鎌倉

1月の始め、2年生最後の学期。その日は朝から気温がぐっと下がり寒い日だった。

目が覚めた私は、不意に駆け出したい衝動に駆られた。身体の奥底から何か熱いものが込み上げて来る。脳内でアドレナリンが分泌されている。

私はハコのベルにメッセージを送る。

「キヨウデカケヨウ」

半ば強引に、彼女の今日の予定を全てキャンセルさせて、私達は最寄りの駅から電車に乗った。これが私たちにとって初めての遠出のデートであることに電車に乗ってから気がついた。

「生まれて初めて学校をサボっちゃった。大丈夫かな。」

「大丈夫。ちゃんと学校にも連絡したし。」

「それだけじゃないでしょ。平日の昼間から高校生が制服姿でウロウロしているのよ。周りの人からどう見えると思う。」

「仲の良い、清純高校生カップル。」

「あははは。ゆうちゃん。どうしてあなたってそんなにいつもポジティブなの。いつもいつも、私が心配しているのが馬鹿みたいに思えるわ。」

「色々考えてもなるようにしかならないさ。それよりも、今自分が思ったこと、感じたことを正直に、素直に出したい。そういう時も人間にはあるでしょ。」

「そうね。で、どこに向かっているのかしら。」

「実は、海に行こうと思っているのだけれども、、、嫌?」

「海!いいわね。楽しみ。」

私たちの住んでいる場所から海に出るには、電車で二時間近くかかる。それでも、私は海が見たかった。私は海が好きだ。どこまでも続く水平線。大きなものを見ていると自然の、地球の偉大さを感じる。自分はとてもちっぽけな生物なのだと実感する。

学校をサボって出かけるのは私も初めてだった。ハコが言うように不安はある。けれども、冬の温かい車内で背中に朝の光を浴びてウトウトしているすぐ隣のハコの姿を見たらそんな不安はどこかに消え失せてしまった。

隣で眠る彼女の姿は美しかった。彼女のこんなにも無防備な姿を見ることができるのも嬉しい。私はこの貴重な時間、彼女にとっては束の間の休息時間、穏やかで幸せな時間がいつまでも続けばいいと願っていた。私は彼女の寝顔を見て、改めてこの人を守る為にならどんなことでも耐えて見せようと決心した。彼女を起こさないように、繋がれていた彼女の手を握りしめた。


二時間後、電車は鎌倉駅に到着した。私は昔からこの街が好きだった。13歳で初めて訪れてから毎年欠かさずに訪れている。私のお気にりの場所で、思い出の場所だった。彼女を連れてきたのも、ハコが初めてだった。

道中彼女はほとんど眠っていた。途中、川崎で数分間停車している間に一度目を覚ましたがまたすぐに眠りについた。余程、疲れが溜まっていたのだろう。彼女はしっかりと私の腕に手を回してしがみつくと、私にもたれかかって眠っていた。彼女の髪からは女性特有の柔らかい匂いがした。

目を覚ました彼女は、江ノ電に乗り換えるとこれまで一度も見たことのないほど目を輝かせた。私達は「長谷」で下車し、海に向かって歩き始める。駅から歩いて5分足らずのところに浜辺がある。駅前には多くの土産物屋が並んでいる。ここから大仏まで延々とその店々は続いていく。私達は逆方向に向かう。冬の寒い海岸に向かう者はほとんどいない。潮の香りがするとハコはもう我慢できないと言わんばかりに走り始めた。

「ゆうちゃん。早く。早く。海が見えたよ。」

まるで少女のようにはしゃいだ彼女の新しい一面を見た。

冬の海は閑散としていて、寂しい。海から吹き付ける風は強く、冷たい。

ハコの後ろ姿は美しかった。彼女の後ろにはどこまでも続く、海と空。そこに佇む制服姿の女神。愛おしい瞬間。

海岸で打ちひしがれている枯れた流木に腰掛けた。その瞬間またフラッシュバックした。昨年、祖父とこの海岸を訪れた時の記憶。祖父は水平線と雲が織りなす、自然の微妙なバランスをカメラに納めていた。私はそんな祖父の姿を少し離れたところから眺めていた。その日はポカポカと暖かく、海岸にはサーフィンを楽しむ若者や犬を散歩させている近所の住民、カップルや家族連れなど多くの人がいて、冬とは全く違った穏やかな画があった。一通り写真を撮り終えた祖父は目を細めて海を見つめていた私の隣に、

「よっこらっしょ。」

と言って腰掛けた。祖父は、写真を撮っている時は無我夢中になり周りが見えない。すごい集中力で、本当に写真が大好きなのだ。同じところで、自分が納得するまで何度もシャッターを切る。私には真似できない。

祖父は穏やかな海岸の画を見ながら静かに語らい始めた。

「知っての通り。わしは金儲けに生きてきた。金のためならどんなことでもしてきた。人様には言えんようなこともな。わしには家族を守ると言う大義名分があったからの。戦後の焼け野原から、何にもないところからの再出発だった。今でこそ日本はこんなに豊かになったがな。わしは長男だったから。幼い兄弟と母親の手を引いて生きていかなくてはならんかった。親父は戦死だったからの。色々と苦労もしたし、酒飲みのわしは迷惑もかけてきた。しかし、お前と言う孫に出会ってわしは嬉しかった。この歳になって、こんなジジイのたわごとを聞き、こんなジジイの旅に付き添ってくれる、心優しい孫に出会えてな。お前は心根のいい若者じゃ。いいか。お前はわしのようになるではないぞ。平和で豊かな分、心根の曲がった者が多い世の中じゃ。そんな中でもお前は曲がることなく生きてきって欲しい。好いた女と家族を精一杯守って、その為に生きる。わしは自分のことばっかりでそれができなかった。簡単なことはずが、とても難しかった。」

そう言った祖父は遠い目で水平線を見つめていた、拳は固く握られ震えていた。


私は一直線に海へと駆け込んだ。

「ゆうちゃん!」

ハコは私を追いかけた。そして私を抱き締めた。二人とも下半身が水に浸かっている。私の頬には涙がつたっていた。彼女はその小さな体で、力一杯に抱き締めてくれていた。その時彼女の温もりだけが私を支えていた。

「生きていることも、そうでないことも、大した違いなんてない。違うのはこれよ。今ここにある者。『温もり!』それがあるかないか、ただそれだけよ。」

彼女には分かっていたんだ。私の愚かさが。祖父の死をきちんと受け入れていないことも。無理をしていたことも。彼女の前では私は赤ん坊同然だった。

ハコは私の嗚咽が止むまでずっと私を抱き締めた。


私は鎌倉から帰ると、初めて彼女に宛てて手紙を書いた。

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