年始

年が明けたその瞬間に彼女のポケットベルにメッセージを送る。

「コトシモヨロシク」

ややあって、彼女からの返信がある。

「コチラコソヨロシク」

私はPHSがあるからいいが、彼女は家の電話からメッセージを送る分、時間差がある。まだ、個人が携帯を持つ時代ではない。

今年は実家に帰ることもせずに、一人でコタツに入り、みかんとお茶で元旦を迎えた。不思議なもので、同じ365分の一日でも、元旦の今日は気持ちが新しくなるものだ。人間が勝手に決めた時間の区切りに過ぎないのに、ただそれだけのことで明日に希望が持てるなんて、人間は幸せな生き物だ。

こんなに静かな正月は初めてだった。毎年、両親は店の客とともに、家族全員で初日の出の写真を撮りにいくのが恒例となっていた。元旦早々から商売と言うせわしない16回の正月を迎えていた私にとっては新鮮な正月となった。

元旦のアパート周りは静かだった。元々静かな環境なのだが、目の前の道路も車の人もほとんど通らない。元旦の朝は世界はゆっくりと目覚める。世界がいつもこんなに静かであったなら、さぞ暮らしやすい世界だろう。

 昼過ぎまで、テレビを見たり、眠くなったら寝ると言う堕落した時間を過ごしていると、自分が熱せられたバターのように溶けて、ドロドロの塊になったようだった。

 彼女は今頃どうしているだろうか。彼女のことだからもう元旦の今日から自分の目標に向けて早速始動しているかもしれない。なんせ一年の計は元旦にありなのだから。そうして彼女はきっと今年も学年トップクラスの成績を納めることだろう。そう、彼女は決して傲らない。「自分は馬鹿だ。」と言う。「馬鹿だから人以上に努力しなければならない。頭の良い人間が羨ましい。」と言う。彼女が馬鹿なら自分は大馬鹿だ。この正月の過ごし方にそれが顕著に表れている。彼女はまた「相変わらずにマイペースね。」と言うだろうか。

 太陽も高くなって頃に起き始めて昼食を摂ることにする。さて、何を食べようか。正月らしく餅でも焼こうか。ところが餅がない。一人暮らしの男子高校生は正月の準備などしないからだ。結局、いつものトーストにバターというその場にあるものを食べる。元旦はゆっくりと決めていた私はそのまままたコタツでダラダラと過ごす。全くこのコタツを考えた人間というのは天才だ。この中毒性。危険だ。


翌日の二日は朝から晴れて良い天気だった。しかし、さすがに1月。コートなしで居られるほどは暖かくはない。厚手のコートを羽織り、私は葉子さんとの待ち合わせ場所に向かった。私は、待ち合わせの30分前には現地に到着し、冬の寒さの中彼女を待った。正月の電車は珍しく混んでいた。会社も学校も休みで、初詣にいくのだろうか。考えてみると、誰に命令されたわけでもないのに、同じ日に皆が同じ行動をしているというのは不思議なものだ。おそらくこの三が日で国民の大半が神社か寺に行くのだろう。日本人は無宗教であり、柔軟な国民性なのだと実感する。ついこの前はキリストの祝いをし、初詣は神社、亡くなった時はお寺と。誰ものそのことを可笑しいというものはいない。少なくとも私の周りには一人もいない。いい加減だ。私も含めて。

 正月のデパート近くの公園での待ち合わせだったが、もうすでに福袋目当ての行列ができている。若いOLさんや、親子連れ。私には中身もわからないものをわざわざ並んでまで買い求める神経が理解できない。日本人は「お得」に弱い。日本はそこら中に「お得」が溢れ、あっちもこっちも「お得、お得」なのだ。そうまでして人より特をしたからなんだというのだろうか。売る方も買う方もご苦労様。そうして日本経済の発展に貢献してくれればいい。

 デパート脇の道を抜けてしばらくいくとちょっとした広場がある。一面アスファルトに覆われた大地に石のベンチ、人工の川に噴水、大きな木をイメージしたモニュメント。通りを歩く人々はどの顔も一様に華やいで見えた。

 さて、今日の彼女はどんな格好をしてくるのだろうか。年明け早々相当気合を入れてくるだろうか。大人っぽく黒でキメてくるだろうか、それとも可愛らしくピンクでくるだろうか。いずれにしても、上品で美しいことは変わらないだろう。けれど、彼女は私の予想のさらに上をいっていた。

 今年初めて目にした彼女の服装は、白地に紅葉柄の着物姿だった。袖丈は短く、首元には白いファーを巻いている。通行人が振り返って彼女に視線を向けるほど、彼女は美しかった。小町がこちらに向かって歩いてくる。

「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」

丁寧に挨拶する目の前の和美人に見とれていると

「起きてる?」

と言われて我に帰る。彼女の脇には黒いミニスカートに黒いロングブーツ、決して細いとは言えない太ももの女子の存在がある。どこかで見た顔だが、思い出せない。

「リエと一緒だとお母さんには話しているの。途中まで一緒でいいかな。」

「うん。全然構わないよ。」

思い出した。彼女は同じ陸上部の女子だ。確か専攻は短距離だったはずだ。

「今年もよろしくね。里中君。」

互いに挨拶を済ませて、私たちは3人で初詣に向かう。正月の神社は予想通り、右も左も後ろも前も、人、人、人。普段進んで人ごみの中に行くことのない私は人の波に圧倒される。けれど、彼女と一緒というだけで、どこで、どんな環境であろうが楽しい。私たちの手はしっかりと繋がれていたし、今日の彼女はいつもはしない化粧をしていてさらに美しさが際立っている。普段彼女はメイクをすることはない。素肌でも十分美しい。白く透き通るような彼女の肌にはファンデーションなど必要ない。和服は重く、動きづらく、歩きづらいだろう。私はすぐ隣の彼女の心配ばかりして、人酔いなどしている暇はなかった。

ようやく、行列をすり抜けて、私たちが参拝する番になった。賽銭を投げ入れ、手を合わせ、目を瞑り、願い事をする。

(葉子さんが幸せになりますように)

全ての神社の伊勢神宮では、自分の願い事をしていけないそうだ。確か、伊勢の人は毎月月初めに参拝して、神様に感謝を告げるとか。私はあまりにも熱心に何度も心の中で反芻し、危うく願い事をそのまま口に出してしまいそうだった。

「何をお願いしたの。」

と彼女は寒くて赤くなったほっぺで聞く。

「葉子さんは?」

「二人がラブラブで入られますようにって。」

「僕も同じだよ。」

一緒にいたリエさんがやれやれというジェスチャーを見せた。

初詣の帰りに3人でファミリーレストランに入った。ここも人の山。15分待ってやっと4人がけの席が空いた。

「里中君は正月はご実家に帰られなかったの?」

「たまにはゆっくりした正月を過ごすのも悪くないと思ってさ。それに明日からも友達との新年会が詰まっているし。」

「いいなぁ。私もみんなと騒ぎたい。」

不意にリエさんが口を開いた。

「まさか里中君が葉子に告白するなんて思ってもいなくて、みんな驚いていたのよ。一年生の里中君ファンの女の子なんて泣き出す子までいたし、葉子の方だって、付き合うまで私に一度も里中君の話題を出したこともなかったし、それなのに、付き合った途端にすっごい自慢してきて、もう私ジェラシーの正月よ。」

「そうなの?」

「だって、自慢したかっただもん。里中君ってすごく競争率高いのは知っていたし、うちのクラスでだって話題に上っていたし、そんな里中君がこんな私を選んでくれたことが本当に嬉しくって。」

「葉子さんは『こんな』じゃないよ。」

すかさずリエさんが割り込む。

「里中君は人気があるのに、誰とも付き合っていなくてみんな不思議がってた。色々噂もあったし。実はゲイだとか。女子大生の彼女がいるとか。不倫しているとか。」

「まるでワイドショーのネタにされる3流芸能人みたいだね。」

「女子大生の彼女がいたの?」

「まさか。いるわけないだろう。僕はずっと君だけを想っていたんだから。」

「そういうことよく堂々と人前で言えるわねぇ。聞いているこっちが恥ずかしくなるわ。」

リエさんはそう言って席を立つ。

「もう行っちゃうの?」

「お邪魔虫はそろそろ退散するわ。」

そう言ってリエさんは何かを私の拳に握らせた。それはコンドームだった。竹を割った性格とはこういうことをいうのかもしれない。

「頑張ってね。私は二人を応援しているから。」

と言ってその場を足早に去って行った。残された私たちはお互いに顔を真っ赤にして困り果てた顔をしていた。

「もう、リエったら。」

「びっくりしたな。」

「と、とりあえずそれ、しまってもらえる。」

「あぁ。」

私はコートのポケットにそれをしまった。暫く気まずさからか互いに無言でいた。店内には最近はやりの曲が流れていた。葉子さんも好きなGRAYの曲だった。

「ねぇ。ゆうちゃん。」

「何。突然、びっくりしたな。」

「ねぇ。私たちお互いに『里中君」とか『葉子さん』とか呼び合うのっておかしいと思わない?」

「そう?」

「そうよ。私たち付き合っているのよ。もっと互いに親しみを込めて呼び合うべきじゃない。」

「そっか。じゃぁなんて呼んだらいい?葉子ちゃん?」

「ダメ。」

「じゃぁ。葉子?」

「それもダメ。」

「じゃぁ、なんて呼んだらいいの?まさか苗字で白糸?」

「ハコ。」

「ハコ?箱ってボックスの箱?」

「アハッハ。ゆうちゃんって本当に天然ね。葉子の『葉』は葉っぱの『ハ』でしょ。だから『ハコ』。私の親しい人は皆私のことをハコって呼ぶのよ。家族や親友のユリもよ。知らなかったの?」

「ごめん。」

「もう。謝ることなんてないのよ。とにかくこれから私のことはハコって呼んでね。私はゆうちゃんって呼ぶから。」

「僕はゆうちゃんで決定なのかい。」

「あら。他に何かご希望があるのかしら。」

「ない。」

「じゃあ決まり。私ね前からゆうちゃんって呼んでみたかったの。」

「どうして?」

「彼女しかそんな呼び方しないでしょ。正直周りの女の子たちから『里中君の好みって超意外』とか言われるのも悔しいし。嫉妬しているだけなのはわかっているけど、私だってできる範囲で堂々とゆうちゃんの彼女でありたい。それに私、『ゆうき』って名前、すごく素敵な名前だと思うの。ゆうちゃんにぴったりな名前よ。ひらがななのがさらにいい。ゆうきって元々心の現象を表す言葉だし、それをひらがなで表すことで丸みを帯びて優しさが出てきて、力強さと優しさを兼ね備えた本当にいい名前。ご両親に感謝しなくっちゃね。」

「ハコって名前も負けていないよ。」

「そうね。私も葉子なんて普通の名前ではなくていっそのことハコって名前がよかったわ。」

「じゃぁ。大人になったら改名したら。」

私は生まれて初めて自分の名前に誇りが持てた。自分の名前を認めてもらえる。それは自分の存在の肯定に等しい。そんな貴重な存在の彼女に感謝だった。


私は照れながらも彼女を「ハコ」と呼んでみた。

その瞬間、私はフラッシュバックした。

あれは小学校に上がるか上がらないかの頃だ。季節はどうやら夏のようだ。この空気を覚えている。いつまでも沈まずに湿気を含んだ夏の夕暮れ時は、意味もなく私を寂しい気持ちにさせた。

私は誰かに甘えたかった。愛情を無条件で直接的に一身に受けたかった。誰よりも甘やかされて育っているはずなのに、それでも私は貪欲に寵愛を欲していた。思い切り抱きしめられたかった。いつもならうまく甘えられるはずなのに、その日はできない。「甘えるから、与えられる。」のではなく、ただ「与えられる。」ものが欲しかった。それがない。だから、寂しい。だから家出する。それだけ。

 私はいつもなら帰宅しているであろう時間に家を出た。お日様とは反対の方向にトコトコ歩いていく。絶対に追いつくことはない自分の影を追って。影は一瞬一瞬姿形を変える。その様が楽しかった。地面には黒いもう一人の自分がいて、その自分は自分の真似をする。どうにかして、もう一人の自分いできない格好をしてやろうとするが、もう一人の自分はことごとく与えられた課題をクリアしてしまう。今度はそんなもう一人を踏みつけてやろうとするが、自分が一歩前に踏み出すと、もう一人も踏み出す。

もう一人の自分は常にそばにいた。私は一人ではなかった。私は嬉しくて、だんだんと頭の部分が遠くへと伸びる私自身を追いかけた。

 民家の間を抜け、坂を登っては下り、小さな林を抜けると、そこは小高い丘になっていた。その丘の中腹あたりに一本だけポツンと樹が立っている。その樹の下に小さな白い影が見える。私は白い影に向かって駆けだす。もしもお化けだったらやっつけてやろうと意気込んでいたが、それはお化けではなく、白い大人びたワンピースを着た少女だった。

私はゆっくりと彼女に近づくと、彼女も私の存在に気づいたらしく、こちらを見ている。

「なぁに。」

彼女は丸い目で私を見て、問いかける。

「なのしているの?」

私は問い返す。

「あたしは、ママがお祈りしているから一人で遊んでいなさいって言われたの。」

「何して遊んでいるの?」

「太陽さんを捕まえているの。」

「太陽さんは捕まえられないよ。だってすごっくあっちいから。」

「あなたはばかね。毎日、太陽さんは捕まえられているのよ。だからおそらは真っ暗になって、代わりにお月様が出るのよ。ママがそう言ってたでしょ。」

「ううん。僕のママはいつも忙しいから。」

「あら。そう。じゃああなたのママは神様に会ったことがないのね。あたしのママは毎日あっているの。」

「神様なんていないんだよ。だからママは神様なんていらないもん。」

「あたしのママは毎日神様とお話しているのよ。だから、神様はいるのよ。」

「嘘つき!いないよ!いない、いない、いない、いない、いなーい。」

私がそう言うと彼女の瞳から涙がこぼれた。私は驚いた。女の子の涙は私や兄弟のそれとは明らかに違っていた。私は両親に叱られると大声で壊れたスピーカーのように泣きじゃくる。誰かが構ってくれるモデ、永遠と。やがて、泣き疲れてしまうと、眠りにつく。まさに赤ん坊のまま成長してきた。

そんな私に比べて、いま目の前で泣いている女の子はどうだ。シトシトと降る雨のように静かな悲しみがそこにある。見ているこちらまで悲しくさせてしまう涙。私のそれとは異質の悲しみ。邪な考えがなく、真っ白な雪のように無垢で一点の曇りもない悲しみだった。

「ごめんね。」

自然と口から謝罪の言葉が出ていた。私は、私が普段母にされているように、俯いた彼女の頭を優しく掬い上げて。柔らかくて綺麗な髪の毛を何度も撫でた。やがて彼女が落ち着きを取り戻しそうになってきたら

「もう泣かないの。」

と言って抱きしめる。けれども彼女の方が私よりも背が高く、抱きしめているつもりが、実際は私が彼女にしがみついているような形になっていた。

その甲斐もあってか、彼女はやっと泣き止んだ。まだ顔はまっかに高揚している。私は体を離し、彼女の手を握りしめた。

「君のママは何をしているの。どうして神様とお話ができるの。」

「ママは教会っていうところに行っているの。だから神様とお話ができるの。ママはハコがもう少し大きくなったら、一緒に神様とお話しようねって言った。」

「君はハコっていうの?」

「違うわ。葉っぱの子でハコっていうの。本当のお名前はヨウコ。」

「名前が二つなの?」

「あなた漢字知っている?」

そういうと彼女は落ちていた枝で地面に「葉」という字を書いて見せた。

「これなぁに?」

「幼稚園で自分のお名前を漢字で書きましょうって先生が言ってたでしょ。ハコは自分のお名前を漢字で書いたのをママに見せたら、ママがこれは『ハコ』って読めるねって教えてくれたのよ。」

「僕の保育園ではそんなこと先生は言わないよ。でも君の名前はハコなんだね。」

「そう。あなたのお名前は?」

「里中ゆうきです。」

私は保育園でやるように大きな声で自分の名前を言った。

「ゆうきくんは何をしているの。どこからきたの。」

「わかんない。」

「そうなの。あっ。」

私は彼女が指差す方向を見た。するとそこには大きな太陽があり、太陽は今にも大地に落ちてしまいそうになっていた。

「太陽さん捕まえられたのかな。」

「うん。」

夕日に照らされた彼女の横顔が可愛らしかった。黄金に染められた髪の毛、光輝く瞳を見ているだけで、胸がドキドキした。

「ハコー。」

はるか彼方で彼女を呼ぶ声がする。

「ママだぁ。はーーい。」

元気よく返事をした彼女は繋がれていた手をほどき、振り返って、急いで声の捨方へと駆け出して言った。彼女は何かを思い出したかのように急に立ち止まると、私の方へ向き直って、こう言った。

「ゆうちゃん。またね。バイバーイ。」

白い妖精はそのまま光の中へと吸い込まれて行った。


あの時の記憶が今鮮明に蘇った。私たちはすでに出会っていた。10年以上も前にたった一度だけ。

同じ市内で、彼女との実質の距離はほんの10数キロ程度だ。たまにはどこかですれ違ったり、あるいはこうして同じ高校に通うこともあるかもしれない。だけども、逆に一生すれ違い、二度と会うこともなかったかもしれない。

私はあの日、日が暮れても帰らず、心配して探していた親に偶然見つけられた。私は道に迷っていた。もう少しで警察沙汰になるところで、両親に大目玉を食らった。あれ以来、あの丘には一度も足を運んでいない。

もし、彼女と違う年齢だったら。もし違う高校だったら。私たちは別々の道を今も歩んでいたことだろう。私たちはきっと出会うべくして出会ったのだ。

私は彼女との記憶をあえて口には出さなかった。美しい思い出は美しいままにしておきたかった。

ハコはそんな私の頭の中で起きていることなどおかまいなしに次の話題へと移って行った。

「ねぇ。初めて話した時のことを覚えている?」

彼女は私の頭の中が読めるのかと思い、驚いた。私はあえて別の答えを口にする。

「えっと。長岡の告白のときだろう。」

「ぶー。はずれ。」

「じゃぁ、いつ?部活のときか、英語の補講の時ときかなぁ。」

「ぶぶー。またはずれ。本当に覚えていないの?」

「ごめん。」

「一年生の時よ。三学期。」

「何を話したんだっけ。」

「ほとんど会話はなかったわ。」

「じゃぁ、ハコはなんで覚えているの。」

「傘よ。」

「傘?」

彼女は何としても私に思い出して欲しいらしく、断片的な記憶の情報を小出しにしている。私は必死に記憶中枢を刺激し、つなぎ直そうと試みたがどうしても席ない。もともと昔の記憶を探るのは苦手なのだ。覚えていないものは覚えていない。

「その日は天気予報でも降水確率は低くて、日中もよく晴れていたわ。冬の澄み渡る青い空がどこまでも続いていたわ。それが、部活を終えて帰宅しようとしていたら、急に雲行きが怪しくなったかと思っていたら、あっという間に土砂降りの雨。私は一人で駐輪場で雨宿りをしていたら、そこに一人の男子が透明なコンビニのビニール傘を持って現れたの。」

「それが僕?」

「そう。その頃はお互いに顔は知っている程度よね。毎日グラウンドで顔を合わせているのだから、名前ぐらいは知っていたかもしれないわね。でも、ごめん。その頃は私はゆうちゃんの名前は覚えていなかった。とにかく、その時ゆうちゃんは、ゆっくりと私の方に歩いてきて、『はい」って言って私に自分の傘を差し出したの。私が『いいよ』って断ろうとしたら、『僕は家がすぐ近くだから大丈夫』って言って、私の手に傘を握らせて、自分は土砂降りの雨の中をさっさと自転車に乗って行ってしまったのよ。」

「そうだっけ。そんなことがあったなんて全然覚えていないよ。ごめん。」

「私、その時、この人ってとても男らしくて優しい人なんだって思った。」

「男らしい?どうして。」

「ゆうちゃんって真っ直ぐに相手の目を見て話すでしょう。それって自分に自信がないとできないことでしょう。あの時、私は初対面に近いゆうちゃんに恥ずかしくて目を背けてしまいそうだったもの。」

「別に自分に自信があるわけでもなくて単に癖だと思うよ、その癖のせいで今まで何度か女子に文句を言われたこともある。」

「でも、いいじゃない。ゆうちゃんにはその綺麗な瞳があるのだから。大きくて二重で、きっと女の子だったらすごく男子にも人気が出ていたんじゃない。私の目なんて細いし、目と目の間は離れているし、奥二重だし、ゆうちゃんが羨ましいわ。」

「僕はハコの顔が好き。きっと自分にないものは良く見えるんだよ。」

「そうね、誰でも、長所短所はあるものね。それが個性なんだものね。」

「そうだよ。今日のハコはとっても素敵だよ。着物がよく似合っていて、カメラを持って来なかったことを後悔しているところ。」

その後コンビニで使い捨てのカメラを買って、着物姿の彼女と一緒に写真を撮り、そこで今日は解散となった。このあと彼女のお母さんが駅まで迎えに来ることになっていたからだ。

帰りの電車の中で私はポケットの中にしまったままのリエさんからもらったゴムに気づき、それを電車の座席に放置して電車を降りた。


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