年末
それから年末にかけての一週間、私たちはほぼ毎日顔を合わせた。部活が終わると彼女は予備校に行き、私はバイトに行く。彼女の予備校が終わる時間に合わせて私は駅まで彼女を迎えにいく。本当は都内の駅まで彼女を迎えに行きたっかたがそんなお金も時間も私にはなかった。毎日、駅から彼女の家の近くまで歩く時間が高校生の私たちに与えられた二人だけの時間だった。
日曜日は、二人でタマヤの猫に餌をあげに行ったり、近くの公園を散歩したり、川のほとりを手を繋いで歩いたりした。時々、私たちはそっと唇に触れるだけのキスをした。熱いキスはあのアパートでのキス以来ない。
「里中君。毎日迎えに来てくれるのは本当に有り難いけど、里中君は他に何したいことはないの。」
「うーん。今僕がしたいことは、君が喜ぶことなんだよね。自分が将来何になりたいとかも特にないし、特段の趣味や取り柄もないから、これからゆっくり考えるよ。」
「もう。本当にあなたってマイペースね。羨ましいわ。」
「葉子さんはいつも頑張りすぎていないかなぁ。」
「だって、やらなくてはならないことって目の前にいっぱいあるじゃない。」
「確かにね。でも、葉子さんいつもいつも頑張り屋さんで、大変そうだよ。目標のためには仕方ないのかもしれないけれど、たまには肩の力を抜いて寄りかかってもいいんだよ。僕にもっと甘えてくれて構わない。頼りないかもしれないけれど、頑張っていてもいなくても、自然体の君が、素のままの君で十分素敵だし、僕はいつでも君の味方だよ。」
「ありがと。」
彼女はそういうと急に繋いでいた手を離して、猛スピードで駆け出した。私はすぐに彼女のあとを追う。当然、私の方が速く、すぐに追いついた。
「急に、どうしたの?」
彼女の顔は真っ赤で、目には涙が浮かんでいた。
「僕が何かまずいこと言ってしまった?」
彼女は黙って首を横に振る。
「違うの。」
「何が違うの?」
「私、いつも、学校でも、家でも頑張って来た。必死で。辛かったけど。変わるために。でも、あなたは私に頑張らなくてもいいって言ってくれて、そのままでいいって。それが、その、とても、嬉しくて。」
彼女が愛おしかった。彼女は痛いほど真っ直ぐで、純粋だ。私は彼女に大したことなど言っていない。当たり前のことを言っただけだ。そんな当たり前のことですら今の彼女には有り難いことなのだ。それはつまり、今なお彼女はずっと苦しんでいる証拠なのだ。私は改めて彼女の心が安らぐ、安住の地となれるようにあろうと決意した。
彼女のいう通り、私の時間は彼女を中心に回っている。付き合う前でも、彼女を思い続けていた時間を考えればさして大きな変化ではない。しかし、その思いが直に相手に伝わるという変化は大きい。
彼女中心の生活に私には何の不満もない。でも、それが彼女には負担になることもあるかもしれないと思い、年末は男友達と過ごすことにした。しかし、年末の忙しい時期に突然、私の誘いに応じる暇な友人などいるだろうか。
私の誘いに応じたのは、借りのあったあの兼本賢哉だった。私たちは兼本の実家で朝まで飲み明かす予定だったが、兼本は思わぬ飛び入り参加のゲストを呼んでいた。
「ハジメマシテ。マイケルです。」
差し出された彼の手は大きかった。兼本が呼んだのは、金髪の背の低い、白人だった。彼は片言の日本で自己紹介する。
「アイルランド人です。よっろしくねー。」
マイケルは兼本の姉の友人で、兼本の姉とどういう知り合いなのか、彼の拙い日本語では私は理解できなかった。無論、兼本はそれらについて何も語らず、私の反応をみて楽しんでいる。マイケルはやたら長ったらしい本名があるのだが、自分はマイケル・J・フォックスに似ているからマイケルでいいのだ。と言い張った。なかなか楽しい夜だった。一体彼が何者で、なぜ兼本と友人関係で、何歳でどこに住んでいて、仕事は何をしているのかも全て不明だった。けれど、呑んで酔うのは万国共通の楽しみだ。私たち3人は多いに盛り上がり、今年一番の忘年会をした。私にとっては忘れたくないことばかりの一年だった。
酒の入った兼本はいつもより饒舌だった。
「あの綺麗なスタイルの彼女とはどうだ。」
「ああ。上手くいっているよ。そう言えば、兼本はそう言う相手はいないのか。」
「何だ、自分がスタイル抜群の彼女がいるからって。」
「僻むな。僻むな。で、どうなんだ。」
「えーと。涼子だろ、貴子だろ、寛子だろ。」
「真面目に答えろよ。」
「まぁ。姉さんのことがあるからな。俺は姉さんが大変なのに、自分だけが楽しんでいるのも気が引けてな。」
酒が入っていると普段なら話さない類のことでも話してしまうから不思議だ。酒の力は偉大で、恐ろしい。
私は、兼本が自分の姉をただ半分血の繋がった姉以上の存在として想っていることを何となく感じ取っていた。
「別に、悪いことじゃないよな。」
彼はいつになく弱気だった。おそらく葉子さんの言うようにこっちが本来の兼本の姿なのだろう。
「あぁ。そうだな。僕はいいと思う。人の情なんて人それぞれ。千差万別。十人十色だからな。」
「そうだよな。俺は別に間違ったことは何もしちゃあいないんだ。ほんと。なぁ。」
「あぁ。分かっているよ。」
兼本はそのままウィスキーを飲んで大いに酔っ払った。マイケルは日本酒を
「美味しい。美味しい。」
といってグイグイ飲んで酔いつぶれていった。
二人が潰れると、部屋の電気を消した。時計の針は午前二時を指していた。窓からは月明かりが射している。
皆それぞれ大変なのだ。生きていくことは楽ではない。ならば、せめてこの一瞬一瞬を楽しく生きたい。私は、冬に満天の星空を眺めておそらくまだ起きているであろう彼女に無性に会いたくなった。
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