしかしたらゆうちゃんに会えるかもって思っていたら、まさか本当に会えるなんてね。もし、会えなかったら、それならそれでゆうちゃんの言うサイレントタイムを私なりに感じられればそれでいいって思っていたけど、これって奇跡よ。すごい確率よ。ゆうちゃんとハコが真冬の桜の木の下で出会うの。普段なら私今頃ぐーぐー寝ている時間ですもの。」

そう言って彼女はそっと私に身を寄せた。

「寒いの?」

「ううん。大丈夫。平気。」

嬉しかった。私のお気に入りの時間を彼女と共にすることが出来て。いつも一人きりで眺めていた朝焼けが一段と輝いて見えた。

「ゆうちゃん。」

「なに?」

「この世界って不思議ね。」

「どうして?」

「この光。この光は遥か宇宙の彼方から届いているのよ。太陽の光も月の光も輝く夜空の星々も。なのに、この静寂の時間は、その全ての光が混ざり合っているのよ。一日の中でこんなに光に溢れているのに、こんなにも寂しいなんておかしいわ。この世界を体感できているのはきっとごく僅かな人間だけよ。私はゆうちゃんのようにね。」

「そうだね。」

「私、なんだが怖い。」

「なにが?」

「夜の闇や、朝の光とも違う。今私たちの目の前に広がっている世界って、死んでいるでも生まれているでもない、とても不安定な時間じゃない。昨日でも今日でもない。何か深い海の底に閉じ込められてしまった貝のような気分になるわ。」

「早く、朝が来て欲しい?」

「ううん。私はそれでもこの時間を好きになれそうな予感めいたものがあるの。この不安定な世界でも、ゆうちゃんさえいてくれたらきっと平気よ。ゆうちゃんどこにいてもハコを見つけてね。私がどこかで迷っていたら必ず見つけてね。」

「見つけるよ。」

「よかった。」

やがて完全に夜が明けると、少しずつ気温も上がり、羊やら鶏やらが鳴く声が聞こえ始めた。私は寒さに震える彼女に

「うちでコーヒーでも飲んでいく?」

と尋ねたが、彼女は微笑みながら

「いいわ。もうお家に帰らなくっちゃ。お母さんに見つかるとうるさいから。今日はありがとう。とても有意義な時間が過ごせたわ。また後で学校で会いましょう。じゃあね。」

そういうと彼女は朝靄の中へと消えて行った。


彼女を見送りながら、私はいつの間にか自分の手袋がないことに気がついた。確か先ほど写真を撮るのに邪魔でコートのポケットにしまったはずなのに、、、。

そういえば、先ほど帰り際の彼女は黒い手袋をしていた。来た時はしていなかったのに。

彼女は本当に生真面目で、冗談を言うこともほとんどない。友人たちと談笑している姿もどこか社交辞令で、心ここにあらずのように写っていた。学校でも家庭でも真面目な生活をしていると自負する彼女だったが、私の前ではよくイタズラをするお茶目な一面をのぞかせた。

英語の補講の時のことだ。付き合い始めてからはお互いいつも隣の席に座ることにしていた。ある時補講の最中にポケベルがバイブした。驚いてバイブを止めて画面を見ると。

「トナリノセキノオンナノコ」

「キミニホレテイルゾ」

「ドウスルネ」

そんなメッセージが入って来た。私が隣の席の彼女を見ると、彼女は楽しそうな笑顔で私を見つめ返して来る。わざわざ友達に頼んでこの時間に私のポケベルにメッセージを送らせたのだ。手が込んでいる。

またある時、廊下で二人で話している時に唐突に、

「ゆうちゃんってドラえもんに似ているわ。」

と言い出した。

「なんで?全然似ていないと思うけど。どこが似ているの。」

「雰囲気かな。」

「雰囲気って。ドラえもんに会ったことあるの?」

「あら。彼は実在する人物なのかしら。」

「するわけないだろう。」

「Anyway, you similar to him.」

彼女は時々、英語を会話の中に入れるのが好きだった。私も時々は負けずとフランス語で挨拶していた。

「Bonjeour, Madam. Ca va?」

「Bian, Merci.」

きっと周囲から見たら奇異に写ったことだろう。けれど彼女は外国語を使うことが二人の暗号で、二人だけの秘密の世界に入っているようで楽しんでいる様子だった。

 その次の日、私の下駄箱に黄色い紙袋が入っていた。中を開けて見ると、ドラえもんの絵が可愛らしいハンドタオルが一枚入っていた。さらに上履きの先端にはドラえもんのシールが貼ってあった。私はすぐに彼女の仕業だと思って、そのシールを剥がして大事に手帳の中に収めた。教室に着くと一限目の教科書の準備に取り掛かる。すると、ここにもドラえもんのシール。よく見ると引き出しの中において帰った教科書全部にシールが貼られていた。ここまでの徹底ぶりには感心した。私は昼休みになると彼女のクラスに出向いた。

「やってくれましたな。」

「へへ。」

「どうしてドラえもんなのだ。全然似ていないでしょうに。」

「里中君。」

彼女は改まって苗字で呼んだ。

「ドラえもんはなんのために遠い22世紀からきたのか理由をご存知?」

「のび太君を厚生させるためだろう。」

「私にとってのドラえもんはゆうちゃんなのよ。」

ようやく彼女の意図を理解した。私は鈍い男だ。

その日家に帰ると、ポケベルのストラップにドラえもんのキーホルダーがついていた。昼休みのわずかな時間で彼女はまた一つ仕込みをしていたのだった。完敗だった。

 そんな風に彼女は度々お茶目な遊び心を私に見せてくれた。他の人には見せないそんな彼女の一面を愛おしく思った。

 また、彼女は人とは少し違う感性があり、とても惹かれた。共に過ごす時間の中で時折見せる彼女の表現力というのもに私は自然と敬意を払いようになっていた。

海を見たとき彼女はこう言っていた。

「ねえ。海はどこまでが海なのかしら。水平線を見てみてよ。ゆうちゃん。空と海はまるで一体に見えるわ。海のすぐ上には空があるのよ。海の空が写って青い色をしているの。それとも空が海に写って青い色をしているの。夜になったらもっと神秘的よ。宇宙の星々と海が一体になっているのですもの。日本は島国よね。私たちは周囲を海と宇宙に囲まれて育っているのよ。これってすごい発見じゃない。私たちは宇宙と海の子供なのよ。今、この瞬間にも私たちの細胞の一つ一つは母なる海と宇宙と共に生きているわ。ゆうちゃん、私、海ってすごく好きよ。ゆうちゃんと同じくらいにね。海はとても大きくて、優しさと力強さを兼ね備えているもの。大きなその体は宇宙と共にあって、空を真っ青に染め、時には情熱的な真っ赤な太陽をより一層輝かせているわ。波の音は心地よくて、私を眠りに誘うし。きっと生物はここから生まれたからね。まるでお母さんのお腹の中にいる気分よ。私一日中この音を聞いていられる気がする。」

海を見ただけでそんなにも多くのことを感じることができる彼女はすごい。たくさんの映画や本を読んできたのに、私にはそんな表現力はなかった。

またある時は、彼女は夜の闇について語った。

「ゆうちゃん。夜の闇って一体誰のものだと思う。」

「誰のもの?別に誰かの所有物じゃないだろう。」

「そうよね。単に夜は太陽の光が当たらない時間のことを指す言葉ですものね。」

「そうだよ。地球の反対側は昼間なんだから。」

「けれど、夜の闇はある一定のリズムで私たちに訪れるのよ。私がいらないって言っても勝手にやってきて、私たちから勝手に光を奪うの。」

「じゃぁ、夜がなかったら人間はいつ眠るんだ。」

「人間が眠るために夜がくるの。違うわ。夜がくるから人は眠るのよ。」

「ハコ、何が言いたいのか分からないんだけど、、、」

「夜の闇って怖くない?真っ暗で何もかも飲み込んでしまうわ。私怖くていつも電気を全部消して寝ることがどうしてもできないの。人工的でない限り、完全な闇ってないでしょう。月や星々の明かりはいつもあるもの。けれど、人は夜になると眠くなるの。恐ろしいはずの闇の中で、とても無防備な状態になるのよ。とても矛盾しているように思わない?夜の闇は全てを包み隠してしまう。真実も嘘も愛も友情も憎しみも。それって大変なことよ。夜の闇に飲まれている間、私たちは愛も希望も奪われたままなのよ。やがて朝がきて目が覚めて、やっと私たちは夜の闇から解放されるの。私できれば、解放されたらすぐに愛を取り戻したい。ゆうちゃんがいつも隣で寝ていてくれたらどれだけありがたいことか、、、」

私にとって、夜はただの夜で、海はただの海だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。私にとってサイレントタイムが特別なように彼女は日常の中の様々なことにその感性を働かせているのだろう。

 そうした彼女の感性の中でも一番驚いたことは、彼女は動植物にも人間と同じように話しかけることだった。彼女はこう説明する。

「私のことちょっとおかしいと思うかもしれないけれど、私、生命には全て魂があるって信じているの。別にお母さんが宗教をやっているからとかじゃなくて、私自身がそう思っているの。人間だけに魂や心があるって考えは少し傲慢に思えないかしら。だって人間は最初からこの地球上に存在していたの?人が出現したのなんて地球の歴史からしたらつい最近のことじゃない。なのに、今までこの地球上に存在してきた先輩方に敬意を払わないなんて失礼よ。鳥や猫やお花にだってきっと魂はあるわ。悲しいとか嬉しいとか辛いとか幸せだとか感じていたとしても、その表現は人間にはわかる形で表現されないから人間いは理解できないだけなのよ。ゆうちゃんも生物の時間に教わっただしょ。私たち生物の細胞のつくりは一緒なのよ、核があってミトコンドリアがあって。この私の手と足元のこの枯れそうな雑草も同じ。植物には植物の、動物には動物の、人間には人間の生きる目的があって、何億年も前からずっと同じように繰り返されてきたのよ。その中で少しずつ皆姿形を変えて行って今があるのよ。わかる?ゆうちゃん。今、私がよりかかっているこの樹と私には大した違いなんてないのよ。もしかしたら、私は樹だったかもしれないでしょ。たまたまこの時代に人間としてゆうちゃんと出会えたけど、未来や過去にはお互いどんな形で出会うかは分からないのよ。そう思うとなおさら全ての生命に感謝し、敬意を払うべきだと思わない?」

「ハコは輪廻転生を信じているんだね。」

「それもちょっと違うの。」

「どう違うの?」

「輪廻転生って、仏教の考え方でしょ。そう言った宗教的な理論のことを話しているのではないのよ。理屈よりも一つの生命として、自分が一個の個体として、生命のつながりをどう感じて、どう思うかっていうことなのよ。私は有機物はその原点においては皆同じだと思うの。だからたとえ言葉が通じなくても話しかけるのよ。きっと彼らは彼らでそんな私のことを感じているはずよ。一番分かり易いのは触れるという行為ね。動物も植物も触れるという行為には何かしらの反応があるもの。」

「ハコは将来理科の先生になるといいね。」

「あら私は小学校の先生がいいのよ。だから全て教科ができなくちゃいけないの。」

「ハコは現実的なのかロマンチストなのかよく分からないね。」

「そうね。人前ではこんな話はまずしないから、普段の私からは少しギャップがあるとは思う。」

そうして彼女の新しい一面をどんどんと知っていくのは嬉しくて仕方がなかった。彼女の考え方は壮大で、一体この小さくて細いナイスボディにどうしてそんな考えが詰まっているのか不思議だった。私は彼女に比して自分の感性のなさを恥じていた。私の頭の中はいつもハコのことばかりだった。

(今度はハコとこうしよう)(今度はあそこに行きたい)(ハコは今頃何をしているのかな)

写真は自己表現の一つではあるが、私には言葉という表現力は足りていなかった。きっと彼女の方が写真のセンスもいいのだろう。写真にしても絵画にしても彫刻にしても毛筆にしても芸術と呼ばれる類のものは全てイメージが大切であり、自分の感じたことを素直に率直により具体的に表現することができる人が芸術家なのだろうと思っていた。私は彼女の感受性と表現力を目の当たりにしてそう思わざるを得なかった。

ある時私は彼女に

「ハコのも一緒に写真を撮らない?教えてあげるよ。」

と誘ったことがあった。

「いいの。私は一度やり出したらきっと自分が納得するまでやりたくなってしまうタイプに人間だから。今はやめておく。将来もしやりたくなったら一番にゆうちゃんに先生をお願いするわね。」

なんとなく彼女の表現力の源がどこにあるのか解った気がする。彼女の普段の生活の中では、表現をする機会がない。抑圧された環境下にいる人間ほど、現実よりも非現実の表現をするという行為を望む傾向が強い。彼女の置かれている環境の厳しさとせめてその表現を私の前では存分に出して欲しいと願うばかりだった。




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